「だからさ、水切りしないと、あっという間に枯れちまうんだよ」 「水切りって?」 「ほら、こうやって花の茎を水につけながら…」 店の奥にあるシンクに水を張り、坂井はその中でぱちん、と花の茎にハサミを回す様にして切込みを入れていく。隣 ではその様子を下村が覗き込んでいた。 チラリと下村の横顔を窺えば、ただ真剣に坂井の手元を観察している。 そうやって下村は知らない事が多いながら、一度やり方を見ればしっかりと憶えてしまう器用な性質だった。 きっとこれも、明日には説明の必要もなくなるだろう。そう思うと坂井は何となく憮然となるのだった。 「切花は扱い一つで日持ちするから。あんまり早く枯れさせちまったら、可哀想だろ?」 「そうだな」 水の中から手を抜き、やってみるように促すと、下村は右手を水の中に突っ込み、シンクの縁と左手で花を支えて上 手に坂井の手習いを真似た。 「オーケー。後は発注の方を…」 一つ一つ説明をしながら、こうして下村が自分の傍で馴染んでいく事が、今でも少し信じられずに坂井は時々下村の 様子をこっそりうかがった。 そんな時下村は大抵何かを懸命にしていて、見ていれば知らず目元は緩むのである。 下村の傷がようやく完治し、その左手に慣れるまで下村は頑なにホールに出る事を拒んだ。 客商売として体裁を整える事を最優先に考えた末の行動だった。 既に何度かヘルプという形で店の裏方に顔を見せていた下村が、いずれ「ブラディ・ドール」の中核を担う人物になる ことは、坂井の態度を見ていれば誰でも気づいた事だろう。それについて幾人かの人物は坂井に忠告をし、また幾人 かはあからさまに下村に対して敵対の意思を見せさえした。 しかし当の下村はといえば、そんな周りの喧騒などどこ吹く風、ただ自分に与えられた仕事を黙々とこなし、そうして 最終的に支配人としてフロアに立った時、飄々と挨拶をしてみせた。 そしてはっきりと、自分の立場を表明したのである。 それが後に「伝説の左手事件」として語り草になるのはいうまでもない。 支配人としての初出勤の夜、下村と一方的に敵対を強いたボーイ達との間に、何があったのか坂井は今でも詳しくは 知らされていない。 下村は何も言わず、またボーイ達も一様に口を閉ざしたままだ。しかしその後、険悪な仲であった ボーイ達が店を辞める事もなく、素直に下村に従属しているのを見れば、その内容がそれほど理不尽なものでもなく、 だからといって単純な懐柔にあったわけでもないのはよく知れた。 いい意味で下村の手腕を認めたのだろうと、坂井は今ではそう思うことにしていた。 兎にも角にもそうして仕事を通じて向き合った同僚としての下村は、申し分ないほど完璧であり、大抵の場合一度教 えれば二度目はなく、また他の社員たちとの疎通も抜かりない。 普段無表情であるかと思われた顔は、営業時になれば驚くほど柔和に笑みを作り、やわらかな物腰は客の好感を誘 った。 あまりの無茶な行動に、本当に社会生活が営めていたのかと坂井などは半ば疑っていたのだが、しかしその様子を 見ればただその客あしらいの巧みさに驚くばかりだ。 だがしかし、一歩私的な時間に立ち返り、下村という一個の男に向き合えば、やはりそこにはものを知らないやや情 緒に欠けた、無愛想な男がいるだけだった。 そんな風に社会に適合する術に長けていながら、一方では針の糸通しの存在さえ知らない下村に、坂井は呆れの溜 息をつき、しかしそれを理由に下村の自宅に押しかける好機を得ているのであった。 「飯は、卵を入れてすぐに入れると、粒がパラッとするんだぜ」 「ふーん」 坂井はよっと、フライパンの上で炒飯を躍らせながら、後ろから覗き込んでいる下村に言った。下村はやはり一々頷 いて、感心したように吐息をもらしている。 それに「な?」と問いかけながら、坂井は息が詰まるほどに感じる充足感に頬を緩めた。 幾ら大抵の事を一人でこなせる様になったからと言って、そこにも限度があり、自炊に至っては下村は殆ど台所を使 っていなかった。 以前は一人暮らしをしていたこともあり、料理事体は苦にならないらしいが、如何せん以前とは左手の勝手が違い上手 く行かず、終いには布巾にコンロの火を移してぼやを出し、その時点で自炊は諦めたとの事だった。 燃えるのは構わないが、寝床に困る。 下村の場合、そういった事を真顔で言うので、冗談なのか本気なのか坂井にも時々判じかねた。 だが一方で下村が何のこだわりもなく、坂井に対し無邪気な様子で毎日の話をするのは、正直嬉しい事だった。 下村は他所から来た猫同様、なかなか回りの人間に懐く事がなく、自身に対する無頓着さも合間って、初めの頃など 坂井は何度ハラハラさせられたか知れたものではない。 その頃の下村の生活は毎日が全くの謎で、いきなりひょこっと店に顔を覗かせることもあれば、何日も行方不明にな るといった具合で行動に一貫性がなく、気ままな気質はそのまま日常に現れて、しばらくは酷い有様だった。 部屋に鍵はかけない。酔っぱらってもいないのに浜辺で寝る。夜中に海で泳ぐ。揉め事に首をつっこむ。etc.etc・・・ そのせいで何日か空けた部屋に知らない人間が生活していたり、浜辺で満ち潮に攫われそうになったり、闇夜の海で 方向を見失ったりした。 その度に坂井は呆れたり、怒ったり、安心したり怒鳴ったりで、すっかり神経は磨り減った。 だがそれも常識に欠ける行動だと坂井が諭せば下村は素直に頷いたり、海の恐ろしさを説けば「もうしない」と約束を した。 最終的に下村の納得のいくタイミングで「支配人」として責を負わせれば、渋々下村は落ち着いた様相を見せ、坂井 をようやく安堵させたのである。 坂井はそれをますます確かなものにしたくて、こうして毎日でも下村の元へ押しかけ、日常を植えつける。 下村が、少しでもここにいることが「あたりまえ」であると思い込むように。 「下村、皿出して」 「ああ」 自炊をしなければ当然増えもしない食材や調味料、細かな調理器具、食器の類はすべて坂井が持ち込んだ。元々荷 物がトランク二つきりだと言った通り、下村の部屋は寒々しいほど荷物が少なく、人の気配も坂井の家よりずっと薄い。 辺りを見回せば元からあった下村の荷物より、坂井の持ち込んだ物の方が多いといった有様だ。 大振りの素焼きの皿をテーブルに並べる下村の後姿を眺めながら、坂井は小さく溜息を漏らした。 こんな風に坂井が幾ら勝手に振舞って、どんどん荷物を持ち込もうと、下村は咎めるどころかいっこうに気にする様 子もない。もしかしたら坂井の存在など取るに足らないものだと思っての反応かと落ち込む反面、心のどこかでもしかし たらと期待する気持ちもある。 どちらにしろ坂井の想像の範疇を出ない、なんの実もない妄想を毎日巡らせる事しか出来ないのであった。 「坂井?」 「あ、ああ?」 「食べないのか?」 立ったままぼんやりとしていた坂井を、下村はきちんと座ってテーブルの前で待っている。 後は手の中のフライパンから炒飯を移すだけに整えられたテーブルを前に、ぼんやりとしていたらしい。 慌てて中身を移していると、うずうずと待ちきれないようにじっと炒飯を見ている下村が目に入って、思わず吹き出し てしまった。 「なんだよ」 顔を顰めて咎めるように唇を尖らせる様にまた笑ってしまいそうになって、坂井は慌ててフライパンをコンロに置くふり で背を向けた。 「何でもねーよ。早く喰おうぜ」 「…おう」 納得のいかない様子で、それでも空腹が勝ったのか、下村はすんなりと坂井の申し出を受け、坂井のコップに麦茶を 注いだ。 「いただきます」 「…いただきます」 きちんと手を合わせてから食べ始める下村からは、育ちのよさが窺える。旅館の息子と聞いた事があるが、やはりそ ういったところは躾が厳しいのだろうか。ではこの世間一般の常識が少々欠けているのも、そこに原因があるのだろう かと、坂井は不遜な事を思ったりもした。 「美味い?」 「ん」 蓮華をくわえて一心に食事をする下村の顔は幼い。それを微笑ましいような気分でこっそり見つめながら、坂井は小 さく息をついた。 こんな風に、知らない事を毎日律儀に吸収する下村を見るのは楽しい。 日常を共有する事で何の接点もなかった自分達が、同じ時間、同じ空気を吸っている事を実感できるような気がした からだ。 今までまったく違う場所で違う時間を、違う人間たちに囲まれて生きてきた。もしかしたら一生出会うこともなかったろ う。だがこうして事実出会ってしまえば、何故今まで、何故もっと早くと気ばかりが急いた。 だから坂井は自分の日常を下村の日常にすり替えてしまいたかった。 下村に気づかれない様、素早く、けれども穏やかに。 そして下村が気づいた時には、手遅れであるくらいに深く。 「坂井?」 はっとして顔を上げれば、不思議そうに首を傾げる下村と目が合った。 坂井が何を考えているかなど、下村には想像もつかないだろう。自分ばかりが一方的に躍起になり、大仰な空回りは 自分の知らぬ誰かの失笑をかっているのではないかと酷く被害妄想じみた事を考えた。 だが結局はそうすることでしか今の自分を許す事が出来ず、全てを受け入れるにはまだ戸惑いの気持ちが大きい。 いつまで立ち止まっているのだと、思う気持ちを無視したまま。 下村は時々、驚くぐらいにものを知らず、またそれを素直に坂井に報告する。 坂井とてそれほどものを知っているわけではなかったが、しかし下村のそれは大抵日常生活に由来する事が多く、そ の範囲内で言えば坂井の比ではない。それはいかに今まで無頓着に生きてきたのかを坂井に教えた。 坂井はそれを端から丁寧に教えたり、ちょっと笑ってからかったり、でもスグにきちんと説明して、たくさんの「日常生 活」を下村に分け与えた。下村はそれをやはり黙って真剣に聞いているので、坂井はその横顔が愛しいと思い、その 度に何度でも感じる胸いっぱいに広がる感情を時々持て余した。 (03/11/15) 終 |