鋭く虹彩を焼き付けた。 朝日の中にあって伸びやかな肢体を少し窮屈そうに椅子に押し込め、随分と早い時間からこうして硝子越しの海を眺 めている。右肘を突いて、その手で柔らかく右の頬を包み込みながら、時折流れる低いクラシックに体を少し震わせ た。しかし、それはどこか上の空だ。 それを暫しレストランの入り口から眺め、通りすがりに目礼していく社員たちに洗練とした朝の空気を乱さない様、目 線のみで返事を返しながらコーヒーを頼んで席へ向かった。 「おはよう。」 やや斜め後ろから声を掛ける。凛とした背はゆっくりとした仕種で振り返り、朝に似合った静かな声で「おはようござい ます」と返事が返った。それに習うように穏やかな気持ちのまま口元の笑いで答え、向かいの席に腰を下ろした。その 時、丁度良いタイミングで、コーヒーが運ばれた。 宿泊客に見咎められてもさしさわりの無い様、ぴんと姿勢を正して腰掛けると、後姿では分からなかった驚くほどに整 った顔と対面することになる。 斜めから差し込んでくる朝日を苦ともせず、それでも幾分か眩しげに細められた目は深い睫で縁取られ、すべらかな 頬を手で包み込んで頬杖を突いている。それを少し楽しみながら、こうしていられるのも、後少しだ、と胸のうちで算段し た。時は昼に近づいている。昼になれば彼は姿を消すだろう。 彼が…下村がテラスに面したレストランを訪れるのは、もちろん始めてのことではなかった。 日中に誰かを連れてくることもあるし、夜、一人で訪れることもある。しかし一番訪れる頻度が高いのは、早朝から昼 に掛けて。それも大分長い間いることが多い。 最初にそのことを教えてくれたのは、勤続歴の長いボーイだった。客商売をしている以上、情報収集には運営を円滑 に進めるに当たって非常に重要かつ重点を置かなくてはならない。一日の様子をその部署をまとめる者ではなく出来る だけ現場に近いものから収集するのもその一環だ。その報告の中に、下村の名前があった。社長の友人が、レストラ ンにいらしてました、ああ、そうか。で終わってしまうような内容であったが、何故かずっと引っかかって気になっていた。 幾度となく報告を受け、結構頻繁にレストランの方に顔を出しているのが分かる。それも昼食に近い、午前中。一番ホ テルの中をウロウロしている時間帯なのに、どうして自分と会う回数が極端に少ないのだろうか。問いかけと言うわけで もなかったが、その時たまたまそれを聞きとがめてボーイが言ったのだ。 ああ、いつもオーナーは海へ出ていますから。 それで、何となく合点がいった。 「こんな日に外洋に出たら、気持ちいいだろうな」 下村に習うようにあまねく水面に目を馳せながら、呟く。するとじっと視線を向こうに投げていたそれが、こちらへ戻さ れるのが分かった。 「今日は一緒じゃなかったんですか?」 真っ直ぐに見つめてくる目を、正面から受けながら笑い返す。その目が一瞬、探るような光を見せた。 「仕事が少し溜まっていてね。一人で陸に置き去りさ。」 下村はちょっとキョトンとして、そのセリフが面白かったのか、目を細めてくすくすと声を出して笑った。その顔が存外 幼く、微笑ましい様な気分にさせた。 「ああ、それじゃあ俺と一緒ですね。」 本当はそうではなく、行く気もないくせに。今は海洋上の男たちが、何とか下村を連れ出そうと躍起になっているのは 知っていた。それでもそれは口には出さず、しかし知られていると気が付いている気安さで、下村は悪戯を楽しむ子供 のように深く微笑んだ。 「諦めて、俺とここから坊主の呪いでも掛けましょう。」 「お前が言うと、洒落にならない気がするな。」 今頃は獲物も得られず、恨みがましく海を睨んでいるだろう男たちを想像して、二人でくすくすと笑った。 そうして下村が笑うと、あまりにも、あまりにも穏やかな空気で満たされて、ほんの一年で、なんという変わりようだろう と驚いた。 この街に下村が来たばかりの頃は、体も心も痛めつけられたせいだろうか、荒んだ猛禽の様な印象が強かった。そ のせいで一時は下村がレナに行くことをあまり快く思っていなかったように思う。 あそこには、安見が居るからだ。 しかし、暫くして再び顔をあわせた時、意外なほどに穏やかな目で微笑まれて、本当に驚いた。ギラギラとした猛禽の 目は穏やかな微笑みに隠され、全身から発していた剣呑な匂いはきれいに消されていた。それが後に坂井が傍に居る ときに限られることに気がついて、とんだ猛獣使いの才能だと舌を巻いた記憶がある。 しかしこうして、一年の時を経て目の前にする下村は、一人であっても驚くほどに穏やかに微笑んで驚かせた。 あの、薄暗がりの店の中で見せる整った作り物の笑顔とも違う、ごく自然な様子はほんの少し髪型を変えただけであ るのに全体の印象をがらりと変えさせた。 ふわふわとした薄茶の髪はなだらかに頬や額に掛かり、頭頂から首筋まで流麗な曲線を描いている。その間に灯る 目の穏やかさは凪いだ秋の海を思わせ、そうしてささやかな微笑を浮かべる口元には幼い愛しさを思わせるものがあ った。 それを正面から、強さを伴わない視線で見つめながら、恐らくこうした全てはたった一人の人間との間から、生まれた ものなのだろうと思った。 途絶えた会話にまた、海に視線を投げてしまった下村の横顔は酷く穏やかだ。しかしその一方で、こうして仕事明け の体を押してまでここへ現れる理由を思って、下村には気づかれないように眉を顰めた。 「前から、一人でここにはよく…?」 話しかけても、正面から視線を求めることはしなかった。そうした方が下村も話しやすかろうという配慮からだったの だが、意外にも視線を求めるようにまた、真っ直ぐとした目をこちらに寄越した。 「そうですね。そう、頻繁ではないですが。…迷惑ですか?」 そう言って、少し拗ねたような上目遣いでこちらを見た。それに苦笑で返して、とんだ可愛げだとなんだか参ってしまっ た。どちらかというと下村は冷たい印象が強いが、実際の下村はそう、無表情でもないし、無口でもない。問いかけに はこうして微笑を添えた穏やかな答えが返る。 「とんでもない。気に入ってくれて、光栄だよ。特に、君には。」 少し探るような目に、答える。 「ご実家は、旅館なんだろ?」 それで合点がいったのか、小さく頷いた。 「ええ。このホテルは、素晴らしいですね。」 そういって、大げさな素振りで両手を掲げた。 多分、お世辞ではなく、本当に。そう思っているのだと、顔を見ればすぐに分かった。 「ありがとう。」 小さな頃から客商売の家に育った下村に言われるのは、本当に嬉しかった。どこがどう、といったことではなく、広が る空気の中に違和感を感じるようなホテルを作る気はなかった。 どういたしまして、と言うように、下村が笑った。弾けるような笑顔だった。 本当に、ここまで下村を変えたものを、尊敬してしまいそうだった。 それは自分を含めた一風変わったひねくれ者たちのおかげであったかも知れないが、下村をここまで幼く見せている のは、自分達ではあり得ない。 それが誰であるのかは公然の秘密であったが、本人たちは知られていると知っているのかいないのか。定かではな かったが、悪戯に試してみたくなるのを堪えるのに苦心した。 「そろそろ、帰って来るかな。」 今日もなんだか試してみたくなって、同意を求めるように下村に目をやった。それにピクリと指先を震わせたものの、 下村は答えなかった。それでもその仕種だけで同じ事を考えていたのは明白だった。 それがなんだか子供を思うような愛しさを感じさせて、やはり試すのは可哀想だと思った矢先下村の杞憂を払拭して やりたい気持ちで、うっかり滑った言葉が逆に試す結果になったのを知ったのは、すっかり言ってしまった後だった。 「ここら辺の海は穏やかだし、そう荒れた海に出ることもないのだから。…そんなに心配するな。」 「―――…え?」 何の気もなく言った言葉に、下村の動きが見事に止まった。 それにぎょっとする間もなく、瞬時に下村の顔は真っ赤に染まっていた。 「あっと…その…」 そのままダラリと俯いてしまった下村にどうにか言い訳をしようとしても、焦って言葉は上手く出てこない。するとますま す下村の顔が赤くなるのが、唯一見えているその耳で分かった。 「…バレバレですか…」 頬を優しく包んでいた手は、今や顔の大半を隠して、その中から聞こえる動揺に震えそうになるのを押さえた声は低 く、剣呑だった。しかしそれも装う事に見事失敗して可哀想なくらいに擦れている。あまりの反応にこちらの方が動揺し てしまって、危うく手元のコーヒーを袖に掛けてひっくり返しそうになって焦った。 「すまん」 何に対しての謝罪なのか最早自分でもよくわからなかったが、それでも何か酷い罪悪感を感じて咄嗟に謝っていた。 それにピクリと反応して、下村はゆうるりと頭を上げた。 「別に…秋山さんが悪いわけじゃ、ないですから」 幾分か冷静を取り戻したように言うも、しかしそれは伴わない顔だけが、壮絶に際立って、赤い。 「まあ…でも、ここにいつもいるのを知ってるのは、俺だけだと思うが。」 下村が目的を持ってここにいる事を知られたくない人間は遥か海の上だ。事実、こうして下村の姿を目にしなけれ ば、いくら頻繁に現れていると知っていてもそうとは思わなかったろう。しかし逆を言ってしまえば、こうして一人でぽつ んと座っている下村の顔はどう見ても待ち人来たらず、としか言いようがない。危うくも儚い様子は、一目見れば気づか ないはずもない。 どうやら本人はそのように思っていなかった素振りで、顔はまだ朱の気配を残したままだ。 「そうですか」 どうにもやりきれないといった表情で、下村が苦笑した。動揺した自分が可笑しかったらしい。 それはこちらも同じだった。 下村がこの街に居つく事が川中の話を受けると言う形で決定したとき、下村は片手の不便さからしばらくの間、一応 主治医でもある桜内の元へ再び転がり込んだ。そこへ、毎日のように通い詰めていた男が居たのは周知の事実だ。そ れは誰もが気づいていたし、一部の者は下村は桜内の所ではなく、そちらへ住まいを移すだろうとまで考えていた。し かし実際は下村はそちらへは移らず、男はそこへ通うような形になった。それは端から見ていても健気で、どうやらこれ はちょっと今までと形は違うが、春が…あの坂井にも春が来たかと下世話ながらも思ったものだ。 それまで公に話したりはしなくとも、坂井の周りには常に世話をしてくれるような女が何人か居た。しかし下村が現れて からその存在もパタリと聞かれなくなり、付きっ切りで下村の傍に居るようになった。つまり世話をされる立場から、する 立場へと甘んじて移行したということだ。それもあまりにも嬉しそうなものだから、呆れると言うよりも微笑ましいような気 にさえさせた。しかしその一方、それを危惧するような雰囲気があったのも事実だ。坂井のようなタイプは深入りする と、どこまで思い込むかわからないタイプだ。それに対して、当時の下村は元、とはいえ恋人をなくしたばかりの上、ど こか生きること自体に上の空のような感じがあった。そんな状態にあっては坂井に対しても他の者と接するのと変わり なく、坂井が下村を特別に扱うほどに下村は坂井をその様には扱っていなかったからだ。 傍に居ることを疎ましいと思っている風ではない、さりとて必要としている様子もない。特別扱いと言う点では川中の方 がよほどそう言えた。つまりそれが大方の意見で、気持ちの上でのバランスが酷く偏って見えていたのは確かだった。 坂井が、一方的に下村に執心している様にしか。 しかし、目の前に座るある種の静けさを備えた青年は、関心のないと思われた相手を心配して、朝早くから疲れた体 を押してまで、ここに座っている。しかもそれは気まぐれではなく、まるで習慣の様にごく自然であった。それは驚きであ ったし、ある意味感動と取っても過言ではなかった。 心情的に坂井に偏りがちになる自覚があるだけに、こんな風にあからさまな好意を下村が坂井に対して表すのを見 れば、嬉しくないわけがない。男同士であることが頭にないわけではない。しかしそれよりもあの坂井が誰かを大切に 思うことを、それによって浮かべる柔らかな少年の笑顔を何よりも悦ばしく感じた。歳よりもずっと老成したような表情を フト見せられる度、遣り切れないような気分にさせられるくらいならば。それよりはずっと。 「坂井は、知らないんだな。」 言ってやれば喜ぶだろう。誰よりも傍にいながら、下村の気持ちに一番不安を抱いているのは坂井自身だ。自分から 言わせれば下村は気に入らない人間を傍に置くような人間ではない。この一年でそれくらいは分かるようになった。し かし身も蓋もないが、はっきりって坂井は鈍い。特に、自身に向けられる好意の類には。そうして下村はこんな風な気 持ちを坂井の前では表さない。坂井は態度に示さないと気づかない。これでは永遠に堂々巡りだ。事実、坂井は下村 が坂井のことをこんな風に思っているなどと、これっぽっちも、爪の先ほども思ってはいないのだ。 「…別に…俺がそうしていたいだけですから。」 そう言って、下村は酷く嬉しそうにはにかんで、はっとして慌てて右の手の平で顔の下半分を覆ってしまった。それで も隠し切れずに残ってしまったその目があまりにも愛しそうにするので、なんだか胸が詰って危うくその頭を撫でたい衝 動に駆られて困った。 ああ、下村も、ちゃんと坂井のことを好いている。 それが嬉しくて、でも少しだけ淋しいような気がして。それは安見を思うときの気持ちと良く似ていた。目の前でまだ羞恥 に体を強張らせ、外に泳がせた下村の視線の先を思うように後を追った。 中天に向かう陽は眩しく、どこまでも冴え渡る空気を斬って海の青を最上に美しく見せている。 下村が、こんな風にも愛しい素振りで自分の事を語るのを、坂井は知らないだろう。きっと知ったら、喜ぶに違いな い。それでも、多分、自分はそれを坂井に教えてやることはないだろう。 硝子越しの海の青と空の青を見比べながら、もうすぐ消えるこの穏やかな空気を思って、目を閉じた。 目を閉じる瞬間に見た、どこか懐かしいような下村の視線が、目の奥で優しく光跡を作って消えた。 終 |