私を月まで連れてって?

















 ポンッとピアノの単音が聞こえた気がして、顔を上げた。
 腰掛けて結びなおしていた靴の紐を手早く片付け、バックヤードの廊下を急ぐ。単音はひとつ、ふたつと音を結び、坂
井がホールへ続く仕切りのカーテンを捲り上げる頃にはメロディへと昇華されていた。
 fly me to the moon
 坂井でさえ知っているポピュラーソングだ。
 アップテンポで紡がれる音は、ブラディ・ドール自慢のピアニスト・沢村の指先から優雅に奏で
られている。それを視界に捕らえ、同時に見慣れた光景としてもう一人の姿が目に入った。
 アップライトのピアノに背を預けるようにして目を閉じている下村だった。
 この開店前の演奏会が習慣になったのは、ここ最近になってのことだった。以前から沢村は好きな時好きなだけ引く
のが約束というのもあって、たまにだがこうして店の常連の為に開店前に演奏をしてみせることが無いわけでもなかっ
た。実際、坂井も二・三度その栄誉に預かったことがある。しかし、こう頻繁に他人のリクエストを受け、それもどうやら
たった一人の為に指をひらめかす様になったのは、ほんのつい最近になってからだ。
 芸術に疎い坂井にはどういう心境でそうなったかは知れないし、正直な話、沢村が何を好んでその様なことをしようと
一向に構わないと思う。
 しかし、その相手が下村となれば話は別だ。
 じっと目を閉じたまま耳を傾けている下村が、一体沢村とどんな話をして親しくなり、こうして川中でさえ叶わない毎夜
の調べを受けるに至ったかは知らないし、聞いたことも無い。聞かなければ当然下村の方から語る訳も無い。以前盛
大に拍手で讃えられたことが、実は結構沢村の気持ちを動かしていたのかも知れない。どちらにしろ坂井の知るところ
ではなかった。
 そう言った訳で、沢村の歌詞のわりにさっぱりとした演奏を聴きながら、坂井は自分の持ち場に入った。そしていつも
の習慣でグルリと店内を見回してから自身の仕事に入る。
 店内は幾人かのボーイが既に出社しており、整然とした仕種で掃除や開店前の準備を黙々と進めている。本当は下
村の場合、この作業が終わる頃に出社すれば十分なのだが、責任者としての立場上、誰よりも早く来ていることが多
く、別個に出社する時など坂井より早く来ていることもしばしばあった。以前、自分がいるのだからそれほど気にしなくて
も良いのでは、或いは交代に早く来ればいいのにと言った時、そうではなく、ただ単に家に居てもすることが無いので来
ているだけだと簡素に言われてしまい、それ以上の追求は許されなかった。
 しかし今になって思えば、それらの時間を沢村と過ごしていたとしても、不思議は無い。どうも周りにはいつも一緒に
居るように思われがちだが、実際のところそれほど時間を共に過ごしているわけでもないのだった。
 下村にはどこかそういうところがあって、誘おうとして自宅に押しかけたり、電話をしても居な
いことが結構あった。どこへ行っているのかは知らない。行き先を聞きたい気持ちはあったが、少し怖くて結局聞いたこ
とは無かった。
 もし、どこかの女に入れあげているとさらりと答えられたら―――その時、自制心を行使できるだけの自信が、無い。
しかしそういった他人の存在を避けて居るかのごとき態度を取っておきながら、簡単に坂井に合鍵を渡したりする。そ
の理由が「見失った時に困るから」とのことだったが、どうにも呂律の怪しい時分の話だったのでもしかしたら向こうは
すっかり忘れているかも知れない。
 実際、文法が全くおかしかったのだし。
 まったく、掴めない男だよ、お前は。
 シンクを無遠慮な力で洗い流しながら、坂井は俯いてため息を漏らした。
 結局のところ、そうなのだ。
いくら坂井が下村の近くに寄ろうとしても、下村はヒラリと身をかわしてちょっと離れた場所で余裕の顔で笑っている。か
と思えば突然親しげに擦り寄って来ては有らぬ期待をさせてまた身をかわす。どうにも性質の悪い男に捕まったものだ
と思うが、当の下村は捕まえて離さぬ自身を知ろうともしない。坂井がどうしたいのか、どう思っているのか気づきもしな
いのだ。
 確かに何も言わない自分の責めが大きいのは分かっている。しかし下村は優雅な仕種で一線を引き、伝えようとする
坂井の視線さえ撥ね付けるのだ。その度に坂井はただ毒気を抜かれて黙り込むしか道は無い。言ったことろで、どうせ
聞いてはいないのだ。
 そういった不毛を何度も繰り返し、酒に酔った下村を自宅のベットに転がしてはその寝顔を眺める度に、抑え切れなく
なり始めた己の感情を持つ身に、この大仰なラブソングは随分と堪えた。
「私を月まで連れてって、か…」
「連れてってやろうか?」
「…!」 
 とっくに綺麗になっているシンクを執念深く磨きながら、ぼそりと呟いた言葉に不意に聞き慣れた声で答えが返り、坂
井はハッとして顔を勢い良く上げた。
 そこにはいつの間にかカウンターに肘をついて、こちらを見ている下村の顔があった。
「月まで、とはいかねえが、月の目の前までなら連れて行ってやるよ」
 そう言って他のボーイには見られない様チラリと笑い、下村は店内の点検に行ってしまった。 
「…月の目の前…?」
 いつの間に演奏が終わっていたのだろうか。仰いだ先のピアノは蓋が閉じられピアニストの姿は既に無かった。それ
ら一連の動作を全く気づかなかった迂闊を叱咤しながら、今の言葉を反芻する。 が―――…良く分からなかった。
 とにかく連れて行くというからには、この後時間を空けておけということだろう。坂井は不用意
にはしゃぐ胸を押さえてグラスを手に取った。












「おお…」
 目の前に迫る月を見ながら、坂井は感嘆を漏らした。
 店が明けた後、下村が坂井を連れ出したのは、サイドハウスの建ち並ぶ地区の奥にある崖先だった。確かに遮るも
のの何も無いここでは、月に手が届く場所まで来たような錯覚に陥る。
 なるほど、確かに月の目の前だ。
 あっさり認めて振り返ると、坂井の意図が分かったのか、下村は嬉しそうにちょっと笑った。
 坂井はそれに負けを認める振りを装って苦い顔を返し、もう一度月を振り仰ぐ。


 そんな顔、してくれるな。言ってしまいそうになるから。


 一秒毎に苦しさを増す胸の痛みを誤魔化すように、もう一度月の姿を感嘆符で褒め称えながらも、坂井の目に焼きつ
いていたのは、ほんの一瞬垣間見た月明かりに照らされた下村の姿だった。
 朧に浮かぶ薄茶の髪はまるで金の粉でもはたいたように眩く光り、額に長く落ちかかる金糸の束は頬に、通った鼻筋
に、微笑を見せた唇にやんわりとした優しい影を落としていた。
 そんな気も、つもりもない下村のそんな姿ひとつに胸を騒がせる自分が悪い。下村は坂井がこんな不埒な目でもって
見ているとは思いもよらないのだ。
 背中に痛いほど
下村の存在を感じながら、振り返れないで居る自分は酷く滑稽だ。
 本当ならはこのまま振り向く勢いで下村を抱きしめたい。
 そして、できるならばくちづけを。
 しかしそれが叶わないのは分かっていた。それは坂井の勇気の無さのせいであり…下村の斜に構えた臆病さのせい
だった。
 下村はどんな形にせよ、人に深く入れ込むことを避けている。
 だから、他人の本気に酷く過敏に反応し、何かを期待しながらも、そのくせ聞くのを怖がっている。それが無意識なの
か或いは意識的なものなのかはわからなかったが、だからこそ、下村はこちらがチラリとでも真剣な様を見せようもの
なら分からぬ素振りで追随せぬよう、ヒラリと避ける。
 そしてもっとも残酷な最上の笑顔でもって切り捨てるのだ。
 だが、それに甘えていた自分も同罪である。
 下村の臆病に甘えて、今の関係を捨てることを恐れた。その勇気のなさを責めずして、どうして下村を責められるだ
ろうか?
 でも、何時までもこのままでは居られない。―――居るつもりも無い。
 月をぐっと睨んで、息を大きく吸い込んだ。不意に、あの、ラブソングが蘇った。
 いきなり振り返った坂井に驚いて、下村は目を丸くした。どうやら月が気にいったらしい坂井がこちらを向くと思ってい
なかったらしい。その顔が意外に幼くて坂井は胸が詰るのを感じた。それでも今のこの気持ちを止める術を既に持たな
かった。
「下村」 
 じっと見つめながら名前を呼ぶと、案の定居心地の悪そうな顔でこちらを見返し、目を細めた。それが下村の避けよ
うとする兆候であることには気づいている。今度こそ逃げられてたまるかと、坂井はダラリと両脇に下がった下村の二
の腕を掴んで引きとめた。目の前では突然の坂井の行動に、不振より困惑を浮かべた目が瞬いている。少なくともそ
れくらいの信用は得られているとほっとする反面、やはり下村に伝わっているわけがなかったのだと場違いにがっかり
していた。だからといって奮い起こした気が萎える訳も無く、下村を見る目にぐっと力をこめて、真剣な顔ではっきり言い
切った。
「俺と、月まで行ってくれ」
「…は?」
 一瞬の間を置いて零れた言葉に、ああ、本当にこの男は自分気持ちをただの友人の好意の押し付けであるくらいに
しか思って居なかったのだと悟っていたたまれないような気持ちになるものの、ここまで言ってしまったら、後は押して押
すだけだと掴んだ手を緩めはしなかった。
「…好きだ」
 どうやら真意を理解しかねる下村に、分かりやすく簡潔な言葉で言い直す。ここまで言えば、いくら縄抜け名人の下村
と言えども、容易にこの手の中から抜けることは叶わないだろう。
 さあ、ここまではっきりと言われて、どう出る?下村? 
 まるで挑むような気持ちになり、これは一応愛の告白であるはずなのにと思いながら、そうならざるえなかった数々の
仕打ちが脳裏に蘇った。今日の、沢村との一件もそうだ。下村が知らないうちに他の誰かと親しくなって、打ち解けてい
く度に、ほんの数人にしか見せていなかったはずの、柔らかで幼げな儚い笑顔を知る者が増えるのかと思うと、腹が焼
けるような嫉妬を覚えさせられた。また、ある時は食事に誘ったら雨が降っているからと素っ気無く断られ、一緒に出社
しようとしたら既に居なかった。下村のためにと買った酒はいつの間にか桜内の腹の中だったこともあったし、下村の
為に考えたカクテルを甘いと言って飲んでくれなかったこともあった(ちなみにその日はバレンタインだった)。
そんな風に気づいているのかいないのか、ことごとくかわしまくってくれたおかげで、ここで逃げられたら本当に今度こ
そ終わりだと切羽詰ってもおかしくは無いだろう。
 しかし、そんな手負いの獣の如き気配を漂わせた坂井の予想を裏切って、下村は全く違う反応を見せた。


 その顔は、白い月明かりの中にあっても、はっきりと分かるほどに…真っ赤だった。


「…お、おまえっな、な、なに言って…っ」
 その上酸欠の金魚の様に口をパクパクさせつつそう言うと、更に首元を越えて鎖骨の辺りまで赤くして目を瞬かせ
た。どうやら動転して上手く言葉を捜せないらしい下村に、坂井は驚きでこちらも言葉を失くしていた。
 こんな下村は、今まで見たことがなかったからだ。
 どちらかと言えばいつも感情を抑えた素振りでいる事が多く、大抵のことには動じずスマートに解消し、どんな諍いに
あっても声を荒げない。もちろん意識してのことではあったと思うが、それでなくとも丹精な顔の造りをしている下村が、
その様な態度を取ればそれは似合いすぎていてそれが本来の姿だと思われても無理はない。しかし坂井はその隙間
から零れる本当の、本来の下村に惚れていた。


 気に入らない相手にほんの半瞬見せる、射殺すような獣の視線。嫌な客を丁重に送り出した後の舌を出した顰面。
チラリと見せる、少し困ったような笑い顔。


 そんな小さな本当の下村との繋がりを、まるで宝物の様にずっと大事にしまってきた。
 でも、こんな下村の顔は知らない。
 始めて見た下村のものすごく動揺した顔を見ながら、ああ、これも宝箱行きだと間抜けにも考えて、じっとその顔を見
ていると下村は益々動揺して、焦ったように顔を背けた。
「冗談は、顔だけにしとけ!」 
 目を逸らし、真っ赤な顔のまま言われてもたいして効力のない言葉ではあったが、それでも随分な言い様にムッとし
た。
「顔は冗談かもしれねえが、こんな冗談言うわけねえだろ」
 確かに下村の容姿と比べるべくも無いが、だからと言って冗談はないだろう。冗談は。
 ムッとしたのが声に出たのも自分で分かった。それに下村は何故かビクッと肩を揺らして、焦った様にこちらに視線を
戻した。
「あ、いや、その…そういう訳じゃなくて…」
 本当に、どうしたことだろうかこの動揺ぶりは。
 確かに男に告白されて驚かない者はそういないだろう。坂井もこれが恋愛感情であることに驚き、認めることには勇
気がいった。時間を掛けてここまで至った坂井と違って、友人だと思っていた男からいきなり告白されて動転するのも
無理は無い。
 無理は無いのだが。
 それにしても、下村らしからぬ動揺ぶりに、本当は緊張のひとつもするはずの坂井が逆になんだか余裕を取り戻して
しまって、一体どいういう展開なのだと首を傾げた。
 下村は、なおもオロオロして真っ赤な顔のまま、俯いてしまった。
 そうするとうなじの方まで赤く染まっているのが白いシャツの襟ぐりから見えて、坂井はつい…つい、出来心で―――
そこへくちづけてしまった。
「っひゃあ!」
 飛び上がらんばかり驚いて、下村が声を上げた。その声がまたあまりにもイメージとは掛け離れていたものだから、
坂井の方こそものすごく驚いて、手を緩めてしまった。
 その瞬間。
 強烈な右ストレートだった。多分。
 それに気づいたのは痛むのが左頬だったからと、下村の左手が今日はブロンズだったからだ。
 左でやられていたら、多分骨までイッたハズだ。
 しまった、やり過ぎたとしりもちを付いて慌てて下村を仰ぎ見ると、真っ赤な顔のまま泣きそう
に目を瞬かせていた。
「ば、馬鹿野郎!イキナリそんな事、するんじゃねえ!」
 え?と思った時には、下村は離れた場所に止めた車に向かって一目散に走り去った後だった。
「…イキナリじゃなきゃ、いいのかよ…」
 まあ、動揺して自分が何を言ったかなんて、覚えているはずも無いだろうが。
 ボンヤリとその後姿を見送りながら、漸く襲い始めた頬の痛みを撫でることで倍増させても、どうにも湧き上がる笑い
の衝動と楽しい気分になるのを抑えきれなかった。
「ひゃあ、だってさ。あの下村が―――なんつーかわいさだよ」
 額を押さえて顎に響く笑いを抑えながら、呟く。鼻を突く痛みを堪え切れそうに無かった。
 上向いて空を見上げれば、眩いばかりの月が柔らかく身を包んだ。それでも溢れた涙は抑えきれずに大粒になって
頬に零れ落ちた。
 嫌がられると思った。拒否され、嫌悪され、全てを否定されて終わるだろうと。
 それなのに、あの下村が、自分の言葉に照れて真っ赤になったのだ。
 ひとことの、拒絶の言葉も言わぬまま。
 こんな奇跡が果たしてあって良いものかと思いながら、これはまさに月のおかげかと、その身が朝に席巻されるまで、
坂井は月と海とを存分に眺めながら、繰り返しあの大仰なラブソングを歌い続けた。





































なーんか、最近坂井ばっかりがカワイコちゃんだったので
今回はシモムーカワイコ計画でした。
本当は沢村さんとのカラミを書きたくて始めたのに、どーしてもタケはサカシモなので
こうなっちゃった・・・(絶句)
やっぱり下村は愛されてナンボですから。
つーか、タケが可愛がりたいだけなのだけどね。
でも、坂井視点で可愛がり始めると、なんか悲恋か鬼畜系になりかねないってゆーか・・・
ほんっと個人的な意見で申し訳ないんだけど、タケは鬼畜系がダメです。
子供の頃に「鬼畜」ってゆー映画を見ちゃってから、なんかトラウマになってるみたいで
その言葉に拒否反応起こしてしまうの。
皆さん、間違ってもお子さんにあの映画を見せないようにしましょう。
タケみたいになっちゃいますよ。
あ、ちなみに下村の「見失って困るもの」は坂井のことです。念の為(分かりにくーい!)。