からっぽ
















 空気が凍った夜だった。
 フト隣を見ると、まるで蓑虫のように丸くなって寝ているので、何だか可笑しいような、可愛いような気分で毛布をもう
一枚掛けてやり、そっとベットを抜け出した。拍子に動いた布団の波に少しだけ吐息を乱すので、慌てて誰も見ていな
いのに口元に人差し指を当てて見せた。その効果かどうかは知らないけれど、どうにか呼吸は穏やかに戻り、ほっと息
を吐いて寝室の扉を閉めた。
 途端に人の気配の消えた部屋の空気に放り出され、なんとなく心もとない気分になりながら、キッチンのカウンターに
放り出されたままだった瓶を手に取った。月明かりの中ででも、どうにかラベルの名前を読み取って、それが喉を焼く酒
であることを知りながら、目一杯喉に放り込んだ。途端に本当に火の塊でも飲み込んだように喉が焼け、次いで腹の底
に火が灯った。それを心地よく感じながら、今度こそ空になってしまった瓶を放り出し、だらりと手足を放り出してソファ
に体を投げ出した。
 カーテンも掛けていない窓ガラスから、直に冷気が入り込み暖房設備の乏しい室内を容赦なく冷やしているにも関わ
らず、腹の底から温まった体はちっとも寒さを感じずに、それでもこれでは風邪を引くかも知れないと、人事のように思
ってみた。でも、だからといって動くのも面倒で、そのままだらりと投げ出した手で肩を抱き、暖をとる獣のように上半身
だけ丸めてみた。しかし伸ばしきった足先から色は白くなり、酒の効果もまだそこまでは届かないようで、裸足の足先が
微かに痛んだ。
 でも、死ぬわけじゃない。
 そう思うと、本当に動くのが億劫で後はどうにでもなれと目を瞑った。
 夜の空気は凍ったように鋭く軋む。
 そっと目を開けた先では、吐き出した息が白く撓んでいた。それが何か柔らかなもののようで、密かに気持ちが優しく
なる。
 ああ、自分もまだ暖かいのだな。
 当たり前のことをしみじみと思っては、そんな自分に少し呆れて顔が笑いに引きつった。
 酒が段々と足先まで降りて行き、先程までの痛みは感じずにジンとした痺れだけが指先に残る。それが懐かしい何か
を思い出させて、一体それはなんだったろうかと目を細めて考えた。
 何か、ものすごく大切な何かを見つけた時の感動。どうしようもない愛しさで溢れた時の心の昂り。そんな時、決まっ
て指先がジンと痺れて驚いた。
 それになんだか似ているな。
 穏やかな気持ちが、まるで体まで暖める様に肌を包んだ。
 それが嬉しく、でもどこか切ない様でもう一度目を閉じる。
 目蓋の表面に感じる空気や降り注ぐ月の灯りをなぞりながら、薄い布越しに改めて自分の体を抱きしめた。
 生きている間は、生きていなければならない。たとえ、箱の中身がからっぽでも。

「下村?」

 不意に掛けられた声に、驚いて振り返る。
 寝室の入り口には、坂井が体に毛布を巻きつけたままで立っていた。
 全然気づかなかった迂闊さに暫し呆然とする。坂井はゆっくりとソファを回り込み、右隣に腰掛けた。
「また、そんな格好で。風邪引くぞ」
 そう言って、巻きつけていた毛布を開いてその中に招き入れられた。やはり体の表面は凍えていたようで、肌の緊張
が解けてざわめいた。
「お前、すごく冷たいぞ。何時からこんな所にいたんだ」
 ぎゅうと肩を引き寄せられる。怒ったような坂井の声が、暖かく耳元を掠めた。
 その暖かさが、不意に心の奥底の、気づかなかったどこかへぽつりと落ちた。
「・・・嘘だよ、そんなの」
「嘘って・・・何が」
 見上げれば、困惑した坂井の目と合った。夢の続きの様な黒い目が、月明かりで輝いている。それに見惚れて、目が
離せなかった。
「空っぽなんかじゃない。だって、手が痺れるんだ」
「下村・・・?」
「だって、まだ暖かいんだ」
「・・・当たり前だろ。お前、暖かいに決まってるだろっ」
 さっきよりも、もっと強い力で抱きしめられた。なんだか、坂井が泣きそうな顔をする。
 止めてくれ。お前がそんな顔をすると、どうしてかこっちまで泣きそうになるんだよ。
 言おうと思っても、肩口に顔を押し付けられて言葉が上手く出なかった。仕方がないので、坂井の背中にしがみ付い
た。それに答えるように、一層に体を縛められる。眠りに上がった体温が、染み込む様に柔らかかった。
 坂井の暖かさは、まるで強い酒みたいに手足を痺れさせた。
 びっくりだった。そうだ。そうだった。ずっと、そうだったんだな。
「俺の中、お前でいっぱいみたいだ。からっぽじゃねえ」
 漸く出た声は、くぐもっていてとても聞き取り辛かったろうに、坂井はそれに答えるように耳元や、頬にくちづけて来
た。
 そして離れて改めて向き合った坂井がまた泣きそうな顔で、どうしようもなく切なくなった。
「お前の中に、俺が、いるのか・・・?」
「坂井・・・?」
「俺のこと、好きか・・・?」
 問いかけの声は、まるで震える子供のようにいたいけだった。
 なんで、そんなことを聞くんだろう。
 どうして、そんなに泣きそうなんだ。
 お前が悲しそうだと、嫌なんだ。こっちまで泣きそうになるんだ。
 だから、そんな顔しないでくれよ。
「お前だけだよ」
 じっと濡れた目を見続けた。零れ落ちそうな憂いが綺麗だと言ったら、咎められるだろうか。
「お前だけでいっぱいだよ。・・・坂井が、好きだよ」
 だから、笑ってくれよ。泣かないでくれ。 
 それなのに、言葉を選び間違ったのだろうか。坂井は今度こそ本当に涙を零して頬を濡らしてしまった。
「なあ、泣くなよ」
 パジャマの袖で、涙をごしごしと拭う。それでも後から後から零れるので袖はあっと言う間に湿ってしまった。仕方なく
目元の涙をくちづけで拭った。
「俺は、お前を泣かしてばっかりだ」
 目を閉じてしまった坂井の額に、こつりと額をつけて呟く。余りに近くて焦点の合わない坂井の目が、驚いたように見
開かれた。
「下村」
「俺が居なければ、お前も泣いたりしないのかな」
「何言ってんだっ」
 突然肩を強く掴まれて驚いた。坂井が泣きはらした目で、こちらを睨んでいる。
「何言ってんだよっお前が居なかったら、俺は・・・」
 落涙で乱れた息が苦しそうだった。そっと頬を撫でると落ち着いたように息を落ち着け目を閉じた。
「ひとりで凍えて死んじまう」
「坂井・・・」
 そっと手を握られて、その口元へ導かれる。指先に触れた唇の熱さに手が震えた。
「どこへも、行かないでくれ」
 まるで懇願するような声色に、どうしていいか分からなくなる。
 何故坂井は、こんな風に求めるような言葉を言うのかが分からない。
 何故。
「ずっと、傍にいてくれ」
 そうして開かれた目の切なさに、胸が痛くなった。どうして坂井はこんなに悲しそうな目をするのだろうか。
 何故。
 疑問ばかりが胸を突く。分からないことばかりなのに、それでも結局は坂井を悲しませているのが自分であることは
確かなのだ。
  それが何よりも心を痛ませて困った。
 こんな自分は、初めてだ。
 相手の涙に涙する。切ない目に胸は痛んだ。
 いつの間にか入り込んだ坂井の心の欠片に、戸惑った。
 馬鹿だ。今頃気づいたって。
「坂井」
 呼びかけに、真摯な視線が与えられる。その強さに怯みそうになる。怖いほどの真剣さに、今まで気づかなかった自
分が馬鹿だったのだ。
「俺は、お前が愛しくてたまらないよ」
 言って、軽く閉じたままの唇にくちづけた。
 最初は微かに触れて。徐々に深くその先を求めるように。
 最初は呆然とされるままだった坂井が、突然に腕を伸ばして手を引かれる。あっという間に体は巻き込まれ、ソファの
上に押さえ込まれた。こちらから仕掛けたくちづけなどとは比べ物にならないくらいの激しいくちづけを何度も繰り返し与
えられ、仕舞いには呼吸が上手く出来ずに知らず涙が目元から溢れた。
「下村・・・」
 それを先程したように唇で拭われ、名を呼ばれ、苦しさに閉じていた目を開くと、目の前に坂井の黒い目があった。
 憂いの目。でもその輝きは心を奪う。
「好きだ。ずっとずっと好きだった。言ってお前を失うくらいなら、たとえお前の中に俺がいなくてもいいと思ってた。で
も・・・」
 ずっと、寂しかった。
 直接に耳元に吹き込まれて、戦慄く体が更に震えた。何時の間にか触れ合った肌がぬくもりと呼ぶには熱過ぎる熱を
直に伝える。それに気が遠くなりそうな悦楽と行き場のない愛しさを覚えて再び指先が甘く痺れた。
「心が欲しくて、堪らなかった・・・」
 再び坂井が落涙する。瞬きの度に零れる雫が降りかかり、驚くほど暖かな雨が頬を濡らした。
 心など、もう自分には残ってない。誰かにやれるものなど何もない。だから本当は自分の心情に気づいていながら、
あえて言葉にしたことはなかった。自然な成り行きでこうして肌に触れるようになっても、坂井も何も言わなかった。厳し
い素振りで本当はずっと優しい男だ。瀬戸際でもがく自分を憐れと思って、そのあまりある優しさを分け与えてくれてい
るのかも知れないと思った。
 それに甘えて、からっぽのままでまどろんでいた。
 いつか打つ砕かれるなどとは思わずに。
「下村・・・」
 見下ろす目には、もう、憂いの黒ではない。柔らかな愛しさが溢れ出て涙になる。
 その美しさにまた見惚れ、出来うる限りの優しさで微笑んだ。
 









 俺も、ずっとお前の心が欲しかったよ。















 終














片思いでジリジリしてるのも大好きだけど、
やっぱり両想いでラブいのが大好きですv