heavenly


















 初めて触れた夜のことを、今でもはっきりと覚えている。長い間雨に打たれた頬の冷たさに驚いて、どうにもならないと
知りながらそれでも伸ばさずにはいられなかったその手に、触れた肌は予想に反して従順だった。そしてこれは現実で
あると確信しながらも、気持ちの高ぶりにどうしても震えてしまう自分の指先が、酷くみっともないと思った。けれどそん
な俺の手をとって、まるで励ます様に柔らかく握り返してくれた。その手の暖かさを今でも忘れない。その瞬間の、体の
中を何かが荒れ狂う様な、それでいて酷く凪いだような甘やかな痛みを本当につい先ほどの様に思い出せる。
 そうして少しだけ微笑んだ下村の、どうしようもなく愛しい顔さえも。








  降りしきる雨の中、岸壁にポツリ一人で佇み、いったい下村が何を考えていたのかは分からない。聞く気もなかった
し聞いた所で返る答えがあるわけもなかった。それでもただ、確かなことは本来なら自宅へ戻りぐっすりと眠り込んでい
るはずの時間帯に、下村はぼんやりと海を眺めているということだ。
 あの岸壁から、あの海を。今はもうない小さな診療所を背負って、雨を全身に浴びながらそれでもただ黙って海を見
ていた。
 そして俺はそれを黙って見ているしかなかった。下村の中のいったい何がそうさせていようとも、自分にそれを妨げる
権利など微塵もないこと知っていたから。だから、何も言わず馬鹿みたいに突っ立って見ているしかなった。
 いつか下村が、振り返ってこちらを見るのではないかと期待しながら。
 下村はただじっとしていた。昼にも関わらず曇天のそれは暗く、日が暮れかけの様に足元もおぼつかない。しかしそ
れを気にすることもなく、果たしてどこまで見渡せているのかも分からないようなそれをただ眺めている。そして俺はそ
んな不審な男を更に眺めているもっと不審な男でしかなった。
 それでもその時俺は、そうすることしか、出来なかった。
「風邪、引かせちまうな」 
 小さく、下村が呟いた。幸いにして凪いだ風はその言葉を散さずに、正確に俺の元へ届けてくれた。しかしそれが本
当に下村の言葉であるのか、それとも期待に胸を膨らませすぎた俺の幻聴であるのかは定かではなく、確かめられな
いまま言葉の隙間は開く一方だった。
「早く、帰った方がいい」
 しかし漸く続けられた言葉に、それが下村の声であると確信することが出来た。
「お前も、風邪、引く」
 上手く言葉を綴るつもりが、思いのほか凍えていた口元に遮られて酷く片言のみっともないものになってしまった。そ
れでも下村は気にする風もなく、俺が望んでいた様に漸く振り返った。だがその顔は予想していたような無表情ではな
く、心持ち微笑んだ具合の、穏やかな表情だった。それでもそれは、普段見せる笑顔とは程遠く、俺の胸を堪らない痛
みで苛んだ。
「じゃあ、一緒に帰ろうか」
 下村は俺よりずっと長い間そうしていたにも関わらず、しっかりした発音でそう言うと、まるでそこに海など存在しない
かのような無関心さで俺の手を取り、ズカズカと車へ進んで行った。
 そうしてそのまま、俺はずぶ濡れの下村を乗せて、自宅へ戻った。
 漸く雨から避難した室内は、真昼であるにも関わらずまるで穴倉にでも閉じ込められたような暗さだった。しかし下村
はそれを気にする風もなく、無言のままドアを押し開いた俺の後について来た。相変わらず、暗さに足をとられることは
ないようだった。それを後ろに感じながら、玄関先だけが暗いのだろうかと的外れなことを考え、たぶんそうして気を散
していないと何かとんでもない事を口走ってしまうのではないかという確実な杞憂があり、それを下村に悟られるわけに
もいかず、ただ無言で通す他なかった。
「坂井・・・」
 小さな呟きに振り返る。下村は中まで雨の染み透ってしまったコートを脱ごうともせず、ただぼんやりとこちらを見てい
た。
「いいから、早くそれ脱げよ。まじで風邪引くぞ」
 なぜかそれを見ていられなくて、まるで口実のように答えて目を逸らした。しかし下村はやはりなんだかぼんやりとす
るばかりで一向に動かない。
「おい、下村?」
 いい加減不審に思って少し声を強めても、やはり茫洋とした様は変わらず、こちらを見ているはずのその目も本当に
自分を見ているの疑わしい風だった。
 それでもそんな下村の肩が細かに震えているのに気が付いて、俺は慌ててその腕を掴んだ。
「おい、早くシャワー浴びて来いよ」
「寒ぃな」
「当たり前だろっ」
 漸く気づいた様子の下村に呆れて吐息を漏らすと、下村は小さく頷き今度こそ黙って素直にバスに向かった。
「たまにああだよな・・・本当」
 もう一度、今度は大きく息を吐いて下村の服を探すために部屋の奥へ入った。
 下村と入れ変わりに風呂へ入り、さっぱりとして出てくると下村はぼんやりとテレビを見ている所だった。本当に今日
はらしくなくぼんやりとしっぱなしだと思いながら、だらしなくソファに体を預けている下村の左隣に腰掛ける。もしかして
寝ているかと思ったが、しかし意外なほどしっかりとした様子で下村は目を開けていた。
「寒くなくなったか?」 
  箪笥の中から引っ張り出したままのシャツは折り目が付いていて、そんなもの普段の下村であればたとえ借り物であ
っても着るのを拒んだだろう。しかしそれを気にした風もなく、まるで作業着の様な上下を何の文句もなく下村は着てい
た。
「お蔭様で」
 チラとだけ視線を寄越し、すぐにテレビに向き直りながら下村は呟いた。
 普通に見れば随分と失礼な様子だが、これはただ単にバツが悪いのだろうと見咎めずにいた。事実、あの場にああ
して俺が現れることなど、下村は予想していなかったに違いない。
 あの場にイレギュラーであったのは自分だけだ。
 そんな風に下村を引き付けづにはいられないあの場所に嫉妬して、どうにかあそこから引き剥がせはしないかと隙を
窺っていたのを知るはずもないからだ。
 しかし俺は、ずっとそうしたくて仕方がなかったのだ。
 会話をしていたはずなのにフト気が付くと、下村はどこか遠くの方を見ていたり、いつの間にかふらりとどこかへ行っ
てしまったりする。もちろん仕事に遅れることはなかったが、それでも丸一日行方知れずになるのは珍しいことではなか
った。
 そんな下村の行動一つ一つが酷く気にかかって、時には苛立って仕方がなかった。
 たぶん、その頃から下村への感情がただの過保護や心配性ではないと分かっていた。
 それは、独占欲とか執着と呼ばれる感情だ。
 およそ男が男に感じる類の感情ではない。それでも俺はそれを素直に認めないわけにはいかなかった。 
 何時だったか、店の備品を増やすのに適当な物が見つからないと、二人で見に行く約束をしたことがあった。下村は
そういったことを面倒がるタイプだったが、どうにも自分が気に入らないと言って珍しく下村の方から付き合って欲しいと
言われたのだ。俺はその時大層驚いて、でも俺に声を掛けてくれたことがただ単純に嬉しくて、下村の自宅まで迎えに
行った。
けど、下村は居なかった。
 もちろん、下村はそんな風に約束を安易に破るような男では決してない。
 それは分かっていた。
 何か、どうにもならない用件があってのことなのだろう。下村はそういったことを安易にそのままには出来ない変なとこ
ろで几帳面な男で、そこがまた気に入っている俺としては、それをどうこう言うわけにもいかなかった。それでもそれが
面白いわけもなく・・・結局後になって分かったことだが、店のごたごたの始末に行っていたらしい。元々何事も一人でカ
タをつけたがる下村が、ちょっとの間も俺のことを待つわけがなく、そういった結果になったのだった。
 俺もまあ、それだけならば早々怒ったりしない。いい加減今更だし、結局は何を言ったところで下村のそういった悪癖
が直らないのは重々承知していたからだ。それにその時は常になく電話連絡など入ったものだから、少しは忠告が役
にたったのだと浮かれて気になんてならないはずだった。
 でも、その事後報告の中に、俺にとっては聞き逃せない名前が入っていたことに瞬時にカッとなった。まさにそれは頭
の中が真っ赤になるというか、目の前が一瞬歪んで暗くなるような、異様な衝撃だった。
「・・・それで、桜内さんが連絡入れた方がいいって・・・」
 だめだった。その名前だけは、俺にとっては禁句だった。
 下村の中でその名前がどれだけ大きな存在であるかは知らない。確かめたこともない。実際確かめようと思ったこと
もない。それは結局、臆病風に吹かれた俺がどうしても怖くて聞けないことだった。下村にとって、自分よりも大切な人
間がいる。それだけで、もう自分がどれだけ下村に執着しているのか思い知るのには十分だった。
「風邪」
「ん?」
 自分の思考に埋没していた俺は、何か呟いた下村の言葉を聞き逃してしまう。それを慌てて聞き返したが、下村はち
ょっと笑っただけで、もう繰り返してはくれなかった。
それが何故か切なくて、ああ、俺はまた下村の何かを手に入れ損ねてしまったのだと気づくのだ。 下村はこんな風に
不意に何かを言うのだけれど、俺はあまりにも大雑把で聞き逃してしまうことが多くて、その度に下村はちょっと困った
ような、ほっとしたような、見る方を酷く切ない気分にさせる笑顔を浮かべるのだ。
 そんな顔をする、本当のところは分からない。何でそんな風に笑うのか。知りたいと思う。
 でも、それは下村だけの領域なのだ。あの、海を眺める後姿に何も言えない様に、そんな風に笑う下村の心は、下村
だけの場所なのだ。
 ああ、そうではなく、下村と、下村が選んだ者だけの場所なのだ。
「寒いな・・・」
 小さく囁かれた言葉を、今度は上手く聞き逃さずにいれたことを自分で褒めながら、俺は何も言わずに畳んだ毛布を
投げる。下村はそれを微かに頷きながら受け取ると、ばさりと頭からかぶる様に包まった。
「ちゃんと暖まってなかったのか?」
 もう一枚持ち出した毛布を同じように羽織ながら、下村の隣に腰掛ける。体重のかかった微かな揺れに翻った下村の
前髪は、まだ乾ききっていない様だった。
「なかなか、暖まんないのな」
 そう言った下村の口元が、小さな笑いの形を作る。その本当にささやかな感情が、俺の何かを刺激したのは確かだっ
た。
 しかしそれも、やはり後から考えたただの言い訳であって、その場の本当の気持ちなどもう自分でもわかるものでは
なかった。
「っ・・・・・・」
 俺はただ、何も言わないまま下村のそれに口付けていた。
「っは・・・ぁ・・」
 冷たく強張った下村の頬を両の手のひらで包み込むように支えながら、俺はゆっくりと唇をそこから離した。驚きの余
り上手く息継ぎの出来なかったらしい下村は、離れた途端に苦しげに息を付いて、くぐもったような声を漏らした。それ
に余計に煽られてしまう自分を戒めながら、これ以上の無体は流石に不味いという事位は分かってた。
 多分これ以上続ければ、殴られる位では済まなくなるだろう。
 驚いたせいなのか苦しいせいなのか、軽く眼を閉じてしまった下村の感情を読み取る事は出来ず、俺は焦りを感じな
がらその目が開かれるのをおとなしく待った。下村は何度か細切れの呼吸を繰り返し、まだ両頬に触れままの俺の手
首をがっしりと掴んできた。
「・・・どういうつもりだ?」
 やっと開かれたその両目には、明らかな不審と冷たく冴えた疑惑の色があった。
 しかし俺はそれを逸らさずにいなければならない訳がある。もしここで、この目から逃れようとするならば、もう永遠に
この先には進めなくなるだろう。
 自分の心を、永遠に殺さなければならなくなるだろう。
「おまえが、思っている通りの意味だよ」
 でも、どうしても往生際の悪い俺は素直には答えられなかった。少しの恐怖もあったのだろう。受け入れられることが
ないことは、重々承知の上での行為だったとは言え、全く期待がないわけでもなかったから。
 だって、そうだろう?誰だって自分の最良の相手と共に居たいと思うのは、俺だけではないはずだ。
 それでも自信がないのは隠しようもない事実で、俺はどうにか目を逸らさずにいるので精一杯だった。真っ直ぐに見
つめ返してくる下村の目は、困惑とやはり不審の色が揺れていた。俺の言葉をどう受け取っていいものか判断に困って
いるのだろう。でも多分、下村の中ではもう答えが出ている。
 何故なら、下村も薄々ながらも俺の気持ちに気づいている様な所があったからだ。と、言ってもそれは俺自身が自分
の気持ちにしっかりと形を与えてから気が付いた事であって、当時の俺はそんな風なことは考えてもいなかった。そも
そも何事にも大雑把な自分は、自身のこともよく分かっていなかったのだ。下村が何を考え、何を感じていたかなど分
かるはずもない。
「お前、俺のことが好きなのか」
 呟いた下村の声は、驚いたことに少し震えていた。
 何事にも余り動揺を見せないこの男が、いくら相手が俺だといっても口付けられて、コクられた位でそれを示すなど、
俺には到底想像もしていなかった事態だった。
 しかし驚きと同時に、暗い喜びを感じたのも否定できない事実た。
 俺の言葉で、下村に何がしかの影響を与えている。それだけ下村にとって自分が無関心な相手ではないと言われて
いるようで、下村には悪いがそれを嬉しく感じてしまった。
 触れたままの下村の頬は、その言葉と同じように、小さく震えていた。
 俺は目を閉じて、細く息を付いた。
 さあ、覚悟の時だ。
「好きだ」
 ああ、今、このまま目を開けずに、耳を塞いでしまいたい。
 そうすれば拒絶の言葉も、軽蔑の眼差しも受けなくて済むのだから。
「・・・・そうか」 
 もう、何の動揺も感じさせない下村の声に、ああ、やはりそうなのか、と思った。
 ずっと気づいていたのだ。俺の持つ感情に。それでも下村は俺が気づくまでは何も言わないつもりだったのだろう。も
しかしたら気付かないままでいるかもしれないと思っていたのかも知れない。どちらにしろ、知っていながら何も言おうと
しなかったその時点で下村の答えは決まっていたということだ。
 もう離さなければならないのに、どうしても俺は下村の頬から手を離すことが出来なくて、大層下村は困惑しているこ
とだろうと思う。それでも今離してしまえば、それはもう永遠の隔たりの様に感じられてどうしても離すことが出来なかっ
た。
 しかし何事かの拒絶の言葉は齎されないまま、曖昧な空気の中で下村はただ黙って俺の手にその頬をを委ねてい
た。俺はそれを一体どうとっていいのか分からないまま、ゆっくりと瞼を上げた。
 そこにあるのが、否定の表情か侮蔑の色か。それを恐れながらも心のどこかで期待してしまう自分を愚かだと思っ
た。どうにもならないと知っていながら、それでも何かを求めてしまう自分を。けれど、実際に合わせた先の下村の目に
は、俺が予想していたどの色とも違うそれが浮かんでいた。
 部屋の中は窓際のスタンドと、テレビのブラウン管が発するチラチラする光の点滅だけが光源で、ともすると小さな表
情や仕草は見落としてしまいそうになる。俺は今度こそそれを逃すまいと必死に目を凝らしていた。
 下村の目の中にあったのは、蔑みでも侮蔑でもない明らかな笑いの色を含んでいた。
「・・・からかってんのか」
 漸くその頬から手を離す。その手首には惰性で絡みついたままの下村の手も付いてきた。
 憮然となる声を咎められないまま、少しの批判を含んで俺は思わず呟いていた。
 その下村の目だけで、俺は分かってしまった。
 この男は、俺の気持ちを知っていて、それを不快に思わない代わりにどうやら面白がっていたようだった。
「てめぇ、マジ性質悪りぃ・・・」
 漏れる言葉は批判ばかりだった。この歳にもなって男の純情を返せとは言わない。でもこんな風に本気で綴った言葉
や気持ちをからかわれるのは心外だった。元よりこの男がこんな風に本気を試したり、疑り深く勘ぐったりするのは何
時ものことだった。それでも、分かっていても、実際にこんな風に試されるのは、楽しいとはとても言えなかった。
 しかしそんな俺の気持ちとは裏腹に、下村は罵った俺の目を真っ直ぐに見据えながら、今度は声を出してクスクスと
笑い出す始末だった。
 俺はすっかり呆れてしまって、本当になんだってこんな男の為にこんなに悩んだり、いらいらしたり、雨の中をぼんや
りと後ろから眺めていなくてはならなかったのか誰かに聞けるものなら聞いてみたい気分だった。しかしやはりというか
当然その問いに答える者はいる筈もなく、俺は情けない顔のまま為すがままでいるしかなかった。そんな風に俺は不貞
腐れた気分で、目の前の物凄く楽しそうに笑う男を見つめながら、それでも俺はそれに見惚れて、ああ、本当に俺は馬
鹿だ、信じられねえ、目の前で笑う男を本気で好きなのだと思った。
「・・・俺がどういう男かなんて、お前なら分かっているはずだろう」
 漸く、という感じで笑いを収めた下村が、ゆっくりと掴んでいたままだった俺の手首を離し、俺がそうしたように俺の頬
を柔らかく包みこんだ。
 全く道理なことを言われて、俺は答えようもなかった。
 そうだ、分かっていた。下村がどういう男かなんて。
 いつも人の心に真っ直ぐには触れようとせず、斜に構えて相手を見ながら、それでも人に関わらずにはいられない、
聡い様で儚げで、どうしようもなく冷酷で捻くれ者の優しい男。
 それだからこそ、惹かれたのだ。
 下村の暖かな手と、対照的に体温を持たないその手を感じながら、俺は今こうして笑っている下村の本心が上手く読
めないことにイラつく。どうにか本心を垣間見ることは出来ないだろうかと、懸命にその目に問いかけた。
 こんな時、下村の方から何かリアクションなり答えなりが返ってくることはほとんどない。
そんな単純なモーションでは、下村は歯牙にもかけずに葬り去る。それが下村を冷徹な男に見せるのだろうが、だから
こそ俺は余計に求めてしまうのだろう。
 下村を。
 下村の心を。
「下村・・・」
 問いかけの意味さえ持たないようなこんな一つの名前でさえ、俺を震わせるには十分なのだ。しかしそれに下村はゆ
っくりと、でも確かに頷いて見せて俺を驚かせた。本当に、そんな風にリアクションが返ってきたのは珍しいことだったか
らだ。しかもそうして頷いた下村の表情は、思わず誤解してしまいそうなほどに柔らかく、まさかと思いながらも「愛しい」
という言葉でしか表わせないようなものだった。
「下村・・・」
 再び唇に乗せたその名が、甘くなるのは抑えようもなかった。
 下村はたどたどしく綴ったその声に、微かにしかし確かにもう一度頷いてまるで許すように微笑んだ。
「下村っ」
 俺はもう何も言えずに、温まることを知らないその体を抱きしめていた。
 下村はやはり何も言わず、それを従順に受け止めて俺の頬から手を離し、名残惜しげに揺れていた俺の目を見据え
たままゆっくりと背を撫でた。その心地よさに目を細めて、ああどうしてこの男はこんなにも自分を惹きつけるのだろう
と、今更考えたところでどうしようもないことを無意識に考えていた。
 その間もゆっくりと柔らかなしぐさで俺の背中を撫で続けながら、下村は小さく吐息を吐いた。
「っ悪い・・・」
 そこで初めて俺は自分がどれほどの力加減で下村を締め付けていたかを知って、慌てて手を引いた。しかし下村は
それを留める様に俺の手をそっと包み込むように握り締めた。
 そうして落とした口付けは、今まで感じたことのない程の充足と虚しさを俺に与えて、泣きたくなるのを抑えるのに精一
杯だった。
 下村は、いつか自分を置いていく。
 まるで警告のように頭の中に浮かんだ言葉は、最早今の自分には何の効力もなく、ただ沸きあがるどうしようもない
独占と凶暴な愛しさが、その手を離すことを許さなかった。








































「俺が死んだら」
 寝込んでいると思っていた下村が、不意いに呟いた。
 俺はそれを聞き逃さないように、ぴったりと下村の胸元に耳を押し付け、体の中から響いてくるその音を聞いた。
「お前は泣いて、たくさん泣いて・・・」
 下村の言葉をじっと聞く。
 言いたいことは分からない。
 闇とシーツにまぎれて、下村の顔は届かない。
「そうしたら俺は、安心できるから」
 闇は濃い。
 互いの肌を合わせた体温は、もう遥か昔の事の様に遠かった。






























 その時、俺はなんと答えたのだったか。もう、忘れてしまった。
 でも俺は、結局下村の願いを叶えず、一滴の涙さえ流さずに下村を生かすことを選んだ。
 誰が、あれほどの男をただの思い出などに出来るものか。
 誰が、あれほどに愛しいと思った男を、涙ごときと引き換えに失えるものか。









 俺を天使と呼んだ男を、誰が一人にするものか。
 俺を天使と呼ぶのなら、俺が必ず天国に連れて行ってやる。
 たとえその手を振り解こうとしようとも、二度とその手を離さずに。













 最後に交わした口付けは、下村にさえ永遠に秘密だ。































これはメルマガ用に書いたものを改定して載せて見ました。
メルマガ見てて下さった方、目新しくなくて申し訳ないです。
でも、やっぱり小説は一気に書き切りたいですね。
個人的に。