ガタガタと音を鳴らしてテーブルの上のものが床に散らばった。ペンやメモ紙、文鎮や何かの部品は多分ウソップが 使ってそのままにしておいたものだろう。元はきちんとテーブルに並べられていたそれらも、今は床に散らばりあるいは ベットの下、あるいは大きな扉の前まで転がり、文鎮は床を割る勢いで音をたてた。 「おいっゾロ!」 「騒ぐな」 細切れに切れた息の下から、苦しげにゾロが鋭い声を発した。しかしこちらへ寄越されるはずのきつい視線は終ぞ現 れず、今のゾロの状態が如何に芳しくないかを物語っていた。 「だって、お前…」 言い募ろうとして、でも結局は言葉を千切って今にも折れそうな腕をテーブルに突いて体を支えるゾロの傍へサンジ は駆け寄った。寝巻きの薄い布地を纏った肩が細かに震えている。 「チョッパー呼ばねえと…」 「必要ねえ。薬はある」 身を翻して今にも部屋を飛び出そうとするサンジを、ゾロは幾分息を整えた様子で引き止めた。それに弾かれるよう に振り返っても、やはりゾロの目は閉じられたままだった。 バロックワークスとの争いの後、漸くゾロが目を覚ましたのはサンジに遅れることを取ること一日、昨晩のことだった。 比較的早い段階で目を覚ましたサンジは己の状態を把握した上で、それでも思うのは寝付いたままのゾロやルフィの ことばかりだった。 数年ぶりにアラバスタ全土へ降り注いだ雨が上がり、美しく晴れ上がった空を覗かせた朝、ナミやチョッパー、ビビは バイオリズムにしたがって目を覚ました。しかし残りの4人…ルフィ、ゾロ、ウソップ、そしてサンジは目を覚まさなかっ た。しかしウソップはその日の晩に、サンジは翌日の朝には目を覚ました。それは傷と本人の治癒力、耐久力との兼ね 合いによってすれば順当であったが、それぞれ傷から起こる発熱は如何ともし難く、日中の大部屋をベットで過ごして いた。しかしそこはそれ、ウズウズと抑えきれずにいつの間にか思い思いの場所へ散っていった。好奇心が旺盛だと 言えば聞こえはいいが、つまるところ退屈や安静が彼らの身には付いていなかったということだ。唯一チョッパーはそ れを大層残念がったが、それでも元気になり、立ち歩く姿を一番喜んでいたのもまた、チョッパーだった。 しかしそうは いっても、一・二を争う重症振りを発揮し、全く目を覚まさない二人――ルフィとゾロを放って置けるわけもなく、交代で 看ることにはなっていたが、結局有事を考えてチョッパーと自ら買って出たビビの二人が常駐する形になっていた。そし て二人が補えない部分を後のクルーがフォローすることに自然となっていた。 ゾロが目覚めた翌朝、その時間はサンジが付き添う事になっていた。ルフィは変わらず高鼾で眠り込んでいる。その 横で、ゾロの寝息はかなり荒く、胸に受けたえぐる様な傷が熱を発しているのは明らかだった。ゾロが目覚めた夜半の 時点で、チョッパーがゾロに熱さましと炎症止めを服用させてはいたが、ゾロの傷はそれに勝る勢いで体を苛んでいる 様だった。 朝になり、一応の落ち着きを見せたのを期にチョッパーは薬の調合で席をはずし、後の連中は朝食を済ますとまたど こへなり消えていった。 そしてサンジは寝ずでついていたビビを寝室へ丁重に追いやり、ゾロとルフィの間に腰を降ろしたのが二時間ほど 前。しかしやはり熱の下がり切らない体は睡眠を求め、ハッと居眠りから覚めた時にはゾロはベットから消えていた。 「何で起きてんだよ。熱、ぜんぜん下がってねぇんだぞっ」 後ろから肩を抱え込む。その肩は驚くほど高い体温でサンジをびくりと竦ませた。 通常であればサンジのそんな手を許すゾロではなかったが、本調子でないせいか、それさえも気づかない素振りでそ ろりと目を開けると、熱で潤んだ目を何度か瞬かせ、どうやら眩んでいるらしい視界を確かめるように辺りを見回した。 体を支えるテーブルに突かれた腕は、二本に増やされていたが、震えはまだ止まらない。 「なんだよ、なんか探してんのか」 刀は三振り、ゾロの枕元に並べてある。起きればすぐに分かる様にとのナミの配慮だった。 他にゾロが欲しがるもの。サンジは咄嗟に思いつかなかった。 「…水」 「水?水だな?」 掠れた声を発するたびに、ヒュウヒュウと喉が鳴った。それが痛々しく、サンジは慌ててワゴンの上に置いたままだっ た水差しに手を伸ばした。 「ほら、飲めるか?」 グラスに手を添えたままゾロの口元へ差し出した。ゾロはそれをどうにか受け取ろうとするのだが、どうにも力が上手 くこもらないらしく、一瞬焦れったそうに顔を歪めたが、無理を悟って早々にサンジの手に緩く手を添えるに留めてグラ スに口をつけた。しかし立ったままの姿勢では上手く喉まで水を流し込めない様子で、苦しそうに眉を顰めた。それでも どうにか口の中を湿らせたことで落ち着いたらしく、もういい、というようにグラスを押す仕種でサンジにグラスを避けさ せた。 「ほら、ベット戻れよ」 グラスをワゴンに戻し、足元に散らばった物にゾロが足を取られないように蹴ってどかしながら、肩を支えて促そうと するのに、ゾロは足を動かそうとはしなかった。どうしたのだろうかともう一度声をかけようとして、どうにもやりきれない ような表情を一瞬浮かべたゾロの目に、サンジは気づいてしまった。 どんな怪我を、どんな傷を、どんな高熱を発しようと今まで一言の弱音も痛みも訴えたことのないこの男が、今、足が 竦んで動けなくなっているということに。 その瞬間、サンジはなんともいえない焦燥に、ぞわりと背筋が毛羽立つのが分かった。 それは、恐怖という感情に似いていたかもしれない。 初めて見るゾロの様子に、サンジは浮き足立つのを抑えきれず、得体の知れない不安に騒ぎ出しそうになった。 その時、初めてサンジは何時死んでもおかしくない生き方をするこの男を、いつの間にか死ぬはずがないと思いこん でいた事実に愕然とした。 あの、冗談みたいな大傷を負って、それでも尚走ることを止めない男。 その足が止まることなど有り得ないと、いつの間にか思い込んでいたのだ。自分は。 無意識のうちに決め込んでいた事実をいとも簡単に覆された事に、サンジは恐怖を感じていたのだった。 支えた肩が、燃えるようにサンジに触れる。密着した背の薄い布地の下の熱い肌が、忙しない息遣いに上下してい る。それを自分のシャツ越しに感じ、サンジは遣り切れなくて震えそうになる唇を噛んだ。 「…うわ?」 突然浮き上がった体に、ゾロが声を上げた。水のおかげで随分と楽になったのか、声は喉からすべらかに零れ落ち た。 「な、何をっ」 「いーから。誰も見てねーんだし」 そう言って、サンジはゾロを抱き上げていた。 背中を左腕に抱え込み、救い上げるように膝の裏側に右手を差し入れた。所謂お姫様抱っこで、だ。 当然それを大人しく受けるゾロではない。わたわたと手を振り回そうとしているらしいのだが、どうにも上手く力のこも らないそれではサンジを押しのけるには至らない。 「おいっやめっ…っ」 口を開くにも辛そうなくせに、それでも言葉でサンジを退けようとするゾロを、サンジは黙らせ た。 くちづけるその唇で。 「頼むから、じっとしてくれ」 お前が、こんなこと黙ってされるほどヤワじゃねえのは知っているけど。呟いて、サンジは本当にぴたりと黙ってしまっ たゾロの目を見た。その目の中に動揺を読み取って、サンジは唇の微かな震えを知られてしまっただろうかと訝った。 本当はゾロの体に沿わした指先が、微かな震えを伝えていたが、サンジはそれには気づかなかった。 眉を顰めて顔を逸らしたものの、ゾロはサンジがそっとベットへその体を下ろすまでじっとしていた。 「もう少し水、飲むか?あんまり飲めなかっただろ」 自覚してしまった不安感は途端にサンジの胸を強く突き、大きく揺れた感情は危うく焦燥を駆って涙を呼びそうにな り、慌ててベットに腰掛けたゾロから顔を背けた。事実喉を枯らしているのではという思いはもちろんあったが、情けなく 歪む顔を見られたくなかったのが大半だ。 しかしゾロはそんなサンジの必死な様子など頓着することなく、返事もせずにじっとしているだけだった。 「ゾロ?」 振り返る時は、左から。前髪で顔を隠してゾロを伺うと、やはりゾロはこちらをじっと見ていた。 「怪我…」 「け、怪我?何だ、痛むのか?痛み止めなら…」 「違う」 今度ははっきりと。声は熱に掠れていたが、いつもと変わらない強い意志を湛えたてサンジの胸を貫いた。 「お前」 「お、俺…?」 予想できず、サンジは思わずゾロを正面から見つめていた。合わせたゾロの目が少しだけ細められる。 「お前、また骨やっただろ。人の心配してるどころじゃねえだろ」 そっけなく言って、ゾロはプイッと顔を逸らして布団を手に取った。引き上げてまた眠るつもりなのだろう。 「ゾ、ゾロ…水…」 「もういい。寝る」 呆然と呟いたサンジに、にべもなくゾロはそう返すと、さっさとまた寝息をたて始めていた。 もし、もし気のせいでないのなら。 ゾロの目に、一瞬宿った光の色も。 サンジを起こさず、自分で水を取りに行こうとしたのも。 暴れずに大人しくこの胸に抱かれたことも。 サンジはそっとゾロのベットサイドに寄り、脅威のスピードで夢の中へ逃亡したゾロを見下ろし、傍に置かれた椅子に 腰掛けた。 「お前、俺の事心配してくれたの…?」 そっと、ホワホワとした髪をすく。微笑みは自然と口元を模った。 いつか死ぬ。俺もお前も。だからこそ今がこんなにも愛しいんだな。 ベットへ頬杖をつき、そっとゾロへ顔を寄せる。 吐息はまだ熱を含んで辛い様子は変わらないが、その表情は随分と落ち着いたものに変わっていた。 「ありがと…お休み、ゾロ」 本当は殴っても起きないかもしれないけれど、それでも今は穏やかな気持ちでそっと目蓋へくちづけ、頬を辿り触れる だけのくちづけを唇に落とした。 いつか死ぬ。 それでも最後まで往生際悪く、生きていこう。 なあ、相棒? 終 |