Mellow〔other〕 「よお」 小さく手を上げて、桜内がエントランスから顔を覗かせたのは、閉店時刻を僅かに過ぎた頃だった。 カウンターを残して既に店内は照明を落としてしまっている。 桜内はその暗がりを危なげもなく真っ直ぐに歩いて来た。 「珍しいですね、こんな時間に」 磨いていたグラスを棚に戻し、坂井は正面のスツールに腰を降ろした桜内に目をやった。 「まあ、たまにはな」 そう言って、小さく笑った。 憎まれ口ばかり叩いているように見えて、存外医者としての使命を重んじる桜内は、患者が一番多い夜半過ぎには 家にいることが多い。大概が酔っていることが多いが、だからといってそれで手元が狂うような男ではない。 「何に?」 「ジントニックを」 「畏まりました」 一礼で返し、乞われるままに鮮やかな手並みでグラスに酒を満たす。その手元を眺めながら、桜内は目を眇めた。 「俺はな、坂井」 呼びかけに、坂井が顔を上げる。合わせた視線が、一瞬見えない光で結ばれた。 「思っていたより、あいつのことが好きだったらしいよ」 思いもよらなかったその言葉にぎょっとして、坂井が息を飲んだ。 「どうして…」 呆然とした言葉はそこで途切れた。恐らくは何故自分に?と問いかけたいのだろう。桜内もそれが分かったのか、口 元だけで緩く笑った。 「なんとなく。誰も知らないうちに諦めちまうのは、俺らしくない気がしてな」 そう言って、眇める視線が止まってしまった坂井の手管を残念そうに暫し眺め、幾らか彷徨った視線はホールの暗い 陰りに投げられた。 「それがお前でも、いいんじゃないかと思って」 口元に笑みを貼り付けたまま、しかしその横顔は言葉ほどに軽い調子ではなかった。カウンターに置かれた手が、一 定のリズムを取って木目を叩いた。 「…俺も、あいつが好きです」 それ以外の、何を坂井が言えただろうか。ただ一方的に、桜内の心情を吐露されただけならば、こんな風には思わな い。しかし坂井の側に少なからず罪悪感があるからこそ、こんな風に誤魔化す様な言葉でもって返す他なかった。 「…知ってるよ」 そう言って、振り返った桜内の目に、坂井を試すような色合いは認められなかった。 ただ本当に言ってみただけだということが分かって、坂井はぎゅうと胸を締め付けられるような気持ちで心が痛んだ。 「ただ、好きになってた。俺にはそれで十分さ」 そうやって医者という生き物は、自分の心ひとつも許さず暴きたてては、何かを見つけ出そうとするのだろうか。一瞬 浮かんだその疑問を、しかし坂井は言葉にはせず、手元に留め置いたままだったグラスを桜内の前にそっと置いた。 「ありがとう」 何に対しての言葉であったのか。しかし坂井に結局分かるはずもなかった。黙ってしまった坂井に、今度は顔全体に 笑みを乗せて、桜内が笑った。秋空の様な儚いその目元に、幾らか疲れた色合いを認めて、坂井はつい心配に眉を 顰めた。 「仕事、忙しいんですか?」 話題を逸らす意図はなかったが、言葉は自然と吐いて出た。桜内は探るようにじっと坂井の目を見たが、やがて諦め 息をはいた。 「まあな。いつでも物騒なことは多いもんだ」 そう言って、もう一度ワザとらしいため息を大仰に吐きながら、桜内はグラスを傾けた。坂井の酒は、甘すぎなくてい い、と言った男のことが不意に桜内の頭を過ぎった。 「なんだか、懐かしいような気分だな…」 あの顔を見なくなって久しく経つ。何かを思うような目をした桜内に、坂井にもその意図が伝わった。 「そうですね。でも、何時だってついさっきの事の様に、俺には思えます」 ポケットに残った、小さな重みが坂井を励ます。 そうして笑った坂井に、桜内は眩しい様な目を向けた。 「そうだな…。お前たちはそうやって、いつまでも一緒にいられる」 羨ましいよ、と桜内は明るく笑った。手元のグラスが、カラリと涼しげな音を鳴らす。それを見つめて、今度は幾分声を 落とした。 「羨ましいよ」 だから俺は、永遠にお前には敵わない。 それは言わずに俯いて、危うく落涙しそうになった目を瞬いた。 end |