指に触れて












「あっつ」
「どうした?」
 部屋の隅でごそごそと捨てる雑誌の仕分けをしていた下村が、小さく声を漏らした。それを耳ざとく聞きつけて坂井が
振り返ると、下村はなにやら俯いてしまっている。
「どうした」
 畳みかけたシャツを放りだして背後から覗き込む。下村は眉を顰めて指を咥えていた。
「つめ」
「爪?」
 咥えた指のせいで不明瞭な言葉を繰り返して問う。それに下村が頷いた。
「引っ掻けた」
 そう言って抜き出した指先に、浮いた爪が張り付いている。そこからみるみる血がにじみ出てきて、坂井は顔を顰め
た。
「待ってろ」
 言い置いて、寝室にある薬箱を取りに行く。下村は大人しくソファに腰掛けた。
「ほら」
 ソファに腰掛けた下村の正面の床に坂井は座り込み、珍しいものでも眺めるようにじっと指先を見ている下村からそ
の手を取り上げた。
 爪のひび割れは随分と深いところまで食い込んでいるようで、浮いてしまった爪の下からじわじわと血が滲み、今にも
零れんばかりの小さな玉を作っている。それをティッシュで拭うが、それでも暫くたつとまた同じように血の玉は指先に
留まった。
「結構深いな?」
「ん」
 自分の事であるのにどうにも鈍い返事を返す下村に、坂井は訝って顔を上げた。ぼんやりとした様子にどうやら傷の
ことなど面倒になってきているのが分かった。
 どうしてこいつはこんなに自分に対して無頓着なんだ。
 坂井は思わずもれそうになったため息を喉の奥で殺して、改めて剥がれた指先を見た。
先の半分は剥がれて浮いてしまって、今にも取れそうな具合になっている。これは取ってしまったほうがいいのか、それ
ともこのままボンドで留めてしまったほうが良いのか暫し考える。その間にもチラリと見上げた下村はどうでもよさそうな
顔で自分と坂井の手元を見ていた。
「これ、取ったほうがいいのかな?」
 まじまじと見つめながら、伺ってみる。案の定下村はどうでもいい、と答えた。
「おい、自分のことなんだから真面目に答えろよ」
「だから、やり易いようにやってくれよ。…どうせ自分じゃできないし」
「…分かった。じゃ、取るぞ」
「ああ」
 ソファにぐったりとよりかかって、下村が目を閉じた。
 その顔を見、その指先を見る。
 そうだ、確かにそうなのだ。
 下村の左手では、右手の細かな治療など出来ない。すっかり失念していた自分に坂井は少し驚いた。
 余りにも下村がその手のことを気にしないから、坂井もいつの間にかそれほど気にしなくなっていたその事実に。
 そこで、フト、あることにも気がついた。
 余りにも下村が自然な様子でいるものだから、そんなことまで気が回らなかった。
 そうだ。爪だ。
 箱の中から、小さなはさみを取り出し慎重に刃先を爪にあてる。ぷらりとした爪の様子が気持ち悪い。
 爪。爪だ。こうして見ると、随分と伸びた下村の爪は、何時どこに引っ掛けてもおかしくないくらいに伸びてしまってい
る。幾ら下村がその左手に慣れて、どんなことでも器用にこなしたとしても、どうしても出来ないことが幾つか残ってしま
うのだ。
 そうだ。爪切りがその最たるものだ。
「なあ」
「ん?」
 閉じた目をふっと開いて、下村がこちらを見下ろしている。その目をじっと見ても、指先の痛みは読み取れなかった。
「爪、今までどうしてたんだ?」
「?どうって?」
「だから、爪切り」
「ああ」
 そこまで言われてやっと下村は合点がいったように、大きく頷いた。
「大体、桜内さんの所に行った時、山根が切ってくれてたな。やっぱりそういうところは目ざといって言うか、細やかって
言うか。俺が気がつく前に、向こうから声掛けてくれるから。慣れてるから、切るのも上手いし。…ってそれがどうかした
か?」
 どうしてそんなことを聞かれるのか分からない、といった風情で下村が首を傾げる。坂井はそれにむっとして口を尖ら
せ、顔を背けた。
「なんだよ。だったら俺に言えばいいじゃねえかよ。いつも近くに居るんだから」
 幾分か拗ねた様子で、坂井がぶつぶつと手元を見たまま呟いた。それにまた下村がきょとんとして、問いかけた。
「だ・か・ら、俺が気がつく前に向こうから言ってくるんだって。…何怒ってんだよ?」
 ゴンッと坂井の頭頂部に下村が額を打ち付けてくる。その衝撃にも顔を上げず、坂井は黙々と指先にテーピングをし
ている。
「おーい、坂井?なんだよ、お前は」
 分けが分からず不機嫌になられて、下村は困ったように坂井の頭にグリグリと額を擦らせる。坂井は暫くされるまま
にしていたものの、突然ぶるりと頭を振って、下村の顔を退かて顔を上げると、キッと恨みがましい視線を投げた。
「だから!俺に爪を切らせろって言ってんだっ」
 乱暴に箱の中に消毒液やはさみを突っ込みながら、坂井が言い募った。しかし流石に自分でもばつが悪いらしく、そ
の目は逸らされていた。
 その予想もしていなかった言葉に、下村は一瞬目を瞬かせ、しかし次の瞬間にはふわりと笑って言い訳のために顔
を上げた坂井を驚かせた。
「じゃあ、切ってくれよ。また剥がすと困るから」
 そう言って、たった今離したばかりの手を坂井に差し出して、もう一度にこりと笑った。
「お、おう」
 その顔に不穏に心臓が鳴るのを抑えながら、坂井は差し出された手を取り、引き寄せた。
膝立ちになった坂井と、ソファから背を離した下村の目の高さが丁度同じになる。額を寄せて、コツリと合わせると、下
村が小さく息を吐いた。
「…お前、分かり辛いぞ」
「お前が鈍いんだ」
 やれやれというように、下村が目を閉じる。その口元にそっと触れるだけのくちづけを落とす。
「…だから、したいことはしたいと言えよ。言わねえと俺は、永遠に気がつかないぞ」
「自分で言うな」
 口先だけで憤慨しながら、開き直った下村を抱きしめる。閉じたままの目に唇を寄せて、もう一度口の端にだけ唇を
落とした。
「じゃ、とりあえず爪切りでもさせてもらうかな」
 痛々しくテープが巻かれた指先に、そっと触れないくちづけを落とし、上目遣いに下村を見ると、珍しく潤んだような目
でこちらを見ていた。
「どうぞご自由に?」 
 そうしてにやりと笑う可愛くないことを言う唇を、今度は幾分深く塞いで、坂井は柔らかく目元を緩めた。

























書きたいところまで行かなかった・・・。