君がいるということを



















「下村?おい、居ないのか?入るぞー?」
 乱雑に靴を脱ぎ捨てながら、それでも勝手に入り込むには気が引けて、坂井は返事のない声に承諾を得るように業
と大声で声を掛けながら足を進めた。
 だがやはり返答はなく、シンとした空気だけがただ横たわっている。
 それに少しだけ居心地の悪さを感じながら、しかし居るはずの下村が返事を返さないことを訝って奥へ進んだ。
 短い廊下を抜け、キッチンへの入り口を過ぎて仕切りもないリビングへ足を踏み入れる。一人で住むには広すぎる部
屋には荷物は少なく、リビングといっても最近になって漸く購入したテレビと低いテーブル、ソファが置いてあるだけのそ
こは、見るたびに坂井の足を竦ませた。
 この部屋に、一人で下村が帰るということ。
 自分とて変わらず一人である事に違いはなかったが、それでもこんな風に味気ない部屋に下村が一人で帰りつくの
かと思うだけで、坂井の胸はいつも痛んだ。
「居ないのか・・・」
 ぼんやりと入り口に立って、部屋を見回す。
 何度見ても殺風景さに変わりはなく、さりとて下村本人がそれを特に気にした様子もない以上、坂井が何事かを言え
るわけもなかった。
「・・・下村?」
 誰も居ないと思っていた矢先、ソファの向こう側、窓際の辺りにタオルケットの端が見えて、坂井は覗き込むように体
を移動して問いかけた。しかし返事のないことに変わりはなく、その代わりに穏やかな呼吸音が密かに耳に届いた。
「こいつは、また・・・」
 完全にそれが見える位置まで移動して、坂井はやれやれと溜息を漏らした。
 下村は居た。しかし、返事はない。つまりそれは。
「寝るときは、ベットに行けって言ってるのに・・・」
 吐息のように囁き、膝を付いて覗き込む。
 タオルケットを体に巻きつけて、窓殻の光を避けるよう体を丸めながら、下村は穏やかに眠っていた。
「・・・」
 もう一度、坂井は溜息を漏らす。それは呆れのそれではなく、安堵のために自然に漏れたものだった。
 坂井が下村から合鍵を貰い、こうして訪ねる様になってから下村は時折こうして無防備に眠る姿を坂井に見せた。
 それがまるで下村の中に立ち入る権利を得たような心地で、人知れず浮かれていたのは少し前の話だ。
 今では、それゆえに感じる空しさや切なさもあるのだということまでも知ってしまった。でも、こんな風に穏やかに眠る
下村を見るのは好きだ。何時のきつ過ぎる目が閉じられれば、途端にその顔は穏やかな風貌に取って代わる。それを
知っているのは自分だけだと思えば、口元が自然と緩むのも仕方がない。
 しかし勿体無いと思いつつ、風邪を引いてはいけないと坂井は余計な事とは承知で何度も忠告を繰り返したが、それ
でも下村はそれを止めようとしない。
 一度だけ、どうしてそんなにここで眠るのかと聞いたいとき、下村は珍しく少し恥ずかしそうな顔で、日当たりが良く
て、気持ちがいいのだ、と言った。それがあんまり可愛い様子だったので、坂井はそれ以来強くは言えなくなってしまっ
ていた。
「風邪、引くぞ」
 目元を隠すまでに伸びた髪を柔らかく後ろに梳きながら、それでも和らぐ目元は隠せずに坂井は小さく呼びかけた。
 こんな呼びかけひとつでは、目覚めるはずもない。それでも何度も髪を梳きながら、実らない会話を坂井は幾つか続
けてはこの穏やかさに胸を暖めた。
「下村・・・」
 だがタオルケットひとつで床に直に寝ていては、本当に風邪を引いてしまうと坂井は下村の体の下に手を回し、座り
込んで抱き上げた。
「よっと」
 ソファのサイドに寄りかかりながら、そのまま自分の膝の内側に寄りかからせるようにして下村を引き寄せる。それで
も変わらず眠り込んだままの無防備さに少し驚いて、それがまた坂井を微笑ませて、困った。
「赤ん坊みてぇだな」
 クスクスと笑いを漏らしながら、タオルケットの跡が付いてしまった頬にくちづける。触れたそれはやはり冷えていて、
坂井は暖めるように何度もくちづけては手で撫ぜた。
「下村、起きろよ」
 生乾きで寝てしまったらしい髪が、少し跳ねてひよひよと踊っている。それを手で馴らしながら様子を伺うと、下村の呼
吸が少し乱れた。それが少し可哀想に見えて起こすに忍びなかったが、それでもそこまで甘やかしてはと手の甲で軽く
頬を擦った。
 その刺激には流石の下村も、小さく身じろいで起床の気配を見せ始めた。
「ほーら、起きろ」
「ん・・・」
 小さく声が漏れ、続いてぴくりと肩が跳ねた。もそもそとタオルケットから這い出した手が戸惑っては布を掴む。
「寝るなら、布団入れよ」
 寝起きの下村が驚かないように、できるだけ穏やかに言いうと、下村はぎゅうと顔を顰めては目を強く瞑り、持ち上げ
た手でごしごしと目元を強く擦った。その仕種ひとつにもふわふわと髪が揺れては戯れるので、坂井はおかしいような
愛しいような気持ちで口元を綻ばせた。
「坂井?来てたのか・・・」
 まだ眠りから抜け切れない幼い口調が、坂井を余計に微笑ませるなど知らない下村は、またぎゅうと目を瞑っては視
界を光に慣れさせようとするので、坂井をそれを遮るように目元を手で覆った。
「寝るなら、このまま部屋に行っちまえよ。目が覚めちまうぞ」
 人の体は、太陽の光を目から取り入れることで目を覚ます。これ以上慣れさせては酷かと思って坂井はそのままタオ
ルケットを頭に被せた。しかしそのまま部屋へ行くかと思われた下村は、それを嫌がる様に首を竦めてやり過ごし、未
練もなくタオルケットを外してしまった。
「下村?」
 何度も目を擦ってはぱちぱちと瞬きを繰り返すのに、坂井が首を傾げた。その素振りが、まるでムキになっているよう
に見えたのだ。
 実際下村はその度に顔つきをいつものものに変えて、明らかに眠りから脱し始めた目でまだ体を支えたままの坂井
を見上げた。
「お前が来てるのに、眠るの勿体ない」
 さらりと、言い切った。
 あっけに取られて二の句の継げない坂井などお構いなしに、下村はいつか見せたような照れ笑いをちらりとだけ見せ
て、止めとばかりに坂井のくちびるにそっと触れた。
「お前も、俺に会いにきてくれたんだろ?」
 そう言って嬉しそうに笑うから、坂井はやはり何も言えずにじっと下村の顔を凝視してしまった。
「坂井?」
 分かっているのかいないのか。そうして不思議そうに覗き込んでくる下村に、坂井は、本当にもうこいつにかかっては
敵わない、と思うのだった。
 こちらが戸惑うようなことを、平素な素振りで振舞っては、完全に坂井を撃ち抜くのだ。
「坂井?どうした?」 
 急にしがみついた坂井に驚いて、それでもそれはそのままにそっと坂井の頭を撫でた。
 その手が信じられないほどに穏やかで、その度に坂井は許されている自分を知って胸を甘く痛ませた。
「・・・変な奴」
 耳元でクスクスと笑いながら、慰めるように背をなぞる下村の左腕に、下村の失ったものの大きさは計り知れなくと
も、少なくともそれによって自分が得たものは限りがないのだと思った。


































下村可愛がり隊隊長坂井のお話し。