「かんぱーい!」 「乾杯」 グラスを掲げて目礼すると、ナミはテーブルの向こうで嬉しそうにグラスを傾けた。 ナミと時々昼食を食べに来るその店は、昼休みの会社員で賑わう気安い食堂が一変し、フルコースのディナーを楽し むカップルや家族連れが場を占めている。この時間帯は始めてのゾロだったが、ナミは度々利用しているようだった。 「ランチだけじゃなくて、ディナーも美味しいのよ」 早々にワインを飲み干したナミのグラスに注いでやると、やあねぇ、逆だわと笑った。 「お前が奢るなんて、後がおっかねぇな」 「何言ってるのよ、純粋に好意で誘ったんじゃない」 わざとらしくツンとしても、普段の守銭奴振りからすればゾロの意見に利があった。実際それ程積極的には否定しな いナミである。それには思わず苦笑した。 あれやこれやとお互いの日常生活の雑談に終始しているうち、手元に上品に飾られた皿が運ばれてきた。こんなとこ ろまで昼間とは違うのだと驚いた。ランチセットはこれよりもっと盛り付けが派手でとにかく量が多いワンプレートだ。そ して何より味がいい。しかし目の前の皿は明るすぎないランプの下で、艶やかな鮮やかさで上品に盛られている。とても 同じ店の商品とは思えない。それが顔に出たのか、ナミはふふふ、と笑いを含んだ。 「昼と夜は違うヤツが作ってるのか?」 「一緒よ。本人曰く、一流料理人だからじゃない?」 「へえ」 いただきます、と手を合わせて礼をする。もちろん周りでそんな事をしている者などいないが、そんなゾロを諌めるで もなく、ナミまで同じように手を合わせたのには驚いた。それにナミはちょっと恥ずかしそうに、そんな気持ちになるのよ ね、と笑った。 「初めはね、なんて軽い人なのかしらって思ったの。これ作った人。女の子が大好きらしくて、いっつもデレデレしている し。でもね、料理の話をしてる時はね、全然違うの。すごく楽しそうで、すごく真剣なの。本気なの。ほんの何度かだけど そういうの見ちゃうと、なんだかちょっと敬虔な気持ちになっちゃうのよね」 照れくさいのか誤魔化すように食べ始めたナミに、ゾロは素直に驚いた。ナミは簡単に人から影響を受けるようなしお らしい玉ではない。どちらかといえば懐疑的で、そこからようやく自分との妥協点を見つけるような用心深い人間だ。そ れがそんな、数回の会話だけで考え方を改めるとは。ゾロが知らず興味を覚えても、不思議はなかった。 改めてフォークを取った。一見食べづらそうだが実際はそうでもなく、一口運ぶと、なるほどナミが贔屓にする理由が よく理解できた。 「旨い」 「で、しょ?昼もいいけど、夜も最高よ」 ああ、と頷くとナミは自分の事のように誇らしげだ。それがまた珍しく、なんだか余計にゾロはその料理人が気になっ てしまった。一生懸命互いに食事をしながら、たわいも無い話をたくさんした。そのほとんどが意味が無く明日には、い やすぐにでも忘れてしまうような内容だったが、気がねなくそんな話ができる相手は案外少ない。仕事の関係で最近は 会う暇のなかった二人は自然饒舌になった。 「いらっしゃい、ナミさん」 「あら、こんばんは」 突然の声にナミは笑って振り向いた。それと同時にとん、とん、と二人の前にコーヒーカップが置かれる。その指先を 見、それからその手の持ち主を振り仰いだ。そこには白い服に赤いスカーフを巻いた金髪の男が立っていた。 「今日の料理はどうでした?お口に合いましたか?」 「ええ、とっても美味しかった。サンジ君のお料理は最高ね」 「ありがとうございます」 前髪が長いせいか、ゾロから男の顔は見えなかった。僅かに見える口元だけが、唯一表情を見せている。特に会話 に参加する気のないゾロは、我関せずとコーヒーにミルクだけを入れてかき回した。 「あ、そうだ。ねぇゾロ、ケーキ食べない?」 「あ?」 その後も続く二人の会話に、なるほどこれが女好きで料理には真剣な件の料理人か。ぼんやりとそんな事を考えて いたゾロは、ナミの問いかけにぽかんとした顔をしてしまった。 「だって折角の誕生日だもの。やっぱりケーキでお祝いしなくちゃ」 「…別に。それに甘いものは…」 「サンジ君、あんまり甘くないケーキってあるかしら?」 ゾロが言うことなどお見通しといったように遮って、ナミはテーブルの横に立つ男を見上げたので、つい一緒にゾロも 見てしまった。驚いた事に男はナミの方ではなく、ゾロの方を見ていたのでしっかりと目が合ってしまった。 「お誕生日なんですか?」 落ち着いた、低く通る声だった。つい今しがたナミと話していた時とはまるで違っていたせいか、ゾロは少しぼうっとし てしまい、男は気まずそうに眉を下げた。ゾロの態度を否定と取ったのが分かり、慌てて首を振った。 「あ、いや。誕生日だ。俺の」 慌てた事が気まずくて視線を逸らすと、こちらを面白そうに見ているナミと目が合った。その中に明らかなからかいを 見つけてむっとするも、すぐに男に気を取られた。 「あの、少々お待ちいただけますか?」 後半はナミへ流れた視線だったが、明らかに声のトーンは落ち着いていてゾロへ向けたものだった。ええ、もちろんと 頷いたナミは、テーブルの下で軽くゾロの脛を蹴った。それにしぶしぶ促され頷くと、男は一礼して踵を返し厨房へ戻っ た。 「楽しみね」 頬杖をつく仕草は随分と愛らしく、戯れを湛えた目は魅力的であったかも知れないが、それをあまりにも身近に感じて いるゾロには、ただうんざりするばかりで他の感想もない。そんなゾロをナミは大層気に入っていたわけだが、もちろん ゾロがそれを知る機会は当分与えられそうになかった。 「甘いもんは…」 「大丈夫よ、きっと。サンジ君ならあんたにも食べられるケーキ選んでくれるわよ」 そうだろうか。ナミの話と今の様子を鑑みても、どうも積極的に男に親切にする性質には見えなかった。今は料理が 間に立っているから成立している関係で、外へ出ればすれ違っても目も合わせない間柄。それが誕生日だからとそう 親身になれるものか、ゾロにはただ疑問だった。だがそうして選ばれたものを食べないわけにはいかないだろう。奢っ てくれるナミの手前もあるが、何よりゾロ自身、出されたものを残すのが嫌いだった。 「あ、きたわよ」 しばらくまた取り留めのない話で場を埋めていると、小声でナミが囁いた。目が好奇心でキラキラとテーブルの上のラ ンプの光りを弾いている。悪巧みや悪戯をするとき、どうしてコイツはこんなに輝いているのだとゾロはうんざりした。 「おまたせいたしました」 目の前に静かに置かれた皿の上には、三角に切られたケーキが一つ。ゾロは思わずそれをじっと凝視した。 「わあ、林檎のタルトなんてあったのね。新作?」 「いえ、ご予約された方で、今月がお誕生日の方に召し上がっていただいているので、メニューには載っていないんで す。林檎は11月の誕生果なんですよ」 「誕生果なんてあるの?」 「はい」 知らなかった、と驚いているナミだが、誕生花の存在さえ知らないゾロは、なんにしても関心するばかりだ。 「あんまり甘くないはずです。これ」 ぽー、と感心していたゾロは、口が開いていた事に気づいて慌てて閉めた。とんだ失態に思わず顔が赤くなる。だが 男は特に気にする風もなく、これなら大丈夫だと思いますが、もし駄目ならお取替えしますと言った。 「いや、でもこれ、予約した人のだろう?俺、予約とかしてないし」 皿を返そうと縁に手をかけたゾロに、男はそっと、その手を押さえる仕草をした。 「召し上がってください。一年に一度の、お祝いですから」 「…いただきます」 一応納得してフォークを手に取り、だが一瞬躊躇した。どうにも下の生地が薄くて上に盛られたりんごがでかい。食べ 方が分からず戸惑うゾロに、そのまま、崩してしまっていいですよと男は助け舟を出した。目の前でぷ、とナミが笑った が、構わずフォークをぐさりと入れて半分近くを一気に口へ突っ込んだ。 「…旨い」 さっくりとした生地と真ん中の柔らかいのとしゃっきりとした林檎の歯触りがなんとも爽やかで、余計な甘さがないせい か、後味には林檎の甘味が微かに残るのみだ。ケーキに「甘い」以外の感想を持ったのは初めてかも知れない。きっと 男は、一度は否定したゾロが漏らした言葉に、得意げな顔をするだろう。それがなんとなく不愉快な気もしたが、一応礼 を言おうと顔を上げたゾロは男の様子に面食らった。 賛辞を当然と受け取る男の顔は、きっと自尊心を満たした、居丈高な顔をしているだろうと思った。しかし予想に反 し、男はただ恥ずかし気に目を伏せて、口元で僅かに微笑んでいるだけだった。 「ありがとうございます。お口に合ってよかった」 そして一度だけ、ゾロと目を合わせてぱあっと笑った。だがそれもすぐに引っ込んで、後はたちまち普通の顔に戻って しまった。それが少しだけつまらなく思われ、つまらないって何だとゾロは浮かんだ言葉を持て余した。 「あのッ」 会計をナミが済ませている間、ゾロは先に表へ出た。店先に吊るされたランプは昼間とは違う光で足元に大きな影を 作ってゆらゆらと時々形を変える。それを見るともなしに眺めていたゾロの背中に、店の横の路地から声がかかった。 そこには、あの、金髪のコックが立っていた。 「誕生日、おめでとうございます。これ、よかったら…」 何も言わずに突っ立っているゾロの胸元に、男は細長い紙包みを差し出した。形からワインの様だと予想し、ゾロは 首を傾げた。 「なんで」 「え」 「なんで俺にくれるんだ」 当然の疑問である。確かに何度もランチでこの店を利用したが、まともに相手を認めたのは今夜が初めてだ。それも 客とコック、あくまで料理が二人を繋いでいたに過ぎず、店を一歩出てしまったゾロは、言ってしまえばもう何の関係も 義理もないのだった。それをわざわざ追ってきてまで包みを差し出す男の意図が測れず、疑念を持つよりも困惑した。 「だって、一年に一度のお祝いだろ」 祝わせてよ、と理由にならない理由を男は言った。 「知らないやつから貰えない」 ぐい、と包みを押し返した。実際ゾロは男の名前を知らなかった。ナミが何度か言ったかも知れないが覚えていない。 己の不審に気づいたのか、男は出てもいない額の汗を拭う素振りをした。 「あ、そうか。そうだよな。俺はサンジ。この店で料理長してる、コックのサンジだ」 よろしく、と握手を求められて思わず握り返したゾロに、男は、コックのサンジはにやりと笑った。 「これで知らない仲じゃないだろ?だから受け取ってよ」 握った手を離さず逃さない力でサンジはもう一度、ゾロの懐に包みを押しつけた。ここまでされてしまって断るのも後 味が悪い。元々の酒好きの意地汚さも手伝ってゾロはそれを受け取った。 「ランチだけじゃなくてさ、また夜も来てよ。やっぱり夜の方がバリエーションもあるし」 それだけ言うと、サンジはさっと踵を返した。入れ替わりにナミが店の扉を開く。半ば呆然としたゾロの手元には、紙 包みだけが残された。 「あら、ゾロ。それどうしたの?」 サンジの姿を見なかったナミには、当然の疑問だろう。なんと答えるべきなのか迷ったゾロは、俺にも訳が分からんと 答えて頭の中まで迷子なのかと揶揄された。 |