来たりて曰く















「・・・?」
 フト、声が聞こえて目が覚めた。
 目の前は薄暗い闇の中で、夜が明けていないことは容易に見て取れる。ではそんな時刻にどうして目が覚めたのだ
ろうかとそのままの姿勢で暫し考える。しかし疑問は腹にあったがそれよりも段々と眠気が先に立ってきた。目が覚め
たといっても眠気が醒めたわけではない。
起きたのも気まぐれに神経が高ぶっただけだろうと結論付けて、もう一度目を閉じようとした。
 その時。
 隣の部屋から、ひゃぁ、とかぎゃぁ、というような短い悲鳴が聞こえた。
 今この限られた居室内に存在するのは不法な侵入者でなければ坂井でしかあり得ない。大前提にも自分は口を開い
てもいない。
 やれやれ、面倒だが。
 下村はゆっくりと両腕をシーツについて体を起こす。あちこちが痛んで眉を顰めても、それほど後に引かないのは坂
井の功績かもしれな
いとぼんやりと思いながら手近のシャツを掴んで引き寄せた。









「坂井?居るのか?」
 先程聞こえた短い悲鳴の後、何も声は聞こえていない。だからと言って神経に引っ掛るような危険信号は見受けられ
ないことを不思議に思い、寝室のドアを開いた。こちらも負けない暗さでぼんやりと月明かりに浮かんだリビングが夜の
帳にシンと静まっている。
 大体、大の男があんな悲鳴染みた声を上げること自体がおかしいのだが、如何せん頭の大半を眠りに支配されてい
る下村はそれに気づかずにリビングに足を踏み入れた。
「来るなっ下村っ」
「・・・坂井?」
 途端に鋭い声が上がった。暗闇に目を眇めると、リビングとカウンターを隔てた向こう側のキッチンから、坂井が顔を
覗かせているのが見えた。その顔が、珍しく緊張に強張っている。
「どうし・・・」
「いいから!こっちへ来るなっ」
 重ねて鋭く言い放つ坂井の声にいっぺんに目が醒める。ただ事ではない様子に下村の顔にも緊張が走った。有事で
あることは分かったが、何が起きているのかまでは分からない。下村は素早く半分ほど開いたドアの影に身を潜めると
姿勢を落とした。
「坂井」
 説明を求める下村の声にも、坂井は答えない。繰り返される潜められた呼吸だけが下村の耳に届いた。
 状況が掴めず下村は短く舌打ちし、こんな状態であるにも関わらず目覚めなかった自分の失態を呪いながら返事を
返さない坂井のことを思った。
 呼吸音は乱れてはいない。声も正常な発音だった。怪我の徴候は見られない。それに幾分かほっとして、下村は目を
瞬いた。
「っ下村!」
 突然名を呼ばれ、はっとしてリビングに視線を走らせる。ドアに阻まれた視界は極端に狭かったが、それでもリビング
の大半とカウンターの向こう半分は目に入る。坂井の姿は確認できない。カウンターの手前に寄っているようだった。
「下!足元っ」 
 坂井の声が急に近くなった。姿は見えないが盾になったドアの向こう側に迫る勢いだった。
 坂井の声につられて足元に視線を落とした先に、ひらりと黒い影が飛来した。
 瞬間。
「わあぁっ?」
 下村は坂井に劣らない悲鳴を上げていた。













「いや、だから実家にはあんまりいなかったし、東京でもマンションだったから滅多に見たことなかったんですよ」
 目の前で腹筋を引きつらせてショック死しそうになっている優秀な外科医をちらりと盗み見しながら、下村は拗ねたよ
うに口を尖らせた。
「ってゆーか、あれは慣れの問題じゃねえだろ」
「そうだよな。アレに慣れるなんて冗談じゃねぇよ」
 ぶつぶつと下村が言い訳をする横では、坂井がばつの悪そうな顔でその腕をつつく。それにますます笑いを誘われた
のか、外科医―桜内は目元の涙を拭いながらひゅうひゅうと笑いに喉を鳴らせて上体を折った。
「それで、慌てて、俺のところに、に、逃げて来たって訳か」
 どうにかそれだけ言うとまた笑い出したので、仕舞いには本当に死にそうになり、坂井は笑われているにも関わらず
少し心配そうにその顔を覗き込んだ。
「それ以上笑うと死ぬんじゃないか?」 
 それを横目で眺めて、暢気に下村がそんなことを言っている。いい加減拗ねるのも飽きたらしい。目は既に眠りに半
分閉じかけている。
「おい、寝るなよ」
「どうせ家には帰れないだろ」
「・・・そうだな。明日バルサン買いに行こうぜ」
「おお」
 真剣な顔で同意を求める坂井に、下村が神妙な顔で頷いた。
 その様がまた可笑しかったらしく、桜内はどうにか収めていた笑いの発作に再び攫われて床に倒れこんだ。
「あっはっ」
「・・・ドクは今夜死ぬかもしれない」
「これが本当の笑死だな」
「笑えないところがオチか」
「・・・人の不幸にオチを求めるなよ」
 呆れた様に下村が呟いた。
 坂井はたまに変なオチを付けたがる。
 その横で今度は床を転げまわる勢いで爆笑する桜内に、流石にばつが悪い二人は眉を顰め、揃って口を尖らせた。

「だって、嫌いなんですよ。ゴキブリ」

 翌日、桜内の腹筋が筋肉痛で悲鳴を上げたのは言うまでもない。
 














 終









嫌い・・・ゴキブリ嫌い・・・
ハワイには草履サイズのヤツが居るらしいので、一生行かない・・・。