「下村・・・?」 無造作に投げ出された指先に触れて呼びかけてみても返事はなく、床の上に直に散らばった黒より幾分茶に近い髪 のなだらかな広がりは、規則正しい呼吸に合わせて密かに揺れている。それを眺めて、額に掛かる前髪を指先でそっ と除けると、思っていたよりもずっと穏やかな表情で下村は眠っていた。気づかれないようにそっと触れた頬や、暖めら れた口元は窓越しに入り込んだ陽の光に暖かく温まっている。それを少し楽しい気分でなぞりながら、いくら陽の暖か い室内でも、このままでは風邪を引かせてしまうなと思う一方、それでももう少しだけこの顔を眺めていたいという気持 ちが勝ってしまう。 では、もうちょっと、と下村に習って床に頭を落としすと、先ほどよりもっと近い位置で眺めることが出来た。 陽に透けた髪は普段よりずっと淡く、閉じた目蓋の先のまつげまでも金の色に変えている。降る柔らかな陽が心地よい のか表情は常になく穏やかで、柔らかかった。 ああ、この顔がスキだ、と思う。 目を閉じている分少し優しい感じのする顔。時々見せる、照れた様にはにかむ時の感じと少し似ている。いつもは抑え ている部類の感情が、思わず出てしまった、という感じのたおやかな、その視線の先の愛しい何かを見ているような。 その瞬間、いったい何を思い描いているのかは聞いたことはなかったけれど、下村にとって大切な何かであることはよ く分かった。 それが少し哀しくて、少し羨ましかった。 下村は見ているのは自分ではなく、おそらく自分ではもの見ることの叶わない何かを見ている。 例えこちらを見て、自分に笑いかけていても下村が見ているのは自分ではないということ。そういった時、話しかけて も返る言葉はどこか上の空だった。 だから、その手に触れれば、下村はこちらに気づくのではないかと思った。 その頬を包み込んで口付ければ、伝わると思った。 その時、下村は何も言わずに暫し驚いた顔をして、そしてそっと笑った。 やさしい顔だった。 それを見た瞬間、反射的にどうしようもなく胸が苦しくなって、泣いてしまいそうになった目元を俯いたまま乱暴に砂を蹴 って誤魔化した。下村は海を見る振りをしてそれを見逃してくれたけれど、きっと気づいていただろう。 そうして漸く顔を上げると、下村はもう一度笑った。 今でもよく覚えている。肩越しに振り返り、困った様な、でも嬉しそうなはにかんだ笑顔だった。 今、こうして眠っている顔と同じそれ。 その瞬間、確かに下村は自分は心を開いてくれた。いつもは言葉巧みに隠したままで、絶対に見せようとしなかった心 の柔らかな部分を、自分にだけそっと、手の平を開くように見せてくれた。それはまたすぐに仕舞い込まれてしまったけ れど、その時自分は本当に死にそうに嬉しかった。その時確かに、壊れて錆び付いたままだった自分の心が、まるで 生まれる前のことを不意に思い出したように解け出すのが分かった。 下村の、その、小さな微笑で、確かに自分は変わったのだと。 夢を見ているのか、閉じた目蓋の向こうの目が、微かに動いているのが分かる。それに触れてみたくてそっと指先を 伸べると、柔らかな皮膚が確かに動いている。この向こうでいったいどんな夢を見ているのだろう。 本当はその体をもっとしっかりと抱きしめたかったけれど、それをすれば起こしてしまうかも知れない。何より、この顔 が見られなくなると思うと出来なくて、こうして指先を触れるだけで我慢しよう、と思い直す。俯き加減で寝ているせいで 表情の大半は陽の光から隠れてしまってよく見えなかった。それを少しでも見えるように近づきながら、そっとまた落ち かかった長めの前髪を指先で流す。そうするとやっと大スキな顔をよく見ることが出来た。繰り返される呼吸に合わせ て少しだけ開かれた口元。それが何かを伝えようとしているかのように見えてなんだかもどかしい気持ちになってしま う。暫くそうして下村の寝顔を眺めていると、無性に下村の声が聞きたくなってしまった。こうして何も言わない、気障な 事も気に障るようなもの言いもしない下村も悪くはないけれど、やっぱり下村の声が聞きたい。柔らかな、少し沈んだ様 な声。高くもないし大きくもないのによく通る声。 ああ、早く目を覚まさないか。 そう思いながらも、自ら起こすのはやはり偲びなくて、掛けようとした声は中途半端に途切れてしまった。やはりどこか この顔をもう少し眺めていたい様な気もあったのかも知れない。下村は案外眠りが浅くて、こんな風にじっくりと寝顔を 見せることはそうはない。下村が寝コケている時は、大概自分も夢の中だ。 「下村・・・」 でも、やっぱりその声が聞きたい。その目の色が見たい。穏やかに眠る下村もイイけれど、やはりツレナイことばかり 言う下村がいい。 そういう下村が、スキだ。 「・・・なんか、恥ずかしくなってきたな」 なんで自分はこんなにも下村の事がスキなのだろうか。相手の寝顔を見ながらツラツラと考えているのがなんだか気 恥ずかしい気分になってきて、頭を抱えて目を閉じた。 「・・・どうして?」 突然聞こえた声にびっくりして顔を上げると、体勢をはそのままにジッとこちらを見ている下村の目が在った。 「お、起きたのか」 「ん・・・」 同じ体勢、同じ表情のまま、その目を開けただけの違いでどうしてこんなにも雰囲気が一変してしまうのだろうかと、 改めて驚く思いだった。それだけ、下村の目には力が有る。一人の人間が視線一つでこれどまでにガラリと印象を変え てしまうのかと最初は本当に驚いた。初めてそれに気づいたのは、下村が大怪我を負って意識を失っている時だった。 何時間も殴られ続けていたせいで確かに顔の造作自体が大分変わってしまっていたが、それを差し引いても視線を失 った下村はひどく作り物めいた人口の臭いがした。それは生命力に満ちたいつもの印象とは驚くほど違っていて、一瞬 もうこいつは死んでいるのではないかと訝ってしまったほどだ。 「下村・・・」 「ん?」 吐息を漏らして、ため息のような返事を返す下村は、完全には目覚め切っていないのか緩慢に上げた指先で目元を ゴシゴシと擦った。 「好きだ」 「うん」 スキだ、というと下村は必ずこう答える。これ以外の答えを聞いたことがない。 自分も、とかスキだ、とかは絶対に言わない。それでも否定はせず、嬉しそうに笑ったりもする。何故かは分からない けれど、どうやら絶対にそういった言葉を言ったり同意したりしないと決めているらしい。それに不満を感じない訳もな かったけれど、だからといって無理に言葉を求めたところで下村を頑なにするだけだという予想が容易に出来るのであ えてそれはしないでおく。下村もなんとなく自分をそういう風に見てはくれているのが分かるからだ。今はそれだけで十 分だったし、それ自体がひどく稀有なことであるとよく分かっていた。 「好きなんだ」 「うん」 「ずっと一緒に居たいよ」 「そうか」 きっと人が聞いたらこんなことばかりを言う自分を滑稽だと笑うかもしれない。それに答えない下村を冷たい男だと言 うかもしれない。でも、あまりにも下村のことばかりを考えすぎて、言葉は自然と口をついて出てしまうのだ。 そして、下村は笑うのだ。 誰にも見せず、大事に仕舞っておきたくなるような、とてもとても優しくて、柔らかくて、寂しい顔で笑うのだ。それを見 て、一体どうして下村が同じ気持ちでないと言えるのだ。 「暖かいな」 「そうだな」 少し目を細めて笑う。温まった空気がそうして笑うだけで、まるで癒すように自分を包むのが分かった。 答えられないことを、下村がずっと気に病んでいる事は知っている。それでも自分はそこへは踏み込めない。 そこは、下村だけの場所なのだ。 「もう少し、寝ていよう?」 呟いて、目を閉じる。途端に周りの空気がまた変わる。 なんだか、雲の中にでもいる気分だった。 「うん。・・・なあ?」 「ん?」 半分眠りに落ちかけた声が答える。本当に眠いのだろう。 「手、つないでいいか?」 目が開く。また、空気が一変する。ジッこちらを見る目の中には何も読み取れなかった。 でも。 「風邪引かせちまうな・・・」 否定の言葉はやはり聞かれず、目に掛かる前髪を軽く払いのけながら下村は呟いて目を閉じる。そうして伸ばされた 手に、包むように手を掬われた。緩く握りこんできた手は、眠りの淵でとても暖かかった。 「暖かいから、大丈夫だよ」 「・・・そうか・・・?」 目を閉じた下村は、あの、大スキな笑顔を浮かべてそう呟いた。 終 |