膝上三aの世界








 雨上がりのカラリと晴れ上がった空が、ベランダの外に広がった。
 それを開け放した窓から見ながら、心地よく吹き込む海風に目を細める。自然と大きく吸い込んだ空気には、まだ生
まれ始めの夏の匂いがした。
「髪、ちゃんと拭けよ」
 後ろから声を掛けられ、振り返ると下村はソファで何かの雑誌のページを捲っていた。こちらを振り返った気配はなか
ったが、気にしてくれているのは分かる。坂井はそれに微笑んで、無言のまま素肌の肩にかけたバスタオルで髪をごし
ごしと拭った。
 昼を過ぎた時間は波も静かで、いつもは聞こえてくる漣も部屋には届かず、漸く目を覚ました二人はさっぱりとシャワ
ーを浴び、これから食事に、という時分だった。
 仕事のある日は大概夜中に帰り、昼過ぎに目を覚ます。二人同じベットで目を覚ますこともあれば、それぞれの自宅
で目を覚ます事もある。それでも最近では二人で申し合わせたように少し遅い朝食か、少し早い昼食を一緒に摂る事
が多かった。その多くは坂井からの誘いだったが、たまに下村の方から声が掛かる事もあり、そうやって少しずつ自分
の存在を確実に下村の中に残していることに坂井は明らかな充足感を感じるのだった。
「ごめん、早く支度するから」 
 ソファの後ろに回りこみ、覗き込むように下村の様子を伺った。下村が見ていたのはファッション雑誌だった。下村の
部屋にはそういった類の雑誌がたまに置いてあったが、坂井は中を見たこともない。
「別に。頭は拭かないと風邪を引くだろう」
 少し眠たげな、囁くような声は柔らかく坂井の耳を打った。その言葉に目元を和らげ、坂井は振り返りもしないまま意
識もせずにそんな優しいことを言う下村の耳元にソファの後ろからくちづけた。
 下村が、こんな風に坂井を喜ばすような言葉を不意に口にするのは、そうあることではなかった。それでも確実にそ
の小さな言葉ひとつで坂井を喜ばせるものだから、坂井はまた御褒美を強請る犬のように下村に擦り寄ってしまうのだ
った。
「くすぐったい」
 何度も繰り返し耳元や首筋に悪戯にくちづけるのを厭って、下村は右手で坂井の顔を押しのけるようにこちらを向き
ながら顰めた顔を見せた。しかし表情の割にその口調は静かで優しい。下村はいつもこんな風で、まるで凪いだ海の
様に穏やかで深い目の色をした。しかしそれも極限られた者にしか見せない特別なものであり、その中に確実に自分
が含まれているのだということを喜ばずには居られなかった。
「何だ?」 
 振り返った下村が、不審そうに坂井の目を上目遣いにじっと覗き込んだ。黙り込んだ坂井をまるで心配するような様
子に、胸が高鳴る。
「下村…」
 見上げてくる下村の唇に、そっとくちづけを落とす。
 神妙な坂井の様子に、下村は黙って目を閉じてそれを受け入れた。
 表面だけを触れ合わせる浅いそれを何度も繰り返し、確かめるように下村の首筋や肩口を撫で上げた。下村はそれ
にまた擽ったそうに体を竦めて、坂井を微笑ましいような気分にさせる。胸いっぱいに広がった愛しさが、どうしようもな
く感情を波立たせて坂井を泣きたいような気分にさせる。目を硬く瞑り、首を傾げて飽かずくちづけを繰り返しながら、
戸惑いを見せ始めた下村を抱きしめた。しかしどうしても不自然な体勢では上手くいかず、まるで拒否されているかの
ような錯覚を覚えて知らず神経が苛立った。
「…坂井、こっち来いよ」
「うわっ」
 ぐいっと腕を引かれ、中途半端な体勢で腕を引かれるままに頭からソファに突っ込みそうになるのを、慌てて腕を突
いて体を支えて背もたれを大きく跨ぎ越した。その間も下村は手を離さず、珍しく強引に坂井の腕を引いた。
「どうした?」
 どうにか体勢を直し、下村の隣に腰掛けるとぎゅっと下村が坂井を抱きしめた。それにちょっと驚いて、坂井の声は上
擦る。
 下村の方からこんな風に触れてくるのは珍しい。概ね構って欲しい坂井がちょっかいをだして仕方なくそれに答えるの
が常だった。
 それをいつも物足りなく感じている坂井であったが、いざそういった状態になるとどうして良いのか分からなくなってし
まう。
 案の定大幹に抱きつかれて余ってしまった腕を持て余して宙を掻く様に腕を彷徨わせた。そうして戸惑う坂井などお
構いなしで、下村は坂井の背に回した腕を何度か宥める様に上下させてから、坂井の頭を両手で挟み込んだ。
「な、なんだ?」
 体が離れたせいでやっと下村の表情を確認できたのも束の間、垣間見た顔は全くの無表情で、何を考えているのか
図ることが出来ない。
口元は曖昧な笑いのようなものが浮かんでいる気もしたが、それは表情というよりもただ単に呼吸の際に出来る皺の
様にも見えた。
「メシ、後でもいいな?」
「は?」 
 正面に坂井の顔を見据えて、その両脇を手で固定しながら下村が極真剣な口調で聞いてくるのを、坂井は上手く理
解できずに間の抜けた声で答えてしまう。下村は少し考えるようにじっと坂井を見つめていたが、小さく頷き、ぐいっとそ
のまま坂井の頭を下に引いた。
「わっ!」
 突然あらぬ方向に引かれて、坂井はまた抵抗も出来ずに引かれるままに体を倒した。驚いて目を閉じると、額に柔ら
かな布の感触があたった。
「し、下村?」
 見上げた先には、相変わらず無表情のままの下村の顔がある。
 坂井はしっかりと下村の足の上に頭を乗せ、丁度膝枕をされる格好でソファに寝転んでいた。驚きなのか疑問なのか
混乱で目を見開いている坂井の頭を、何を思ったか下村はヨシヨシというように何度か撫で付け、時折触れる耳元や
頬に何かを点検するように触れた。
「何でお前は、そんな顔ばっかりするんだ」
 ため息混じりに言う言葉は呆れたようだったけれど、その手は優しく坂井の額に触れ、ゆったりと髪を梳いた。
「ひ、膝濡れちまう…」
 自分の髪がまだ生乾きだったことを思い出して、混乱した頭を慌てて起こそうとして、やんわりと下村の手に阻まれ
る。先程のような強引さは欠片もないのに逆らえず、大人しく再び膝に頭を落とした。布越しに当たる体温の温かさにう
っとりと目を閉じる。左手を背もたれと下村の背の間に差し込み、その腰を抱きこんで、鼻先を下村の下腹辺りに押し
付けた。シャツからは太陽と石鹸の匂いがして坂井をほっとさせた。
 そんな仕種に、下村が少し笑った。
「でっけえ子供みたいだな」
 クスクスと今度は息を漏らして笑って、目を閉じた瞼や、まだ素肌のままだった肩口に触れ、屈み込むようにくちづけ
を落としてくる。それを心地よく受けながら、染み込む体温を吐息に変えて吐くと、答えるように頬に唇を落としてくる。
「子供なんだから、甘やかせよな」
 そうして顔を上げて強請るように見上げると、笑いを含んだ下村の目とぶつかり、次いでゆっくりと唇にくちづけが舞
い降りた。吐息の柔らかさで何度もくちづけ、もっと深くと求めるように下村の頭に手を回す。引き寄せて深く差し込んだ
舌を下村が緩く噛んでは舌を絡めた。だんだんと吐息が忙しなくなるのをお互いに感じながら、それでも引っ込みが付
かずに擦り付けるように唇をぶつけ合った。
「―――…どうして、急に…?」
 胸に抱えた疑問を、吐息に混ぜて問いかける。縋りつくような坂井のそれに答えながら、下村は考えるように軽く閉じ
ていた目を薄く開け、目の前で神妙な様子で答えを待つ坂井の目を見た。
「さあ…?なんでだろうな。なんとなく、お前の顔見てたら…こうしたくなった」
 下村の言葉に嘘はない。嘘など付くのも面倒がる男なのだ。だから、本心から下村はただ、こうしたかったというの
だ。
「本当に、分からないのか?どうして、こんなことしたくなるのか」
「?ああ」
 顔を上げ、坂井を見下ろすその顔は、きょとんと目を瞠らせていた。本当に、分からないのだ。下村は。
 どうして、不安そうな顔をした坂井を引き寄せたのか。
 どうして、慰めるようにくちづけたのか。
 どうして、坂井に隣を許すのか。
「…そうか」
 そのまま、坂井は突っ伏すように再び下村のシャツの中に顔を埋めた。擽ったそうに下村が身じろぐが、抑えるように
腰を抱えなおす。諦めたように収まった体を、坂井は強く引き寄せた。
 甘い言葉も囁きも、下村にとってはなんの事もないただの気まぐれなのかもしれない。ただ、その時自分が思った通
りに自分の心に従っただけだと。
 けれど、だからこそそれは、坂井にとって最上の愛情の表現であった。
 甘い言葉も囁きも、下村にとってはなんの事もなただの気まぐれだろう。それでもその気まぐれを、坂井という対象を
選んでしているのだという事実を、果たして下村は気づいているのだろうか?
 甘い言葉も囁きも、こんな風に許すのは、坂井だけだということを。
 果たして、この寝ぼけたことを言う男は、気づいているのだろうか?
 多分、無理だな。と思いながら、それでも段々と湧き上がってくる感激という笑いの衝動を、抑えるべきかそれとも笑
い転げて下村を驚かせるべきなのか迷いながら、膝枕に目を閉じた。























男の膝枕は固いというツッコミはなしで。