頭の底に張り付くような電子音で目が覚めた。 一瞬、眠りから脱し切れない思考は理解を拒み、それが何の音であるか暫し悩む。遮光のカーテンに遮られた日の 光が、僅かに撓んだ隙間から入り込みその中で塵がヒラヒラとダンスを踊っていた。それをぼんやりと眺め、そこで漸く 耳を打つ音がどうやら電話の呼び出し音であることに合点がいった。 「…?」 ただ純粋に、体が反応してベットに張り付く背を起こし足をつく。頭はそれを追わず考えは至らず、フラフラと夢遊病 のように電話の置かれたリビングへと歩いた。 「っ…はい…」 のっそりとした動作で、受話器を耳に押し付ける。ヒヤリとした感触に幾分目は覚めたが、眠りのせいで張り付いた喉 を揚々開いて声出した声は、予想より一拍外れその上酷く擦れてしわがれていた。 『…悪い。寝てたか…?』 まっすぐに届いた柔らかな声は、酷く申し訳なさそうに耳元へ囁いた。 その声が耳へ届くや否や、坂井は先程までのぼんやりした頭などどこへやら、ハッキリと受話器の先の人物を無意識 のうちに思い描いてハッとした。 「下村か…?」 慌てて飲み込んだ唾が、危うく喉に詰まりそうになって咳き込む。それに「大丈夫か?」と囁かれ坂井は返って動転し た。 「あ、ああ。大丈夫だ。すまん」 掛かって来るはずのない人物からの突然の電話に、あたふたと受話器を忙しく左右に持ち替えどうにか平静を保とう とするものの、それがまた余計に焦る自分を意識してしまいあわあわと受話器を取り落としそうになった。 「それより、ど、どうしたんだ…?」 ちらりと時計に目を走らせる。夕刻に近く、普段であればとっくに出社の仕度をしている時間だった。 今日は店は休みで、本を読んでいる裡にウトウトと眠りこけてしまったのだ。 どうにか混乱の中にもそれだけは思い出し、思いのほか時間が過ぎていたことに驚いた。 『ん…何って訳でもないんだがな』 歯切れ悪くそう言って、下村が苦笑したのが分かった。儚い空気の戦慄きが、電波を通してでもよく分かる。 その吐息が、坂井の胸にざわざわとした不穏の影を作って、得体の知れないそれに首を傾げる。自分が、何に対し て反応しているのかがよく分からなかった。 『今、ブラディ・ドールの前に居る』 「店の前?」 なんでまた、そんところに。簡潔に告げた下村に、坂井は驚きの声を上げてしまった。 なるほど下村の背後からは、繁華街の雑踏が意外な近さで聞こえてくる。本当にどこかの公衆電話から掛けて来て いるのだ。 訳も分からぬまま、下村の声を聞くたびに鼓動が早くなるのが分かる。何かを期待するようなそれに不安を感じなが ら、坂井は平静を保って話を続けた。 「なんで…今日は店、休みだぞ」 それは下村も知っているはずだった。以前同じように知らずに訪れた下村がぼんやりと店の前に立っていたことがあ り、偶然通りがかった坂井がそれを見つけてホテルまで送ってやったことがあったからだ。その時下村はまだ右手にギ ブスをはめたままで、酷く痛々しいような、居心地の悪そうな顔をしていて放って置けなかったのだ。その時確かに定休 日のことは話したはずだった。 『ああ…、知ってる…』 そこでまた、下村が微かな笑いを声ににじませた。それに坂井はまた意に沿わず胸の辺りがざわつくのを感じ、これ はどうしたことだろうかと思う。下村と話をするのは、今日が初めてでは無論ないし、こうして電話で連絡を取り合ったこ とも何度もあった。 それが今日に限って何か得体の知れないものを受話器の向こうから感じて、坂井は戸惑った。 『もしかしたら、お前に会えるかも知れないと思って』 前に一度、そうしたら会えたから。 電話であっても下村の照れた様子は手に取るように分かった。それとも下村はそんなことを結構平然と言うタイプな ので、坂井の勝手な思い込みかもしれなかったが、沈黙を落としてしまった下村は確かに何がしかの戸惑いを感じてい るのに違いなかった。 休みと知っていながら、それでも店に来たのか。この男は。 たった一度の偶然を思い出して。 思い至った心臓が、急激に激しく痛むのを感じ、坂井はとっさに胸の辺りを強くつかんだ。かき寄せたシャツが、ざわ りと肌を撫でた。 その、感触が。 「し、下村」 『ん…?』 突然に追い詰められたような気分で、慌てて何かを薙ぎ払う様に名を呼んでいた。下村は緩慢に吐息で答え、それは まるで誘うように坂井の胸をかき乱した。 「今から、迎えに行く。そこから動くなよっ」 『え?お、おい。坂井?どうし…』 「いいから!待ってろよ!」 『おい、坂井…』 ガチャンと叩き付ける勢いで受話器を戻した。息が大きく荒立っているのが分かる。意味もなく心拍を乱しながら、両 手で強く受話器を押さえつけた。 「嘘だろ…?」 ヘナヘナと足を折ってそのまま座り込んだ。信じられない感覚が全身を取り巻き、指先は痺れて小さく震えていた。 その感覚は疑いようもなく、直接に吹き込まれたような下村の吐息を不意に思い出しては余計にざわざわと背筋が悪 寒に痺れた。 快楽という、悪寒に。 「そ、それどころじゃねえ…」 今程交わした約束を、自分の方から違えるわけには行かない。 多分、下村は見かけによらない正直さで、その場を動かずきっと待っている。 「…情けねえ…」 咄嗟に立ち上がろうとした足が覚束なく、どうにも見っとも無く前かがみになる自分を恨みながら、冷水シャワーでこ れが治まるのだろうかと息を吐いた。 終 |