ぷち、ぷち、と単発の音を聞きながら、下村は自分の手元をじっと眺めた。 その先では間を置いてはぷち、ぷち、と音が続く。その不器用なのか器用なのか判断しかねるような音の連なりの源 を眺めては、下村は少し笑いたいような気分になった。 「・・・何笑ってんだよ」 後ろから吹き込まれるように、囁かれる。顔は見えずとも気配でそれを察したのか、坂井は憮然とした様子を隠そうと もしない。それに改めて笑いそうになり、でもこれ以上不機嫌にして手元を狂わされてはたまらないと、何とか堪えた。 「何だ?」 特に何も答えない下村に、坂井が再び問いかける。それにいや、と小さく答え、また下村は音の鳴るそれをじっと眺 めた。 それは、何のことはない、ただの爪切りだ。 しかし、こうして人に、それも坂井に切ってもらうというのは、やはり奇妙な感じで心もとない。別に相手を信用していな いわけではなく(そもそも、信用していなければ、爪切りなどさせようはずもない)ただ単に、本来自分で始末をつけるよ うなことを代行してもらうのが、どうにも居心地が悪いのだ。 以前山根にもこうして爪を何度か切ってもらったことはあった。しかし、こうして坂井にしてもらうということは、山根の 時とは勝手が違う。 それは、つまり、爪を切る時の二人の体勢だ。 山根が爪を切る時、大体下村の体の右側面に添って座り、下村の右手を抱えるようにして爪を切ってくれた。それは 中々に悪くなく、下世話に言えば、時折腕に当たる柔らかな感触が心地よかった。 始め坂井に爪切りを頼んだ時、坂井は下村の正面に座ってこの先いったいどのようにしていいものか皆目分からな い、というような表情をした。その時、下村はその山根のやり方を教えてやろうと思った。が、言おうとして、止めた。何 故だか知らないが、考えている坂井の様子がすごく真剣で、楽しそうだったからだ。だから多分、慣れない作業に好奇 心を刺激され、自分でその方法を解き明かしていくのが楽しいのだろうと思って、言わずにおいた。こちらはあくまで頼 んでいる立場なのだし、困れば聞いてくるだろうと思ったのだ。 坂井は暫しそのようにして、指で顎をもて遊ぶように擦りながら考え込んでいたが、とりあえず切ってみる事にしたらし い。爪きりを構えると、下村の手を取り、刃先を爪にあてた。 「お、おい。坂井」 「何だよ?」 じっと刃先の角度を目測していた坂井が、途中で止められたせいかむっとしたように顔を上げた。 「・・・その角度でやられると、多分、血が出る」 「え?そ、そうか?」 指摘され慌てて刃を引く。そうなると最早どうしていいのか分からない素振りで、明らかに坂井はオロオロと目を泳が せた。 やっぱり、教えた方がいいのかな? 爪切りひとつにそれほどこだわりなどないが、流石に流血は戴けない。それならばプロの方法を説明した方が時間も 無駄にならずに済むだろう。 「さか・・・」 「あ、そうかっ」 古典的にポンッと手を打つ坂井。目が爛々と輝いている。それを訝って胡乱な眼差しを向けると、坂井は少しばつの 悪そうな顔をした。 「大丈夫だって、ちゃんと切るから」 嬉しそうにかちかちと爪切りを鳴らす。だから、どうしてそんなに楽しそうなのかが分からない。爪切りひとつにそんな に楽しみを見出せるなんて、らしいのか、らしくないのか分からず、また笑いそうになって顔を引き締めた。 「だからそんな緊張しなくても、指切んねえから」 堪えるために強張った表情を、緊張と取ったらしい。上目遣いで拗ねたように坂井が言い募る。 いや、そうじゃなくて。 寸ででやめた。否定してもよかったのだが、誤解で慎重さを失わないならそれもいいかと思った。 兎に角、頼りの右の手まで使えなくなっては困るのだ。それこそ細心の注意を払ってもらって異論はない。 「つまり、こうすればいいわけだろ?」 そう言って坂井は立ち上がると、場所を移動し始めた。 よしよし、そこへ考えが思い至ったか。 腕を抱え込む方法をどうやら発見したらしい坂井に一安心だ。 しかし予想に反して坂井は下村の横をするりと通り過ぎ、背後に回ってしまった。 「おい、坂井?」 「だから、つまり自分で切るつもりでやればいいんじゃねえか」 そう言って、坂井はぺたりと床に座り込んでいた下村の後ろに同じように座り込み、後ろから抱き込むようにして自分 の足の間に下村を挟みこんだ。 「ほら、こうすればいいんだよな」 俺ってあったま、いいー。と坂井は酷くご満悦だ。 ・・・あったま、わりー・・・。 思った。思ったが、言わずにおく。あくまで下村は「してもらう」立場なのだ。 大体、どうして男の体を抱きこんで爪を切ろうなんて思いつくんだろうか? 下村の頭の中はそれこそ疑問符の嵐だったが、それはそれ顔には出さずにおく。 坂井は変わらずご機嫌な様子で後ろから手を伸ばすと下村の肩口に顎を乗せた。 「ほーら、手ぇ出せって」 握りこんでしまった手首を取って、坂井がその手を軽く上下に揺する。それにつられて手を開くと、坂井は確かめるよ うに何度か両手で触れてから、傍らに置いていた爪切りを取った。 ぷち、ぷち。 繰り返される音は、相変わらず下村を心もとない気分にさせる。どこかに何かを置き忘れたような気分だ。何故だか 気分が落ち着かず、そわそわと座りが悪い。どこか逃げたいような気分もするが、酷く楽しいような気持ちもある。実際 どこへ逃げる訳にもいかないのだが。 「なぁ」 「な、何だ?」 耳元で突然囁かれて、ぴくりと体が跳ねるのが分かった。背中に体をぴたりと貼り付けている坂井にもそれは分かっ たはずなのに、何も言わなかった。 「いつも、山根に切ってもらってたんだ?」 「ああ、そうだな。爪を切ろうなんて、普通は思いつかないだろう」 「まあ、・・・そうかな」 坂井は時々、こんな風に吐息混じりの声で話をする時がある。下村はそれが嫌いではなかった。 とても、穏やかな感じがするからだ。 片手の爪切りは、あっという間に済んでまった。 「なんか、切り足りない感じ」 憮然とした顔が、なんとなく見なくても分かった。 それは、下村にも少し理解出来た。本来の半分で終わってしまうのが、どこか奇妙な感じを与えるのだろう。坂井は それでも人の爪を切るのが珍しいのか、ヤスリで爪先を削り始めた。 「おい、そんことまでしなくても・・・」 「だめだって。先がぎざぎざだと、割れやすいんだぞ?」 今度こそ明らかに憮然とした声で、坂井が言い募った。少し怒ったような物言いがなんだか子供の様で、面白い。 「なんだよ、また笑ってるのか?」 笑いの振動を聞き咎められて、坂井が下村の顔を覗きこもうと躍起になっても、流石に角度的に無理だった。 「おい、下村?」 困り果てたような声が面白い。きっと、本当に拗ねたような顔をしているに違いなかった。 それを無言でいなして手元を眺める。そこでフト、以前もこんな風に言われたことを思い出した。 「そう言えば、一度だけ宇野さんに切ってもらったことがあったかな。その時も、そんな事言われた」 「う、宇野さん??」 「ああ」 坂井の指先がぴたりと止まった。ぎこちなく動く指先が楽しくて見ていたのに、それが阻害されて下村は少しつまらな いような気分だった。 「おい、坂井?」 それきり作業を止めてしまったのに、抗議の声を上げる。しかし坂井はまんじりとも動かない。 「坂井?」 今度は下村の方が坂井の表情を確かめようと身をよじった。が、それはぎゅうっと抱きしめてきた坂井の腕に阻まれ て叶わなかった。 「どうして、宇野さんに切ってもらうんだよ」 「どうしてって・・・」 坂井の声には感情がなかった。酷く平坦な声だ。それがなんだかいやで、どうにか顔を確かめようとするのに、坂井 は一向に腕を緩めようとはしない。 「おい、坂井苦しいって・・・」 「なんでだよ!!」 いきなり激昂した坂井にぎょっとする。耳元で怒鳴られて耳が痛んだ。 「なんで、俺には言わないのに宇野さんはお前の爪切りなんてしてるんだよ。違うだろ?俺が先じゃねえのかよ。大体、 どうして宇野さんには頼んで、俺には頼まねぇんだよ!それこそ毎日お前の傍に居るのは、俺じゃないのかよ?!」 「な、何で怒ってるんだ・・・?」 先程までの穏やかなものとは程遠い坂井の気配に驚く。触れた坂井の体温が異常に上がっている。怒りで上昇して いるのを知って、本当に怒りを発しているのが分かった。 しかし、どうして坂井が突然そんな風に怒り出したのかが分からない。坂井はこんな風によく分からないことで、怒り出 すことがたまにあった。しかし毎回下村にはその理由が分からず、結局はいつの間にか解決していることが多い。だが そこへ行き着くまでには多少なりとも時間が掛かる。それを面倒だと感じながら、それでも最終的には付き合ってしまう のだから、訳が分からないという点では下村も坂井と変わらないのだが。 「だから、どうして宇野さんがお前の爪切るんだよ!」 「え?だから、今日みたいに宇野さんの所行った時に爪割って・・・見かねた宇野さんが切ってくれた」 つまり、成り行きで。なのになんでそんな事に一々拘るのかが、よく分からなかった。しかしそれが気になるらしいので 答える。すると急に坂井が腕の力を抜いたので、慌てて体を捩って坂井の方を振り返る。その拍子に外れた坂井の顔 が、力なくだらりと垂れた。 「それで、爪磨きもしてくれたって?」 「あ?ああ、うん。それがどうかしたか?」 項垂れたままで、語調がハッキリしないが言葉は聞き取れた。坂井は一拍置いて盛大にため息を吐くと、ぐしゃぐしゃ と自分の頭をかき回した。 「お前、ぜんぜん分かってねえよ」 「・・・何が」 まるで馬鹿にするような響きにむっとした。随分と酷い言い方だった。 「だって、俺がどうしてこんな風になってるか分かんねぇだろ」 「・・・・・・」 確かに分からないので、答えようがなかった。普段の坂井は非常に分かりやすい男だ。店では無表情で通しているが (営業用の笑顔は、本当の笑いではないからノーカウントだ)、親しい仲の者との時や、二人で居る時の坂井はとても分 かりやすい。言ってしまえが可愛くさえある。なのに、こんな風な時の坂井はダメだ。全く理解できない。そもそもが怒り の矛先がこちらに向く原因も理由もよく分からないのだから、それで坂井がどんな状態になるかなんて全くの範疇外 だ。 坂井は項垂れたまま、それでもこちらの困惑や思案が分かったのだろう。 そこにそれ以上の答えが存在しないことも。 坂井はもう一度頭を大げさにかき回してから、顔を上げた。 「お前さ、俺がお前のこと、好きだって、知ってる?」 「・・・知ってるよ」 むっとした声を隠さずに答える。やはり馬鹿だと思われてるのかと思うと腹が立った。 それは、何度も折を見ては言われているので、十分分かっている。大体、だからこうしているのだろう。 それともなんだ、こいつはそういうつもりではなかったとでも言うつもりか。 「じゃあ、なんで俺が!山根や宇野さんに妬かないなんて思うんだよ!!」 「・・・ヤク?」 「やっぱり、分かってねぇ・・・」 正面切ってあきれ返った調子で言われても、今度は腹も立たなかった。どうやら坂井の言いたい大体のところが分か った。・・・様な気がした。 「なんだ、お前。嫉妬してたのか」 さらりと言うと、坂井が頭を抱え込んだ。 「あーなんで俺はこんな、アホの子みたいな奴が好きなんだー!!」 人の情緒もありゃしねぇ!と坂井が叫ぶ。大げさなリアクションに眉を寄せる。 「アホって言うな。傷つくだろうが」 「うるせぇ!!俺の方が何倍も傷ついてるんだぞ!!」 がばっと体を起こして、坂井が叫ぶ。その顔がまた余りにも情けない様子だったので、下村は思わず噴いてしまっ た。 「お、お前っ最悪だ!!」 傷ついた恋人を前に、なんて仕打ちだ!!と上体を折って、坂井の足の間でこちらを斜めに振り返っていた下村の足 の上に体を倒し込んだ。下村はそれを見て、何でこいつこんな体が柔らかいのかと思って聞きたい気持ちはあったが、 これ以上アホと言われるのも心外なので、黙っておいた。 「だから、ちゃんと口に出して言えよ。思ってる事とか。して欲しい事とか。今度いきなり怒り出したら、面倒だから部屋 から叩きだすぜ」 そのせりふに、坂井が体を起こした。あまりの勢いにぎょっとして上体をそらすと、坂井はがしりと肩を掴んできた。 「じゃあ、言ったら何でもしてくれるのか」 「・・・出来る範囲で」 「出来る範囲。曖昧だな」 ひらりと目を逸らして、そんな事を言う。なんだかいやな予感はしたが、面倒なのでじっとそのまま待った。 「下村」 「何だ」 目線を戻して、正面から向き合った坂井の顔は酷く真剣だ。下村は思わず息を飲んで顎を引いた。 「俺はすっごく傷ついた」 「そうか」 「そうだ。だから、これから言う事に全部『YES』と言え」 「・・・やだ」 「罪滅ぼしだろっ」 そんな理不尽な。憤然と言い募る坂井にそうは思ったが、確かに事の起こりは自分の鈍感さにあるのかも、と下村は 渋々頷いた。すると坂井は嬉々として目を輝かせると、下村の肩を掴んで元の体勢に戻させ、後ろから再び抱きしめて 右肩に顎を乗せた。 「これから、爪は俺に切らせる事」 「分かった」 「週に一度は髪の毛も洗わせる事」 「・・・分かった」 「俺が嫉妬しても面倒そうな顔しない事」 「ああ」 「せめてジャケットはハンガーに掛ける事」 「おう」 「シャツの前は、はだけない事」 「?分かった」 「電気はちゃんと消して寝る事」 「ああ」 「床で寝ない事」 「んん」 「映画は吹き替えにする事」 「分かった」 「これから一緒に暮らす事」 「ああ・・・あ?」 驚いて振り返ろうとして、頬にくちづけで返り討ちにあってしまう。 言ってる傍から面倒になって適当に相槌を打ったのが完全に仇になった。 「お、おいっ。今のなしだぞ!!」 とんだ騙し討ちに慌てて振り返ろうとするのに、明らかに笑いの気配で坂井はそれを許さなかった。 「ダーメだ!!」 大体お前、途中で面倒になっただろ、と言われ、全くその通りだったのでぐっと詰まってしまった。 「汚ねぇぞ!」 「アホなお前が悪いっ」 「アホって言うな!」 回らない首を精一杯後ろに向けて怒鳴っても、結局は相手の見えない位置では完全に劣勢だ。どうにか結果を覆そ うと思っても、どうやら今度ばかりは坂井も引くつもりがないらしく、ぎゅうっと力を入れて腕を巻きつけてきた。 「・・・いい加減、一緒に暮らしてもいいだろ?」 急な真剣な様子で坂井が言った。それに思わず動きを止めて次を伺うと、坂井は慎重に息を吐くのが分かった。 「俺はもう、一時もお前から離れていたくないんだよ」 呟いて、坂井が首筋に顔を埋めてくる。暖かい息が掛かって、また下村を落ち着かない気分にさせた。 「一緒に暮らそう」 ちゅっと業と音をたてて下村に聞かせるようにそのまま項にくちづけてくる。それを黙って受けながら、下村は息を震 わせた。 「何でそんなに、拘るんだよ。自慢じゃねぇが、俺は一人で居る時間より、お前と居る時間の方が多いんだぞ?」 揚がりそうになる息を抑えながら見えない坂井に向かって言った。 正直、どうして坂井がそんなに傍に居る事に拘るのかがよく分からなかった。 たとえ傍に居なくても、この街の中であれば易々と居所を確かめることは出来るだろう。 「ボケた事ぬかすなよ。俺はお前の時間を全部奪っちまいたいと、何時だって思ってるんだぜ?」 首に当たる坂井の頬が熱い。どうやら自分のせりふに照れているらしい。それは分かるのだが、どうしてそんな風に 坂井が思うのかが、下村には理解できなかった。 「何で?」 「お前が、好きだから」 そう言って摺り寄せられる体温を、心地良いと思う。 それと同じなのだろうか。坂井が言いたいことは。これをいつでも感じていたいと、坂井も思っているのだろうか? だとしたら、それも悪くないとは思う。 「・・・考えておく」 溜息混じりに答えたのは、どうにか平静を保つためだ。人と一緒に住むというのは、言うほど楽な作業ではない。 元は他人同士の集まりなのだ。どうしたって、離れていた時には見えなかった欠点や汚点が嫌でも見えてくる。下村と しては離れている不安より、そちらの方が重要だった。 特に今回は相手が相手だ。不安材料は、出来るだけ消してしまいたいと思う。傍に居るのは心地良いが、その大元 が消えるような事になっては、元も子もないのだから。 「なんだよ!『ああ』って言ったじゃんかっ」 「うるさいっあれはノーカウントだっ」 「ずりー!!」 抱き込んだ体を離しもせず、耳元でブーブーと抗議を続ける坂井の声を無視して耳を塞ぐと、ぺろりと指を舐められ た。 「・・・おい」 「答え、待つからその分利子くれよ」 「・・・体払いとか言ったら殴るぞ」 「左手は勘弁してくれ」 至極真剣な様子で言われて、下村は大きく息を吐く。どやら引く気は全くないらしい。 それでも、先程から感じる体温の心地よさをもう少し間近で感じたいと思うのは、下村も一緒だった。 「手加減しろよ」 「仰せのままに?」 そう言って、坂井は下村の耳元に、大仰過ぎるくちづけを贈った。 終 爪切りの仕方は、あくまでタケが介護士の仕事をしてた時のやり方なので、 実際の看護婦さんがどうやるのかは知りません。ので、参考にしないでね。 あくまで自己流なので。 常に自己流。 兎に角、爪切りとキドニーに切ってもらった話を入れたくて書きました。 キドニーに爪切りしてもらう敬ちゃん!カーワイー!!! キドニーも一生懸命下村の爪切ったりしてね!!すっごく真剣に!キドニーも可愛い! それを見た叶が妬いたりね! 超☆微笑ましいね! |