それは安易に訪れず
















「なー下村ー」
「何だ」
 秋の夕暮れ時は明かりのないリビングを赤く染め、そこにいる人影を一心に照らしている。
 その中でごろりと転がりながら、坂井は座り込んで何か雑誌を捲っている下村に匍匐前進で近づき、ツンッとシャツの
裾を引いた。その仕種はいつもの老成した様相か、チンピラのような不遜さしか知らない者が見たならば、ショックで2・
3日口を聞けない日が続きそうな素振りだった。しかしそれを目撃し得たのは、こんなことばかりをすると知っている下
村しかおらず、その対応もいたって冷淡だ。しかし慣れていると言う点では坂井も同じく、言葉尻の冷たさなどお構いな
しといった体でじっと下村を見やるのだった。
 「なに?」
 今度は視線を投げて、坂井を見下ろして言う。どうやらそうしないと話が続かないことに慣例で気づいたからだ。
「買い物行こーぜ、買い物」
「…は?」
 坂井が突拍子もないことを言い出すのはこれが初めてのことではない。どちらかというとこんな風に突然言い出して
は下村を困惑させるのが常だった。
 下村はまたかとため息を漏らした。
「なんの?買うものなんてあるのかよ」
 多分、反論しても結果は見えていたが、一応反抗してみる。坂井は何やら不服そうに眉を顰めると、視線を雑誌に戻
そうとした下村を目ざとく見咎めてもう一度、今度は強く裾を引いた。
「ビール」
「ビールなら、流しの下にあるぞ」
「じゃあ、ウイスキー」
「それは上の棚」
「…焼酎」
「テーブルの上、見てから物を言え」
「じゃあなんならいいんだよ!」
 冷静に答える下村に、たまりかねたようにガバリと上体を跳ね上げ声を荒げた。
 それに呆れたようにため息で返す。
「…質問してるのは俺だぞ」
 危うく逆切れ寸前の坂井に水をさす。それにハッとしたように坂井は腕立てよろしく突っ張っていた腕をがくりと折れさ
せうつ伏せた。そうして何やら呪詛のような言葉をぶつぶつと口の中で呟いていたが、あえてそれは無視した。
「……」
「……」
「……」
「……」
「…つまり、買い物という行為自体に意味があるって言いたいのか?」
「っそ、そうそう!」
 下から恨みがましい視線を送られながらの沈黙に耐えかねて、渋々同意を求める。それに坂井は飛び跳ねんばかり
に喜んで賛同した。しかしだからといって坂井の言う通りの行動をとってやるほど親切ではなく、どちらかと言うと天邪鬼
を自覚する下村は、嬉しそうに体を起き上がらせては近づいてくる坂井の顔を大げさな仕種で押しやった。
「それなら尚更、行かないぞ。俺は」
 先ほど風呂に入り、義手を外してやっと一息ついては一杯やっていたところへこれから買い物へ行こうと言われても、
同意できるものではない。相変わらず行動の読めない坂井は期待した答えが得られず、拗ねたように膝を抱えて背を
向けてしまった。
「なんだよ、買い物くらいちょっと一緒に行ってくれても、バチはあたんねえだろ…」
 やはりぶつぶつと独り言を言っている坂井の背を見ながら、どうしてこれはこんなに自分の理解の範疇を超える問題
ばかりを突きつけてくるのだと、よっぽど後頭部をどついてやろうかと思ったが、それをぐっと堪えて何とかため息を漏
らすに止めた。しかし坂井はそのため息でさえ気に入らないと言うようにぐるりと首を廻すと、下村を横目で睨んでき
た。
「…なんなんだ、一体」
 理解しようとは思わないが、一応の譲歩は試みてもいい。どうにも甘い自分に呆れながら、それでもこんな風にどうに
か自分に理解求めようと躍起になる坂井は嫌いではなかった。
 それだけ、自分に関心があるということだ。それは決して気分の悪いものではない。
 そんな風に思う時点で、坂井に負けていると言う自覚があって、それは悔しいような気もしたがそれに勝る優越感や
幸福を貰っているのだという自覚もまた、ある。そんな風に甘やかすことにやぶさかでもないと思えば、ここで意地を張
るのも馬鹿らしい気がした。
「…手、な」
「手?」 
 そうして下村の甘やかしてくれる気配を敏感に感じ取った坂井が、ちょっと勝ち誇ったような表情を浮かべたのが気に
入らなかったが、その後に今度は無邪気な様子で笑うので、下村は黙って坂井の言葉を聞いてやる。そうするとますま
す気色満面といった様子になる。まあ、これと引き換えならば仕方がないと覗き込むように話す坂井の言葉を待った。
「手をな、繋いで行こうぜ!」
「…は?」
「だから、手を繋いで、買い物に行こう!」
「なんだって?」
 上手く理解が得られないことに焦れたのか、坂井は目を点にしている下村の右手を取って、指を交互に絡ませると大
きく左右にぶんぶんと振り回した。
「だ・か・らっ 手を繋ぐために、買い物に行こうって言ってんの!」
 つまり、手段と結果が入れ替わった結果が、先の会話に繋がっているらしい。漸く坂井の言いたい事を理解して、下
村は今度こそ盛大にため息を漏らした。

















「なー下村ー」
「何だ」
 奇しくも事の発端となった会話の初めをなぞる様に言葉を発するも、それは幾分趣を異なったものだった。坂井は煩
く付いて回る犬の体で下村にまとわりつき、下村はわき目も振らずにずんずんと道を急いでいる。一見仲の良い友人
同士の買い物帰りの一場面だ。しかし実際は二人は恋人同士であり、一方は不満を漏らし、一方は事の下らなさを嘆
いている真っ最中だ。
 そして二人の両手には――正確には両手と片手には――ビニールの取っ手が今にも引きちぎれんばかりにビール
の詰った買い物袋が携えられていた。
 結局坂井の駄々に折れた下村が、買い物に向かった先は、行きつけの酒屋だった。
 しかし、今日その酒屋では特売をやっていたのだ。そして坂井は特売が大好きだった。
 それこそ我を忘れた様子で酒を買い込み始めた坂井に、下村は言いたいことがいっぱいあったのだ。あたのだが、
あえて沈黙を守った。そうすることによって幾分かの安心が得られる可能性を信じたのだ。結果、坂井の要求は素気
無く却下され、下村は勝利を収めたかのように思われた。が、その後に待っていたのが、延々と続く坂井の不満の嵐だ
った。
「手ー繋ごうぜー」
「…どの手を?」
 坂井は両手が塞がっているし、言わずもがな下村も右手が塞がっている。一体どこの手を使えと言うのだこの馬鹿
は。あまりの馬鹿さ加減にそれ以上罵る気にもなれず、下村は突き出した顎を自分の肩に乗せようとしている坂井を
睨んでそれを退けた。いつもの坂井であればそれでもしつこく纏わりついては下村に鉄拳制裁を(それは正に鉄拳に近
い様相を呈していた)食らっていたのだが、流石に非があることを自覚しているのか大人しく引き下がった。それをため
息で見やって、下村は危うくビニールから零れ落ちそうになるのを慌てて引き上げた。
「手…」
 自覚はあっても諦めは付かないらしい坂井が、背後で小さく呟いた。それを聞きとがめて、本当ならばここで文句の
一つも言ってやらなければ気の済まないところであったが、口を開きかけて振り返った先の坂井の顔があまりに情けな
くて面白かったものだから、下村は思わず噴出してしまった。
「…なんだよ」
 瞬間的にそう返した後、下村を直視した坂井が暫しあっけに取られてぽかんと口を開けて黙りこんでしまったものだ
から、下村は余計に可笑しくなって今度こそあわやビールを転がさんばかりに声をたてて笑い転げた。
「なんだよ!」
 しかし流石に黙っていられなくなった坂井が、噛み付くような勢いで下村に詰め寄っても、余計に下村の笑いを煽り立
てる結果にしかならず、苦虫をかんだ様な顔で坂井は黙ってしまった。よほど自分の失態を悔いているらしい坂井が、
下村は可笑しくて、でもやはり可愛いと思ってしまって、そんな自分はもう、いい加減オカシイと思うものの本当にそれ
は悪くないのだと思ってまた笑った。
「さ、坂井…」
 なんとか強烈に湧く笑いの発作を腹に収めながら、今度は前を歩き出してしまった坂井を呼んだ。それに憮然とした
顔で、でも無視もできずに坂井は振り返る。そんな風な坂井がまた愛しくて、下村は出来るだけそれが伝わるように微
笑んだ。
「なに…?」
 今度は馬鹿笑いではなく、穏やかに笑う下村に坂井は嬉しそうにいそいそと並んで歩調を合わせた。隣に近寄った坂
井に、下村はもう一度笑いかけ、辺りの人目に不自然にならない程度にその耳元にくちびるを寄せ絶対に他には聞こ
えない声量で囁いた。
「―――……だろ?」
 ぼんっと音が出そうな勢いで、夜目にも鮮やかに坂井の顔が赤に染まった。それが可笑しくてまた笑いの発作が到来
しそうになったが、それをぐっと腹筋で堪え、下村は止めとばかりに驚きと羞恥と歓喜に見開かれた目に微笑んだ。本
当はくちづけの一つもしてやりたいところだったが、それは流石に手控えた。
 こんな風に常に理解を超えることを言ってみたり、してみたり、その上それが空回ったりする坂井を心の底から本当
に馬鹿だと思う。それでもその我侭や子供染みたやり口が、全て自分一人に向けられるものだと思えば、結局は本気
で腹など立てられようもないのだ。
こうして自分の方から欲しがるくせに、一方でこんな言葉一つで動転する坂井を見ていると、どうしようもなく愛しく思う。
それは今まで感じたことのない、穏やかで、でも平熱にもなり得ない暖かさでこの胸を焦がす。それがあまりにも心地よ
いものだから、失いたくないなどと柄にもなく思ってしまうのだ。
「さあ、家へ帰ろう」
 これからのことを想像して、酷く無口になってしまった坂井の背を優しく押し、この幸福な家路を少しだけゆっくり辿ろう
と坂井には気づかれないように小さく微笑んだ。


































シモムー坂井大好き大作戦。
ちょっと坂井可愛い週間突入気味です。
しかし、こんなん夜中に嬉しそうに打ってるタケって一体・・・。
下村が坂井に囁いた言葉をお知りになりたい方は、メールでご一報下さい(笑)。
大体予想は付くと思うけど。ははは。笑っとけ。