それはもう、もの凄い勢いだった。 木という木を薙ぎ払う猛威で風は吹き荒び、雨粒は川という川を氾濫させんとする熾烈さで荒れ狂った。 坂井はというとそれをぼんやりと部屋の中から眺めては、どうしてこう災害の類は無闇に人の心を浮き立たせるのだ ろうかと思った。 雷や台風、停電といった類のどうにも抗えない災害や天災の類は、どうしたって人の胸を騒がせる。それが不安に拠 るものなのか、はたまた他に理由があるのかは知らないが、とにかく外聞のよろしくない不謹慎な考えであることは確 かだった。 しかしだかといってざわざわと興奮に近いようなざわめきを感じるのを無視も出来ず、外には出られない不満さをガラ ス越しに眺めることでやり過ごしていた。 出勤時間までにはまだ間がある。時計は今さっき昼の鐘を打ち鳴らしたばかりで静かなものだ。垂れ流されたテレビ の気象情報も気もそぞろで、なんとなくこんな時に一人で居るのはつまらないものだと思った。 あいつもきっと、暇にしてるんだろうな。 仕事の時以外は何をしているのか未だに謎の部分が多い男だが、まさかこんな天候の時にまでフラフラしてはいない だろう。そうなれば必然的に家にこもってまた訳の分からない、暗くてだらだらとした映画のビデオでも見ているに違い ない。 電話でもしてみるか・・・。 どうせもう数時間もすれば嫌でも聞く声ではあったが、何故か無性に声が聞きたくなった。 多分電話をしたところで、用でもなければ早々に切られるのは目に見えていたが、それでも一度思いついた考えは 中々頭から離れず、どうしようかと何度か手を伸ばしては手を引っ込めた。 その時。 「・・・?なんだ?」 不意にインターフォンが鳴った。 来客である。 こんな嵐の最中、まさかセールスや宗教の類ではないだろう。そう思ってフォンは取らずにそのまま玄関に向かった。 新聞の勧誘のわけがない。ちなみに月末でもないので集金も考えられない。 来客の予定もない。大体が直接自宅まで押しかけて来る知人などほとんどいないのだ。 それもよりにもよってこんな天候に。 不審に思いながらも魚眼レンズから外を覗く。廊下は夜の暗さで既に電灯が灯っていて、来訪者の様子はつぶさに 見て取れた。 思わず、顎が外れるかと思った。 信じられない。どうしてこんなめちゃくちゃなんだ。 ドアに寄りかかるように怠惰な姿勢で覗いていた身体を慌てて起こし、足元に転がっていたサンダルを足先に突っか ける。湿気で滑る上に焦って上手く回らない鍵に手を焼きながら、坂井は小さく舌打ちした。 「よお」 漸く開いた扉の向こうには、いつもと変わらない表情で下村が立っていた。 足元には既に大きな水溜りが出来ている。 「お前・・・何やってんだよ・・・」 「?散歩」 「アホか!」 垂れた前髪から、雨水が滴り落ちて頬を濡らしているが、負けず劣らず顔も雨風でぐちゃぐちゃだから本人はトンと気 にした様子もない。幾ら暖かい気候とはいえ、こんな恰好でふらふらしている馬鹿はそうお目にかかれない。 天然記念物でも見るような勢いで坂井はまじまじと下村の顔を見つめてしまった。 「まあ、そう言わずに一寸中に入れてくれよ」 流石に困った顔で下村が口元だけを笑いに歪ませた。それにはっとして坂井は取って返すと急いで部屋の中に駆け 込んだ。 「おい!まだ中入るなよ!」 制止の手を翳しながら、それだけ言い置いて慌ててバスタオルを掴んで引き返す。 戻ってみると下村は言われた通り、大人しく玄関先で待っていた。 「ほら、取り合えず頭拭いて・・・ってそれどころじゃねぇな。いいから、風呂入って来い」 「別に着替えれば・・・」 「いいからさっさと入って来い!」 まだ何か抵抗し足りない顔で下村は振り返ったが、ぐいぐいと押される背中に閉口して大人しくバスルームに入ってい った。 下村が歩いた後には、転々と水の跡が付いている。 これでは芸のない幽霊のようだと思いながら、それを手早くふき取りキッチンに入りケトルを火にかけた。 「昨日は車、お前が乗って帰っただろう?」 「そうだな」 坂井は渋々首を縦に振る。それを認めて下村は酷く満足そうに頷いた。 「だからここまで歩いて来たんだ」 「何でっ?俺が迎えに行けば済むことだろ?!」 「・・・そうか。そうだな。思いつかなかった」 けろりと言われて坂井はがくりと肩を落とした。 下村はそんな坂井の様子などお構いなしに、湯上りの身体に薄手のシャツとジーンズを身に付けてどうやら人心地と いった様子で紅茶を飲んだ。 「台風は、死人が出るんだぞ・・・?」 「そうらしいな」 「お前は新聞に載りたいのか!」 どうにものらりくらりと暖簾に腕押し、ぬかに釘。坂井の説教に動じる様子もなく、下村はだらりと弛緩してソファに崩 れている。 相変わらず謎な行動の多い男である。 本人は何か基準があって行動しているようだが、他から見ればどうしても浮世離れした凧のようにしか見えない。 ふわりふわりと風に揺られて、あちらこちらと上の空だ。 ぶつぶつと何事か呪詛を呟く坂井に、下村は不思議そうに首を傾げた。 「大体、どうしてそんなに怒ってるんだよ?お前は」 ―――ジーザス。誰かこいつを殴ってくれ。 坂井は無心論者の冒涜を、安易に心で唱えながら天を仰いだ。 本当にこのふわふわとした頭の中には、肝心なものが入っていないらしい。随分前から気付いてはいたがここまでと は思わなかった。 本気でどうして坂井がカッカしているの理解出来ていない無頓着な下村に、坂井は大きく溜息をついた。 「何だ。何で溜息だ?」 不満そうに口を尖らせながら、下村が言及する。 その様がどうにも幼く、坂井は噴出しそうになって危うく堪えた。 ああ、やっぱりダメだ、本当に。 こんな顔一つで。あっという間に怒りが解ける。 今の今まで言葉の普通さに血管が切れるのではないかというくらい興奮していた頭が、すうっと穏やかになるのが分 かった。 本当に、下村のこんな仕種がダメなのだ。 あっという間にやられてしまう。 こんな堂々巡りの下らない会話が、何よりも楽しくて仕方がないことに気付かされてしまう。 坂井は大きく息を吐き、ドスンと下村の隣に腰を降ろした。 「で?なんか用があって来たんだろう?」 どちらにしろ、まだ出勤までには時間がある。その為に来たのなら、もう少し嵐が治まってからでもよかったはず。な んと言っても、今の時間帯が一番台風の中心に接近しているからだ。その中をわざわざ歩いて来たのである。何か用 があってしかるべきだ。 手元に転がっていた煙草を一本取り出して、咥えてライターを探したが見つからない。いつものジッポはきちんと定位 置にあるはずなので、こんなところには転がっているはずもない。しかしどうにか使いかけのマッチをテーブルの下から 見つけて火を点けた。 「用?別に用なんかない」 「は?」 きょとんとして、振り返る。下村は平然とこちらを見ていた。 「・・・だって、だから嵐の中わざわざ来たんだろう?」 「・・・ああ、そうか。人の家を訪ねる時は、用があるものなのか」 下村は納得したように一人で頷いている。どうにもピントの外れた会話に、坂井はどう反応していいのか暫し戸惑っ た。 「いや・・・そういう訳でもないと思うが・・・」 「じゃあ、いいじゃねぇか」 何が言いたいのか分からない、というように下村が眉を顰めた。 「俺はお前に会いに来ただけだ」 「・・・は?」 ああ、それが用と言えば用なのか。と下村が一人で納得していたが、坂井の耳には上手く入ってはいなかった。 俺の為に、嵐の中を危険も省みず歩いて来たのか。 恐らく下村がそこまで考えているはずがない。しかし自分に都合よい妄想を多分に脚色して、坂井は呆然と下村を見 た。 「あ!馬鹿何やってんだ!焦げる!」 ぽろりと坂井の口から転げ落ちた煙草を、下村が慌てて掴み取る。下村の心配を他所にソファは俄かに焦げて、煙 い匂いを発していた。 「あーもう、本当にお前はダメだなぁ・・・」 「俺かい!」 「俺はダメじゃねぇもん」 ソファに顔を近づけて叩いて灰を落とす下村が、当然の如く言ってのける。 坂井は無言のまま、神に祈るよりはこちらが確実だと、脳天目掛けてチョップをお見舞いした。 「イテェ!馬鹿かお前!さっさと煙草消して来い!」 怒って肩を足で蹴ってくる下村の足首を捕らえて、裾から伸びた足首に指を滑らせた。 「・・・ご褒美くれんの?」 自分でも十分分かるほどに媚を含んだ上目遣いで下村を見た。 下村はそれに半舜ほど瞬いて、相変わらず坂井をダメにするような真っ赤な顔で頷いた。 終 |