開け放たれた窓から風の入るのに任せてはためく筈のカーテンはそこにはなく、眼下の海は目前まで迫る勢いで意 識を覆った。光が眩しく虹彩を焼きつけ黒い斑点を視界に残す。その様を鳥瞰図の様に眺めながら、坂井はキッチン から流れ出す密かな音の繋がりを聞き、穏やかに目を細めた。穏やかな春の昼下がりだった。 「お前、食べられないものないよな?」 キッチンから不意に話しかけられて、意識を飛ばしていた坂井は一瞬答えに窮してしまう。不振に思ったのか声に続 いて追いかける様に下村がカウンターから顔を覗かせて首を傾げた。 「坂井?」 手には片手なべが握られている。今日は下村が昼食を作ってくれる約束だった。 「あ、ああ。大丈夫だ」 そのナリに心拍数を跳ね上げながら、それでも穏やかに答えると下村はちょっと不思議そうに笑って、首を引っ込め た。それをひどく愛しい気持ちで見送りながら、そんなことがまるで日常の様になっていることに気恥ずかしさを感じて 坂井はもう一度窓の外へと目をやった。 昼には少し早すぎる時間の風が幾分冷たい空気を運んできても、それはもう爽やかな涼しさでしかなく、心地よい感触 で坂井の髪を乱した。そうして一時途切れた音がまた再開されたのを安堵の気持ちで聞き取りながら、こんな風な穏や かな空気を坂井はひどく不思議な気分で感じていた。 草々騒ぎが日常というわけでもなく、たまに起きる喧騒も揉め事とも言えない小さなことばかりで返って暇を持て余して いるような毎日にあって、それでも身の内に染み付いたある種のきな臭さが抜けないのは事実だった。人が死んで、そ れを見送って。そんなことが何度続けば、自分はこの穏やかな日常の繋がりを本当の意味で日常であると言うことが 出来るようになるのだろうか。少なくとも、今はまだ無理だ。それは分かっている。それを恐れる気持ちはない。それで もこんな風に穏やかな日には、このままこの空気が永遠であれば良いなどと考えてしまうのだ。 下村が、のんびりと料理を作り、自分はそれをボンヤリと待っている。そんな日常。 そんな、春の日の穏やかな日常。 「坂井、ちっと手伝って。」 「あ、ああ。」 キッチンにこもったままの下村の声が小さく届く。もう大半の事は出来ても、料理のような細かな作業になるとまだどう しても不便が出てしまうのだろう。時々、下村は坂井にだけそういったちょっとした事を手伝うのを許した。元々、あまり 人を呼んだり招かれたりはしない男だが、それでもたまに尋ねてくる桜内や高岸や宇野に手伝わせている話は聞いた ことがない。それが少々の優越感でもって坂井を喜ばせた。甘えてくれていると言えなくもない。 カウンターで区切ったキッチンに入ると、下村は先ほど覗かせた片手なべの中身をグルグルかき回しているところだ った。 「悪いけど、パスタ上げてくれるか?」 丁度い良いタイミングで、キッチンタイマーがチリチリと鳴った。それを左手で止めて、下村は既に用意していたザル の様なものを坂井に差し出した。 「これにな。」 「ん。」 受け取りながら、なべの中身を見るとミートソースだった。 「・・・ミートソース」 「ん?ああ、そう。お前、好きなんだろ?」 そんなこと、下村に言ったことあっただろうか?いや、そんな話はをした覚えはない。 そこでふと、随分前、下村がこの街に住みつくかどうかはっきりしなかった頃にいつもはコーヒーを飲むばかりのレナで の会話を思い出していた。 あの時も、こんな風に天気のよい日だった。車を機嫌よく走らせて、戻りの際にいつもの日課で、レナへ寄った。そこ にはたまたま下村が来ていた。 下村はテラスに近いテーブル席に座って、小さく手を上げて挨拶をしたものの、こちらへ来る様子も、立ち入られたい様 子もなかったので坂井も珍しく遠慮して下村の方へは行かずに、いつも座るカウンターのスツールへ腰掛けた。それを ちょっと不思議そうに見ていた菜摘にコーヒーを頼み、同じくカウンターの端で何か書き物をしていた安見に声を掛け た。 「宿題か?」 何やら一生懸命ノートに書き込んでいた安見は小さく息を吐くと書いていた手を止めて、ペンをぽいっと投げ出した。 「の、様な物。どうでもいいようなレポートだけど、やらないわけにはいかないのよね。」 そうしないとお店手伝わせてくれないんだもの。小声で言ってぺロッと菜摘には見えないように坂井に舌を出して見せ て、思わず笑ってしまった。随分大きくなったといっても、そうしているとなんだか小さな女の子の様だった。 「ね、坂井さん。私、コーヒーはまだまだだけど、パスタなら結構上手く出来るようになったのよ?」 パタンとノートを閉じながら、安見は乗り出すようにカウンターにひじを付いて目をキラキラさせた。つまり、今食べてい け、と言いたいのだろう。それに苦笑して、確かに昼前で何も食べていないのだし、安見の自信作をご相伴しようと、と いう様なことを言った。 「坂井さんはパスタは何が好き?」 「俺?・・・ミートソースかな。」 それを聞いて、安見はがっかりしたように眉を下げた。どうやら今のところパスタのメニューはナポリタンに限られてい たらしい。それを元気付けながら出してもらった安見のナポリタンは本当においしくてびっくりした覚えがある。素直にそ う言った坂井に、安見は本当に嬉しそうにありがとう、と笑って、坂井さんはどうしてミートソースがいいの?と言った。 「子供の頃、スパゲッティって言うと、それしか知らなかったからかな。味覚が成長してないんだよ、俺は。」 そう、答えると、安見と菜摘がくすくすと笑った。坂井さんらしい、と。 それだけだ。その話をしていた時、下村は終始海ばかりを見ていて、こちらに全く興味などない様子で、チラッと位は こっちを見てもいいんじゃないかと思った覚えがある。 聞いていたのだ、あの時。あんな些細な会話を覚えていて、下村は。 うわぁー。 それが喜びなのか、感動なのか分からないが、坂井は髪が逆立つのではないかと思うほど自分の感情が高揚する のが分かった。もしかすると、顔が真っ赤かもしれない。あまりの幸福感に鳥肌が立つのは初めての経験だった。 二人と会話をしながらも、少し離れた下村のことばかりを考えていたあの時、下村も自分の事を気にかけていたのだ ということに、あまつさえそれを覚えていて作ってくれるなど信じられない。その事にどうしようもなく心が浮ついた。 そんなことを思いながら驚きに動かなくなった坂井に下村は不審そうに眉を顰めた。 「坂井・・・どうでもいいけど、麺が柔らかい方が好きなのか?」 怪訝そうな下村の声にハッとして、坂井は慌てて湯気の立つ鍋を持ち上げた。 「あっ馬鹿!坂井っ」 慌てた下村の声は、指先にチリリと感じた痛みとほぼ同時だった。 「っあつ!」 思わず落とした鍋が、コンロにぶつかってひどい音をたてた。しかし幸い鍋の中身は零れなかった事に安堵して、ふ ーっと息をついた坂井の手が、いきなりがしりと掴まれた。 「馬鹿!何ぼさっとしてんだよっ早く冷やせ!」 そのまますごい力で勢いよく落ちる流水に手を突っ込まれる。それが思っていたよりも冷たくてびくりと体が震えて思 わず上向いて息を吐いた。 「悪かった。」 言おうとした言葉は、何故か下村の口から零れた。悪いのは自分であるのに、そんな事を言われて驚いて下村の方 を見ると、真剣な面持ちでされるままになっている坂井の手を見ていた。 「痛くないか?」 ひどく心配そうな下村の声に、坂井は痛みよりも嬉しさや愛しさといった感情の方が強くて、痛みなど本当にどうでも いいのだ、お前がそんな風に言うのならと思わず激情に任せてクサイセリフを口走りそうになるのを危うくこらえた。 「大丈夫、痛くないから。ごめん、麺が柔らかくなっちまうな。」 「・・・お前がいいなら、どっちだっていい。俺は。」 何の戸惑いもなく事も無げにそんなことを言うのだ。下村は。危うく昏倒しそうになるのを留まって、本当に今日はなん ていう日だと訝った。冗談じゃない。こんな日は日常とは言えない。それでもこんな幸福な非日常ならば大歓迎なのだ が。具にも付かない事をぐるぐると考えながら、浮かれた気分のまま下村の耳元に口付ける。下村はくすぐったそうに 首をすくめたが、何も言わなかった。どうやら坂井の手を冷やすことが最優先で、その他の事まで気が回っていないら しい。 「もう大丈夫だ。お前、濡れるぞ。」 勢いよく水を出しすぎたせいで、手前のステンレスの縁までびしょ濡れになっているのに気が付いて言ったが、既に下 村のシャツは濡れてしまっているようだった。 「大丈夫じゃない。商売道具だろ、使えなくなったらどうするんだ。」 やはり真剣な顔でそう言われて、やに下がった坂井が反論できるはずもなく、兎に角坂井にとってはなんとも嬉しい状 況であることには変わりないので、手を取り戻すのを諦めた。 「俺がさ、下村。」 「ん?」 なぜだかひどく穏やかな気分で囁くように呟くと、水ぶくれにならないか気になって仕方ない様子ながらも下村が短く 頷く。それを増して優しい気持ちで見つめながら、今度はこめかみに口付けた。下村はやはり嫌がる様子を見せない。 「どうして、ミートソースが好きだって?」 「・・・嫌いだったのか?」 「いや、そうじゃなくて。」 あっさりそう返されて、坂井は慌てて否定する。誤解されたら、二度と下村のパスタが食べられなくなる。 「下村が、俺の好みとか・・・知っててくれて、すげぇ嬉しい。ありがとう。」 そうして、今度こそ確実に真っ赤になっているだろう顔を隠すように頬に口付けた。そんな様子に振り返った下村は坂 井の顔色にちょっと目を瞠って、それから吐息を吐くように鮮やかに微笑んだ。 それに見惚れて坂井はアホの様に口を開けたまま、何も言えなくなってしまう。 下村が笑った顔を見たことがないわけではない。でも、こんな風に光が射した様な笑顔は初めてだった。日の射さな い冷たい部屋に、不意に入り込んだ朝日の様な、葉の隙間からもたらされた春の恵みの様な。 所謂全開の笑顔に硬直している坂井に、下村は止めの様に唇に口付けて同じく指先にも唇を落とした。 「だから、俺はお前の傍にいるんだろう?」 そう言って、今度は少し意地の悪そうな顔で笑って見せた。それもまた坂井を赤面させるに十分な笑顔であったのだ けれど、それを誤魔化すよりも今は下村の言葉の意味を確かめたくて、濡れた手を慌てて自分のシャツで拭ってから、 その体を抱きしめた。 「俺の一番好きなものも、くれるって事?」 引き寄せた耳元に口付ける勢いで囁きながら、下村の腰へ手を腕を廻す。冷えた腕には下村の体温は熱いくらいだ った。多分下村は逆に坂井の手を冷たく感じているはずなのに抵抗しようとはしなかった。それを幸いに、今度はお返 しとばかりに深く口付けた。 「っ・・・くれてやってもいいけど・・・」 だんだんと深くなる口付けの合間に漏れる下村の声が切れ切れに歪んでいる。それに急激に煽られて、坂井は下村 のシャツに手をかけた。 「それより今は、飯を食え。」 先ほどとは打って変わってはっきりとした声で、かけたその手をバチンと叩かれる。そこですっかり忘れていたパスタ の存在を思い出し、坂井は慌ててそちらへ目をやった。 「あーあ・・・。」 しかし茹で頃をすっかり過ぎたパスタは、既にぐったりと鍋の中で沈んでいた。 「・・・大好物のミートソーススパゲティを、思う存分食ってくれ。」 どうやら折角のパスタを台無しにされた事に、今更ながら静かに腹を立てているらしい下村が、うどんに近いかもしれ ないけどな、と少し意地悪そうに呟いた。 終 |