flourish




















「おお!スゴイな!」
 下村は嬉しそうにそう叫ぶと、もう走り出しそうな勢いで桜の見える公園へ飛び込んで行った。それを苦笑しながら追
いかけて、坂井はこんな風に喜ぶなど思ってもいなかった誤算に喜んだ。
 仕事が終わって、桜を見に行かないかと言い出したのは珍しく下村の方だった。
 今年は気候が温暖だったせいか開花が一週間ほど早く、桜は既に満開に近い状態だった。しかし本来であれば花見
の客で賑わいそうな満開の桜の公園も、急に冷え込んだ気温と降り続く雨のせいで今一つ人出も振るわず、今夜も同
様に霧雨は止んだがやはり桜の木の下に人の気配はなかった。普段の公園であればこんな夜中に人がいるわけもな
かったが、てっきり花の香りに誘われた酔狂者が一人や二人はいるだろうと思っていた坂井には、この静けさは意外
だった。
 しかし既に公園の中から歓声を上げている下村にとってはそれは歓迎すべきことであったようで、桜を独り占めだと
言いながら坂井を手招いた。
「坂井!早く来いよ!」  
 一体その興奮ぶりはなんなのだと、やはり坂井は笑いが漏れるのを堪えきれずに噴出したが、下村はそんなことは
どうでもいい様子で、ただひたすらに首をもたげて桜に見入ったいた。
「ああ、本当に綺麗だな・・・」
 うっとりと呟いた言葉は、恐らく坂井に同意を求めるものではない。
 確かに沿道を両脇から覆いかぶさるように囲んでいる桜並木は荘厳としか言い様がないほどに見事だった。チラチラ
と風に落ちる花びらが、一層幻想的に見せている。これを美しいと思わない人は少ないだろう。坂井でもそう思うのだ
から、下村が喜んだところで不思議はない。そう思いながらも無粋は承知で疑問は口をついて出ていた。
「・・・桜、好きなのか?」
 習うように桜を見上げながら、振り向かずに聞いてみた。
 しかしいくらこの艶やかさを以ってしても、下村が花を愛でるというのは、少し意外な気がしたのだ。
 何事も斜に構えて世の中を斜めに見ているような男が、世間一般の人々の様に、満開の桜の下で酔いしれている。
こういった年中行事にはあまり関心がないと思っていたが。
「ああ。だって、綺麗だろ?」
 あっさりとそう言いながら振り返った下村に先ほどのはしゃいだ雰囲気は既になく、穏やかな微笑みだけを口元に残
していた。
「こうしてると、まるで雪みたいだ」
 両手を差し伸べるように広げて、下村は気持ちよさそうに目を閉じた。気まぐれに吹いた突風に枝が戦ぐ。散らされた
花びらが、正に雪のように坂井と下村とを遮った。
「うわっ!」 
 花、花、花。
 視界はあっというまに覆われて、坂井は思わず目を閉じていた。こんな桜吹雪は見たことがない。まるで一面が白く
塗りつぶされてしまった様に坂井を包み込んだ。
「・・・下村?」
 目に入り込みそうな勢いに上手く目を開けることができない。下村の姿も、上手く捉えられなかった。
「下村?」
「どうした?」
 返事のないのに焦って名前を繰り返すと、思わず近くで返答があり、驚いた。いつの間にか下村は背後の方に回りこ
んで、背中合わせのように立っていた。
「・・・消えちまったかと思った」
 肩越しの下村の背中は、霧雨を残した花びらに濡れて、肩や髪には名残の雪が残っていた。それをじっと見つめな
がら、本当に自分は下村の背中を眺める事が多いのだなと思った。 岸壁の背中。薄暗い照明の中の背中。そして、
花に覆われた背中。
「ああ、確かにそんな感じだよな、桜って」
 てっきり失笑でも買うかと思っていた矢先に返った言葉は、同意の様な頷きで、でも下村にしてみれば不安に思う相
手などいるはずもないから、それほどには気にならないのだろう。
 自分さえ失うことも、この男は恐れてはいないのだから。ましてや他人など、何を恐れる必要もない。そういう男だ。
 同じようにこうして立っていても、所詮は背中合わせ。交わることなどないのだと、それを望んでもいないのだとその背
中は言っている様だった。
「俺はどちらかと言うと・・・坂井?」
 下村の言葉を遮って、坂井は後ろからその背中を抱きしめていた。
 もう、逃せない。捕らえたまま離せない。ああ、本当にどうしようもなくこの男を愛しいと思っている自分がひどく滑稽だ
った。求められていないものを、求めるという虚無を、哀れな自分をそれでも思い切ることも出来ない自分を。
 肩口に額を預けて、薄手のモールセーター越しに下村の本心を図れはしないかと思っても、そこにあるのは、ただ漫
然とした暖かさで、それでも満たされてしまう自分が情けないような、哀れなような気分だった。
「どうした?」
 少し困惑したような下村の声が、薄い布越しに届く。突然の行動に意味を図りかねているのだろう。
「・・・なんでも、ねえよ」
 それにぶっきらぼうに答えて、体に廻した腕の力を強めた。少し気を飲んだ下村の気配が伝わる。人に見られる事を
危惧しているのかも知れない。確かに夜中とはいえ、雨は上がっている。こんな見事な花見の夜に人出があっても不思
議はなかった。
「なんでも、ねえ」
 それでも離せない。自分でも可笑しいほど切羽詰った声に、下村も気づいただろう。それでも恐らくはどうでもいいこと
なのだ。ただ、人に見られる事を気にしている男には。 
「・・・そうかよ」
 素っ気無い言葉にはやはり感情の起伏はない。それでも振りほどこうとはしない事に馬鹿な期待をしてしまいそうで、
そうした後の虚しさを思って目を閉じた。
「しょうがねえなあ、本当」
 ため息で、微かに下村の方が上下する。呆れた物言いに傷つくまいと思っても、それは難しいことだった。
「本当しょうがねえ、よ。なあ?」
 自嘲気味を含んだ言葉の意味が良く掴めなかった。下村の表情を確認しようと顔を上げようと思った瞬間、不意にこ
めかみの辺りを柔らかな感触が触れて、離れた。
「昨日さ、この公園の横通った時にな」
 起こった事の意味が理解できずに、ぼけっと下村の顔見ると、ちょっと笑って腰に廻した坂井の手に自分のそれをそ
っと重ねて、そうして驚いて目を瞠る坂井の額に自分の額をこつんとぶつけた。
「あんまり綺麗でさ、どうしても見たかったんだ」
 どうしても、お前と二人で見たかったんだ。
 一度閉じた目を柔らかく開いて、下村はそっと坂井と目を合わせた。深い黒が、街灯に輝いている。その中にある筈
のない物を見つけて、信じられずに見つめながらあっけに取れれてぽかんと口を開けた。
「だって週末には、どうせ皆で花見の席、だろ?」
 笑った下村の目に、自分が写っている。自分で言うのもなんだが、ものすごく間抜けな顔だった。
「・・・下村」
「?なんだ?」 
 至近距離で見つめあいながら、下村が不思議そうに首をかしげる。それでもその手は離されず、押し当てた額は触
れ合ったままだ。
「好きだ」
「ああ、俺も」
「・・・ええ?!」
「わあ?!」
 驚いて大声を張り上げた坂井に驚いて、下村は咄嗟に坂井を突き飛ばした。覚束ない足取りになった坂井はそのま
まへたりとしゃがみこんだ。
「お、おい、大丈夫か?」
 そのまま気を失わんばかりの坂井に、下村は驚いて膝を折ると肩を支えるように手をかけた。見上げて来る坂井の
目は、なんだかよく分からないような混乱で大きく見開かれていて、それが理解できなくて、下村は困惑に眉を寄せた。
「大丈夫か?お前」
「今、なんて・・・?・・・ええ??」
「?」
 混乱の予兆をきたした坂井の言葉がよく理解出来ずに下村は問うように目を見つめた。
坂井はそれが耐え切れず、こんなにも平静でいるのはどういうことかと思い、もしかして桜の幻聴でも聞いたかとこの先
を問いただして良い物か更に混乱を深くした。
「どうした?」
 重ねて問うてくる下村に、動揺の色はない。やはり自分の聞き違いかと、坂井はどうにか喜びに張り裂けそうになって
いた心臓を押さえつけた。
 そうだ、下村がそんなことを言うわけがない。自分の気持ちに答えを返すわけがない。
 今まで一度たりとも返った事のなかったその言葉が、こんなふうにありふれた呼びかけの答えとして返ってくるはずが
ない。
 どうにか自分を貶めるように落ち着けて、それでも死にそうなほどに高鳴った心音はどうにも収まりがつかない。それ
くらいに下村の言葉に敏感になっている自分に、坂井はいっそ笑い出したいくらいだった。
「今・・・俺、言ったこと、聞いてた?」
 まるで子供のような片言の言葉を下村は少し不思議そうに受け止めながら、それでも真剣な面持ちの坂井をちゃか
す事はせずに、こくりと頷いた。
「聞いてたけど・・・?」
 坂井が一体何を動揺しているのか分からない下村に、それではあの返事はなんなのだと問うていいのか一瞬戸惑
う。いつもと変わらない下村の様子は、坂井の不安を誘った。
「俺、お前のこと好きだって言ったよな?」
 恐る恐ると言った風に聞いた坂井に、下村は漸く合点がいった風に眉を心もち持ち上げ、そうして今度は何もかも承
知した、という風にニヤリと嫌な笑いを浮かべた。
「ああ、言ったな」
 しかしどうにもこうにも混乱を抱えたままの坂井には、下村の意図は見えずに、ずるずると罠にはまるようにぽかんと
した表情を浮かべてしまった。
「お前が言いたいことなんて、全部分かってるよ」
 そうして、そっと降りてきた下村の吐息に、やはりなんの反応もできないまま坂井は同じ静かさで離れた唇を呆然と眺
めていた。
「お前、ホント可愛いな」
 そうして、弾ける様に声を上げて笑い出した下村に、坂井は憤然として凡庸とした表情を引き締めた。
「な、なんだよ!お前が急に言うから!」
「言わない方が良かったか?」
「うっ・・・」
 面白そうに見下ろしてくる下村に黙り込んで、坂井は口をかみ締めながら立ち上がった。
「・・・言ったほうがいい」
 ものすごく嫌そうに顔を顰めて、それでもどうにも赤くなる顔を隠せないまま、坂井は黙って下村に手を伸べた。下村
もそれを拒むことはせず、浮かべた笑顔はそのままにされるがままに伸べた坂井の腕に身を寄せた。
「坂井・・・」
 そのまま寄せた耳元に、甘やかに吹き込まれた囁きに知らず肩が震えてそれを隠すように下村の背中を抱きしめ
た。
「好きだ、下村」
「うん」
「お前と桜が見れて、すっごく嬉しい」
「そうか」
「・・・ありがとう」
 下村が、笑っているのが分かる。密やかな空気の振動が首筋をくすぐった。それが嬉しくて、尚更にこめる力を強くし
た。それに答えるように下村も坂井の腰を柔らかく抱き返す。まるでダンスを踊るように抱き合いながら、風はまた一面
に桜の雨を降らしていた。