「あたた…」 口元を手の甲で押さえながら、坂井がブラディ・ドールのバックヤードに姿をあらわしたのは、何時もより半時ほど送 れた時間だった。どちらかと言うと生真面目な坂井は通常決まった時間に出勤するのが常だった。その坂井が、送れ て入店した上に、口元が切れている。高岸は驚いて運んでいたタオルの入ったダンボールを投げ出して駆け寄った。 「だ、大丈夫ですか?!」 そばまで来て、窺う様に顔を覗き込んできた高岸にチラリと目をやった坂井の顔が、ばつの悪そうに顰められた。 「大丈夫だ。なんでもない」 「なんでもないなんて、そんなこと…っ」 坂井の腕は、高岸とて知らない訳がない。その坂井がこんな風に顔に傷をもらうなど、尋常ではなかった。 しかし坂井はこともなげにひらひらと手を振り、無表情のまま口元をもう一度手で拭うとスタスタを着替えに行ってしま った。 また、何か起こるんだろうか…。 不安が胸をよぎる。 またあんなことが繰り返されるのかと思うと、高岸は深く気分が落ち込むのが分かった。 何かあることが怖いわけではない。それよりも、また大切な誰かを失うのではないかと言う不安が、高岸の足を竦ま せた。 「どうした、高岸。そんな所に突っ立って」 「…下村さん」 振り返ると、サングラスを掛けた下村が裏口から顔を覗かせていた。 「どうした」 高岸の表情に、クイ、と眉を上げて下村がサングラスをはずす。変わらない無表情だが、目に微かな心配の色を見つ けて、高岸はドキリと心臓が鳴ったのが分かった。 な、なんだ…?? 自分の反応に困惑しながら押し黙っていると、後ろ手に裏口のドアを閉めた下村が近くまで歩いてきた。 わずかに下村より身長のある高岸の顔を、上目遣いにじっと見上げてくる。 まるで作り物めいて光を反射する目が、きらりと閃いた。それに高岸は覚えず上がる心拍に戸惑った。 「さ、坂井さんが…」 「坂井が?どうかしたか」 珍しく無造作に羽織っただけのシャツから、鎖骨が覗いている。それを上から見下ろしてしまい、高岸は段々と自分 が追い詰められているような気分になって困った。 「殴られたみたな傷付けてたんで、何かあったのかと」 「ああ」 訝しげに顰められていた眉が、すっと撓んで目を細めた。 「あれは俺がやったんだ」 「し、下村さんが?!」 思いがけない言葉にぎょっとして声を上げると、思いの他強い反応に下村も肩を跳ね上げた。 「あ?ああ」 まじまじと見つめてくる高岸に、律儀に頷くとサングラスを片手に弄びながら口元をクスと笑いに模った。 それに重ねて驚く高岸をチラリと見、それきり何も言わずにヒラリと身を翻す下村に、高岸は慌てて声を掛けた。 「ど、どうしてっ?」 二人の中の良さは、わずかな間でも十分に分かっていた。その二人が、顔に傷をつけるほどの争いをするなどと、高 岸には信じられなかった。 高岸の低く押さえた驚愕の声に、下村はゆっくりと振り返り、何時もの無表情とは程遠い、意地の悪い顔でニヤリと笑 った。 「俺もつけられたからな。おあいこだ」 「え?」 意味がわからず重ねて問おうとする高岸を、下村は目だけで制して今度こそ本当にその場を去ってしまった。 「???」 残された高岸は、下村の今の言葉を考えるもやはり分からず、それでは坂井に聞くべきなのかと思ったが、どうも他 人が踏み込んでいい問題ではないらしいと、未熟ながらも理解して取り敢えず今日のことは忘れていようと心に決め た。 初めて感じた、不穏な感情と共に。 高岸が二人の関係を正確に理解するのは、まだ当分先の話であった。 終 ブラデ日記(改) 恐らくは下村の付けられた傷は キスマークで御座います。 |