bright
















 シンとした朝の空気に、突然目が覚めた。
 カーテンの無い窓の向こうは、まだ目覚めたての太陽が微弱な光を晴れわたる空に昇らせ、隙から入り込む波間に
小鳥たちがさえずった。
 それにボンヤリと耳を澄ましながら、こんな風に陸の上で夜明けに近い時間に目を覚ますことなど滅多に無いのに、
と思った。どうしてだろう。今日に限って。しかし、悪い気分ではなかった。
 目の前では、無防備に寝顔を晒す下村が寝ている。
 人の気配に敏いのか、こちらが目を覚ましている間はボンヤリとはいえ起きてることの多い下村だったが、最近では
漸く坂井の気配にも慣れたのか、目を覚ますことは滅多に無い。それに気づいたとき、嬉しくて、少し哀しかった。
 下村が今で過ごして来た二十数年を、坂井は知らない。時折思い出したように話すことはあったが、それは大概小さ
な時の事や家族のことばかりで成人してからの事を話した事はほとんど無いと言ってよかった。それは即ちあの、下村
がこの街へ来るきっかけとなった女と直結しているからだという事は想像に易い。しかし、その数年間が確実に下村の
中に大きな影を落としているのは確かだった。
 普通いくら人の気配に敏いといっても、目を覚ますほどとなると稀だからだ。
 それはそうでなければ身の危険を感じるようなことが度々あったと言うことだ。
 枕に額の右側を擦り付けるようにして静かな寝息を漏らす下村の顔をじっと眺め、真っ当な会社勤めをしていたはず
の男が、どうしてそうなったのか考えを巡らせても、あまりにも下村とは違う人生を歩んできた坂井には上手く想像する
ことが出来なかった。
 下村が、そうして坂井に口を噤んでしまうことが哀しいわけではない。そうではなく、ただ、そうしなければ安らぐことが
出来ない下村が哀しいだけだ。
 呼吸に合わせて静かに上下するパジャマの胸に、そっと手を当てる。穏やかな心音が手の平にしっかりと届いて、坂
井を安心させた。
 それでも、下村はここに居る。ここでこうして、穏やかに眠りながら。
 あまりにも、あまりにも違う道を歩みながら、それでも下村は坂井の隣でこんなも柔らかな寝顔を見せるのだ。そんな
無意識の信頼や好意がこんなにも暖かな喜びであるなどと、今まで自分は知りえただろうか。
 坂井の知らない、下村の過去。
 下村の知らない、坂井の過去。
 どちらもどうでもいいような振りをして、本当は誰よりも気になって仕方が無いのだ。
 それでも何かを恐れるように問うことの出来ないまま、話すことの出来ないままでも、こうして隣合わせで眠ることは出
来る。

 そう、ただ愛しいという気持ちひとつで。

 そっと、頬にくちづける。こめかみに、額に、目元に。
 それでも下村の絶対の信頼は揺らがない。呼吸はひとつも乱れることがなく、それがまた愛しくて、こんなにも誰かを
欲すること、愛することに不慣れな自分に柔らかな微笑でもって心を開いてくれた奇跡に坂井はまた、泣いてしまいそう
になる自分を笑った。
 自分は弱い。いや、下村を知って閉ざしていた心の柔らかな部分を思い出してしまった。
 確固たる自身も無いままこの街に来て、初めてぶつかった壁に今までの自分を壊された。それは大きな衝撃であり、
力強い生への渇望や遣り切れない心の痛みだった。それによって鍛えられたものは確かにあったはずなのに、下村は
容易に自分の中に残された、触れればすぐにでも血を流してしまいそうな部分に入り込んだ。
 そして、それを坂井は許したのだ。
 始めは、その事実に純粋に驚いた。そこはいわば聖域だ。自分でさえも容易ならざる感情に支配されていて入り込む
のは難しい。それなのに、下村は平素の顔で何の苦も無くするりと入り込んだ。
 そしてそれが心地よかった事に驚いた。
 自分の中に、まだこんな感情が残っていたのかと。
 下村と会う度、言葉を交わす度その気持ちは深まった。最初は拙い抵抗を試みていたが、そのうちにそれも諦めた。
 どうしても下村に向かう一途な感情を止めることは叶わない。それに気づいたからだ。
 額を隠す伸びた前髪をそっと梳き上げ、強さを増し始めた光に露にすると、すべらかな頬が密かに戦慄いた。くすぐっ
たそうに見えるその顔に、もう一度だけくちづけてから緩やかに抱きしめ、目を閉じた。
 下村の不在を考えれば、途端ぞっと心が凍りつくのが分かる。自分はもう下村を失えない。錆び付いた時計を鮮やか
な笑顔でもって動かしたのは下村自身だ。それを忘れて自分の元を去ろうなどと、絶対に許さない。
 遠くでは、思い出したように動き出した街の音が車道を通り抜け行く。朝の凪は終わったのか、風は強く漣を耳に届
けた。それを背中に感じながら、朝の穏やかな空気を不穏なものに変えないように小さく吐息で思考を遮りながら、この
目覚めが永遠であればいいと思った。
 穏やかな朝。柔らかな吐息。静かな目覚め。
 そして、腕の中のぬくもりが。

 ただ、永遠であればいいと。


































 その時自分は、どうするのだろうか。
































どうしても、どうしても外せないのは、下村の死です。
普段はそれを考慮に入れないまま書いてるのですが
どうしてもそれは頭の中にあって、外せないんです。
きっと、坂井も常にそれが頭にあったんじゃないかな、と思います。
多分、それは下村も同じだと思ったり。
いつかお互いを失うかも知れないと思いながら、それでも止められないのは
スッゴク切ないけど、それだけ相手を大切に思っているんじゃないかと。
朝っぱらからそんなことを考えてみたり。
なんかもう、スゴイ妄想家だよね。タケって。いえーい。