無明の夜
















 訪れた先の部屋に誰も居ないというのは、分かっていながらも遣る瀬無い。思わず漏れた溜息もそこそこに、くるりと
踵を返し乱暴に脱ぎ捨てたままだった靴を引っ掛ける。気ばかり焦って上手く動かない指先でそれでも出来るだけ丁寧
に合鍵で施錠しながら、どうしていつもこうなのだろうかと気が滅入った。それでも結局はその姿を確認せずには居れ
ない自分が健気ながらも滑稽で、この無様さはどうだと、誰でもなく詰め寄りたいような気分だった。
 下村が部屋を空けることは珍しいことではない。
 一人でふらふらと海辺を歩いていることもあるし、一晩中ぐるぐると車で街を流していることもある。時には坂井の家
で夜を明かすこともあったが、大概下村が夜を徹して飲み明かす相手は決まっていた。
 今夜もどうせそこで潰れているのだろう。
 自分と居るときは精々酔ったところで少し陽気になる程度で、余り酒を飲まない自分と大差ない変化でしかありえな
い。
 それなのに相手が変わるだけで時にはそのままそこで潰れてしまうほどに酔ってしまうのが信じられない。
 それも相手は決まった相手一人だけ。
 その相手が自分でない事実は、そっと坂井を傷つけた。









 頭のどこかでは少しばかり乱暴すぎると分かっていながらも、ドアを叩く手は苛烈を極めた。
 もう夜中と言っていい時刻、来訪自体憚れる時刻であるのは重々承知の上。それに何を上乗せしたところで最早良
心の呵責を感じることもなかった。
 それよりも今この中で行われているやも知れない、半ばあり得ない妄想を早く打ち消したくて、坂井は逸る気持ちで何
度も乱暴に拳を打ち振るった。
「よお、坂井。何事だ」
 内側から開かれた扉の中では、眉間に皺を寄せた桜内が訝しげな色を隠さずにこちらを見ていた。
 どうにも切羽詰ったような顔をしていたようである。しかし今更それを隠す余裕もなく、じっと伺うようにこちらを見る桜
内の目を正面から見返した。相変わらず何も読めない真っ暗な穴から読み取ることを諦めて、何か痕跡はないかと足
の先から頭の天辺まで眺め回した。
「おい、なんだ?」
 明らかな不穏な空気に、桜内は面食らったように目を何度か瞬かせる。
 何の含みもない桜内の声に、頭から汚く疑った余裕ない自分が少し嫌になり、小さく息を漏らした。
「中、入れてもらってもいいですか?」
 常ならば断りなくずかずかと入り込んでしまうのに、どうにも罪悪感が勝ってつい了承を求めてしまったが、それが返
って仇になったことは、ますます眉を顰めた桜内の表情で分かった。
 どうにも今夜は余裕がなさ過ぎる。
 坂井は自分を誤魔化すように眉を顰めた。
「誰か来てるんですか」
 実際下村が来ていない可能性だって十分ありえたのだ。それなのに何の前触れもなく夜の夜中にドアを叩いた非礼
を咎めずに居る桜内に、どんな顔をしていいのか段々と分からなくなってきた。
 しかし桜内は不穏な空気を纏ったままの坂井に、黙って道を開けてくれた。
 それにほっとして、今の自分の状態を誤魔化すように足早に隣を通り過ぎ、室内へと押し入った。
「よお、坂井」
 暢気な調子で下村は手を上げた。片手にはグラス。解けかけた氷がカラリと軽い音を立てた。
「・・・よお」
 分かっている。ここで言い募る権利は自分にはない。どこへ行こうと、何をしていようとそれは下村の自由だ。
 それでもがっくりと脱力するのは否めない。
 安堵と苛立ちが同時に腹の辺りを熱くした。
「今日の急患は、坂井ですか?」
 そんな坂井の様子など知る由もなく、相変わらず流暢な様子で下村は坂井の背後を見ようと伸び上がった。
 灯りの乏しい室内は薄暗く、互いの細かな仕種や表情を確認するのは難しい。それでも顕著な酔いの気配に坂井は
自然と顰められる眉根を隠せなかった。見下ろした下村の顔に、フト笑みが浮かぶ。それがまたざわざわと坂井に不
快な感情の波を呼び起こして顔は益々顰められるばかりだ。
 桜内から何がしかの反応が返ったのだろう。笑みが満足そうに深められる。それにまた胃の辺りを焼かれて、坂井は
危うく激しそうになるのを大きく息を吸い込むことで押さえ込んだ。
 不意につっと裾を引かれて、慌てて閉じていた目を開く。何時の間に視線を戻した下村が、ぼやんとした様子でこちら
を見上げていた。
「ほら、座れよ。それとも、もう用はすんだのか?」
 そんな風に無心に言われて、抗えるはずもない。坂井はもう一度心中を整えるように大きく息を吸い込んでから、無
言のまま腰を落とした。大人しく座った事に対してなのか何なのか、下村は至極満足そうにちらりと口の辺りに笑みを
乗せる。それに少しだけほっとしたような心持になった。しかし。
「桜内さん」
 顎が落ちるか、危うく失神するところだった。
 今まで幾度も、下村が桜内の名を呼ぶ声を聞いている。しかし、こんな声、こんな声は聞いたことがない。
 少し掠れて艶をおびた甘い声。
 事実それが下村から発せられたものであるという事に頭と心が上手く折り合いが付かず、坂井は見やった下村の横
顔が知らない誰かではないかと何度も確かめる羽目になった。
「どうしたんですか?」
 しかし何度確かめたところでそれは下村であることに間違いはなく、続けられる言葉にさえ柔らかな艶を感じて坂井は
咄嗟に動こうとした下村の腕を掴んでいた。
 冗談じゃない。どうして下村がこんな声で、こんな顔で自分以外の者の名を呼ぶのだ。
 ジリジリと熱さばかりと思っていた腹部が、途端焼き尽す業火の痛みに変わった。
「?なんだ?」
 しかし当の下村は不思議そうにこちらを振り返るばかりで、その目には何の含みも有り得ない。
 それがまるで一方的に心を荒立てる坂井を戒めるような風合いで、言いたい言葉が出やしない。仕方なく出すぎたま
ねにはならない程度の言葉を選んだ。
「・・・お前、飲みすぎじゃねえの?」
 感情を抑えた声は普段より幾分低かったろう。しかし今の下村がそこまで判断できるわけもない。無用の苛立ちのや
り場に困って誤魔化すように転がっていた酒瓶を手に取ってはラベルを眺めた。
「そんなには、飲んでねえよ」
 それを責めの一つと感じたのか、拗ねたように下村が口を尖らせた。
 そんな仕種一つ取っても平素とは打って変わった素直さに、坂井は腸が煮えくり返るどころの話では最早なかった
が、なけなしの理性でどうにかこうにか押さえ込むことに成功した。
「嘘付け。酔ってる」
「酔ってねえよ」
「酔ってるだろ」
「・・・下らねえ事を言う口は、この口か」
「あたた」
「まあまあ、お二人さん」
 無明の言い争いの最中、ぽんと頭を叩かれる。どうにか声は素面だが、あからさまに笑いを堪えて指が震えている。
 見透かされている。
 分かっては居ても、治まりの付かない感情は果てを知らない。この場で嫉妬を爆発させないだけで精一杯だ。
「折角の酒が台無しになるぜ?無粋な言い争いは後にしろよ」
 だるそうにソファに腰掛けながら、余計な事にまた下村に酒を注ぎ足すのに顔を顰める。それも桜内の計算の内かと
思わないでもなかったが、あえてここは気付かない振りをした。
「ドク、あんまり飲ませちゃ・・・」
「うっさいぞ。お前」
「下村」
 こちらの心情など全くわかっていない下村は、むくれたように顔を逸らす。
 ああ、本当に止めてくれ。どうしてここで、そんなお前の始めての顔を拝まなくちゃならないんだ。
「・・・もう、知らねえぞ」
 色々な面で治まりが付かなくなる予感に、咄嗟に顔を逸らす。横顔に強い視線を感じても、振り返りもしなかった。
 こんな風に何時までたっても遣る瀬無い。たとえ合鍵を渡されたところで、行使できる権利の一つも与えられない苛立
ちや不安は、絶えずこの胸の中にあって、坂井の柔らかな部分を傷ませる。
 その上、今回のことで明らかに桜内にはバレいてる。
 これでは酒宴の席に恰好の肴を運んだだけではないかと、暗澹たる思いで坂井は可愛らしく船を漕ぎ出した下村を
眺めて嘆いた。
 














 終















「夜明け前」 の続き。
ハラリラ坂井。
下村ぐんにゃり。