閉店の時間はとうに過ぎ、掃き清められて片付けられた玄関口やその辺りを見回しても、もう既にやることなどある訳 もなく、しかしそれでもこの店の門番が帰宅した様子がないのを不審に思い、下村は足早に店舗巡回に少しの疲れを 見せ始めていた足を急がせた。 本来、この時刻に人が残っていることは有り得ない。 それは最後まで残っているだろう坂井にも言えたことで、常時であれば施錠した後、帰途についている時間のはずだ った。 下村が店舗巡回を終え、店に戻るのはブラディ・ドールの閉店時間を大きく上回る時間になることが多い。早い時間 に出れば問題なく開店時間内に戻ることは可能であったけれど、それでは繁華街が佳境に入る前の時間になってしま い、結局は巡回の意味がなくなってしまう。 そんなわけで、結局下村は遅い時間に店を出ては、ぐるりと全ての傘下店舗を見て回り、すっかり灯の落ちた古巣に 戻って一服ついては家路についた。 今夜ものそのつもりで、下村はブラディ・ドールの前に降り立ったのだけれど、どう見ても門番である高岸の物と思しき 通勤用の自転車が電柱に繋げられたままで、これはもしかして何かあったかと下村は訝った。 ――――― 一方、店内では。 「だから、今日は下村は戻りませんよ。遅い時間に出ましたから」 「いや、戻ってくるね」 「・・・先生の、その自信はどこから来るんですか?」 「・・・そういうお前も、もう帰れ」 「いえ、桜内先生を送っていかないと」 坂井は一つ一つゆっくりとカウンターの中を片付けながら、一向に席を立とうとしない桜内と、その横に陣取った高岸 の顔を交互に見ては溜息を漏らした。 閉店の時間はとうに過ぎ、本来であれば帰宅の途についている時間である。 それなのに、何時までたっても下村の帰りを待つといって聞かない不良医師と、それに乗じて下村の顔を見れるもの なら見てから帰ろうとする、不届き千万な発情期のガキのお守りを、どうして自分がしなくてはならないのかと、坂井は 嘆きたい気持ちでいっぱいだった。 それでも、公でない下村への感情をそんな幼稚な嫉妬で露見させる訳にもいかず、ただ黙ってそういった責め苦に耐 える他ないのだった。 「なんなら、お前は先に帰っていいんだぞ?」 出来るはずのないことを平然と言ってのける酔っ払いに、坂井はうんざりと溜息を吐く。それが気に入らないのか、ブ ーブーと不平を言っては次の一杯をせびるのだった。 「どうして今日に限って、そんなに拘るんですか。・・・用があるなら、明日でもいいでしょう」 既にすっかり片付いたカウンターの中ではやることもなく、坂井は手持ち無沙汰にシンクに寄りかかりながら、タバコ に火をつけた。 「なんだ、お前がそこで吸うの、初めて見たな」 「あ、俺も初めてです」 カウンターの中では吸わないと決めていたが、どうにも落ち着かない気分を持て余しての行動だったのだが、それを すかさず言い当てられた。 危うく跳ねそうになった肩を無理に力を入れては押さえつけ、平静を装って二人を交互に見やった。 「・・・勤務時間中は、吸わないだけですよ」 真っ向からじっと見透かす桜内の目をよける様に視界を伏せたことも、酔っ払った状態では気づかなかったらしく、ま して高岸にそんな心の機微など分かるわけもなかったことを坂井は幸運に思った。 「いや、これから飲みに行かないかと思って、待ってるんだが」 急に話を戻されて、坂井は一瞬意味を捕らえ損ねてきょとんとしてから、どうやら下村を待っているわけを言っている らしいことに合点がいった。 「だから、戻ってきませんよ。それにそれだったら、事前に言っておけばいいじゃないですか」 そうすれば、こんな風に巻き込まれることもなかったし。 こんな気まずい気分にもならなかったのに。 「突然誘うから、いいんだろうが」 情緒の問題だろ、とよく分からないことで胸を張る横で、高岸が眉を上げた。 「下村さんが行くなら、俺も行きます」 真面目腐った顔で言い出すのに、坂井は思わずコケそうになって慌てて縁に手を付いた。 「何言ってんだ、子供は寝る時間だ!俺は下村と大人の付き合いをするんだから、邪魔するな」 「お、大人の付き合い?!何言ってんですか!」 しかし驚愕の表情で突っ込む坂井などものともせず、二人は勝手に険悪なムードへと突入していた。 「先生こそ何言ってるんです。下村さんだって若い方がいいにきまってるじゃないですか。第一大人の付き合いって、い ったい何するつもりなんですか」 普段は忠犬の様に大人しい高岸が、剣呑な目つきで今にも崩れ落ちそうな具合にスツールに引っ掛っている桜内に 吹っ掛けているのに、坂井は目を白黒させながら見ている。ふと、高岸の手元に置かれたグラスに気が付いた 「あ!!馬鹿、お前!勝手に酒飲みやがったな!」 どうやら坂井が目を離した隙に、桜内が与えたらしいその酒は、味や口当たりの割りに酒度が高く、とても高岸に乗り こなせるような代物ではなかった。 しかし、やはり二人はそんな坂井のことなどお構いなしといった態で、にらみ合いを続けていた。 「帰りの心配は結構だから、お前は帰ったらどうだ?」 「ご心配には及びません。先生をお送りするのが仕事ですから。それより質問に答えて下さいよ」 すっかり座った目の高岸に、桜内は忌々しそうに舌打ちで応戦している。 一体どういう展開だと、頭を悩ませながら坂井はどうにも引き返せない泥沼に足を突っ込んでしまったのではなかろう かと、眩暈を覚える勢いだった。 その時。 「・・・何やってんだ、こんな時間まで」 不意に掛けられた声に、三人が振り返った。 「・・・下村」 エントランスには、暗がりでも分かるほどに呆れた顔をした下村が立っていた。 坂井に、目で何事かと聞いて来る。しかし坂井は気まずいようなほっとしたような気持ちでそれには上手く答えられな かった。 それに下村は眉を顰めたが、それもほんの一瞬だった。 「おお!下村。お前を待ってたんだ」 「お疲れ様です」 大げさな仕種で両手を広げては、覚束ない足取りで桜内が突っ立ったままの下村に歩み寄った。 高岸は座ったまま下村に頭を下げている。どうやら自分も近寄りたかったのだが、強い酒に慣れない膝が立たないら しい。 坂井は成り行きが予測できずに黙ってそれを見ていた。 「こんな時間まで、何してるんですか。とっくに店は閉店してますよ」 「だから、お前のことを待ってたんだぜ?つれない事言うなよ」 「何言ってんですか。全く」 大げさな素振りの桜内に、下村は大仰に溜息をついた。 「いいから、飲みに行こうぜ?」 「今からですか?」 「おっ俺も行きます!」 「はぁ?」 朦朧としているくせに便乗しようとしている高岸に、明らかな呆れ声で下村が顔を上げた。 坂井と目が合う。 ・・・どう見ても、下村は怒っているように見えた。 それに坂井はぞっと背を凍らせて、どうやら下村の怒りに気づいてもいない二人を諌め様とするものの、それよりも下 村の冷たい声が先だった。 「桜内さん」 「何だ」 カウンターだけに残された光が反射して、きらりと闇の中で下村の目が閃いた。 「今日は午前中から診療だって言ってなかったですか?」 「うっ」 どうやら忘れていたらしい桜内が、声を詰まらせる。それを確かめた下村が、今度はカウンターに座った高岸に目を やった。 「高岸」 「は、はい」 流石に、正面から下村の目を見たことで、その中の感情にも気づいたらしい高岸が、酔いの吹き飛んだ様子で背筋 を伸ばした。 「お前、練習付き合ってくれて言ってなかったか」 「あ・・・はい・・・」 「二日酔いで俺の相手するつもりなのか?」 「いえ・・・すみませんっ」 がばっとその場で蹲った高岸に、少し下村が辟易とした表情をした。 「さっさと帰れ」 「は、はい!」 失礼します!と叫ぶと、高岸はすごい勢いでホールを駆け抜けていった。その合い間に、きちんと坂井にも挨拶を寄 越すのも忘れてはいない辺り、本当に酔いは醒めたらしい。 それを見送り、下村は桜内を抱えて外へ出て行った。どうやらタクシーを捉まえにいったらしい。 その間、坂井は黙ってグラスを片付けていた。 戻った下村はすたすたとホールを横切ると、カウンターに腰掛けていた坂井の隣に腰掛けた。 いつもと変わらない顔ぶれだけが残ったが、けれどもこんな風に二人でカウンターに並んで座ることは珍しい。 坂井はカウンターの中、下村はカウンターの外。 いつの間にか決まっていた二人のスタンスだ。 しかしあえてカウンターを出ていた坂井に、下村は黙って用意されていたグラスを一口だけ口に含んだ。 「お前のこと、待つって聞かなくて・・・」 「それで?」 「だから・・・しょうがないから俺も残って・・・」 「ふーん」 下村が怒っているのは分かっていたが、それほどの理由が果たしてあったろうか? 坂井にはそれが分からず困惑した。 坂井には一瞬とはいえ、嫌な想像に胸を傷めた下村の心情は分からない。 当然といえば当然だが、下村はが怒るのも当然といえば当然だった。 「だって、お前、俺が止めなきゃ・・・」 「?」 頼りない言い訳に、下村が疑問に首を傾げた。 早くも怒りを忘れたような仕種をする下村に、苦笑が漏れそうになるのを堪えながら、坂井は続けた。 「嫌だったんだよ。お前が、ドクや・・・高岸とどっか行っちまうのが、さ」 手の中のグラスをもて遊んでは雫で濡らすのに、下村はあっけに取られて目を瞬かせた。 「は?」 相変わらず何にも分かっていない下村の様子に、坂井は大きく溜息を漏らした。 下村はすっかり機嫌の悪さなど忘れた素振りで、目をぱちぱちとさせている。 「帰るぞ」 「あ?ああ・・・?」 腕を引かれて立ち上がりながら素直に付いて来る下村は、やはり坂井の言動を理解できない様子で、そんなフトした 時に見せる幼い様子が余計に自分を焦らせるなどと、思いもよらないのだろうと坂井はなんだか誰かに泣きつきたい 様な気分だった。 それでも、いつまでも知らない振りなどさせる気も、する気もない。 こんな遠まわしの方法など、本来自分のするところのものではない。 掴んだ腕もそのままに、坂井は誓いも新たに下村を車の助手席に押し込んだ。 終 |