初恋クレイジー
















 がらんとして室内に、坂井は舌打ちひとつで踵を返し慌てて脱いだばかりの靴をつま先に引っ掛けた。
 忙しなく合鍵で開けたばかりのドアをもう一度丁寧に閉める。もう考えたところで下村の行く先など知れているのだと
思って指先は苛立った。それでも小さな鍵を大事に胸ポケットにしまい込みながら、同時に動き出した足は止まらなか
った。


 下村を独り占めしたいわけではないのだ。

 頭に浮かんだ奇麗事は、たちまちにバイクの轟音に掻き消えた。
 代わりに浮かんだ考えは、先程の綺麗事とは程遠い、未練と嫉妬と執着と独占欲の塊だった。
 下村の傍にいたい。触れいていたい。誰にも見せたくない。―――自分の物にしたい。
 そんなことは無理だと初めから知れていた。そもそもひとりの人間を自分の思うままにしようなどと、そんな考え自体
が傲慢に他ならない。
 相手が誰だろうと、それは許されることではないのだ。
 それなのに、頭に浮かぶ事はと言えば、相手の存在を辱めるような際どい考えや思想で、坂井自身でさえ辟易とする
ようなことばかりだ。
 もっと、穏やかな感情で見られればいい。
 そんなことも何度も考えた。
 ただ傍にいたり話をしたり、たまにこうして互いの家を訪ねたり。
 それ以上を望まなければ、今でも十分に叶えられる望みであるのに、結局それでは満足できない自分が居る。
 傍に居るのなら、触れたい。話をしているのなら、その吐息を奪いたい。ずっと、傍に居たい。
 自分だけの傍に。
 物理的にも倫理的にも実際的にも全く無理な願い事は、叶えられるはずもない。
 それでもせめて下村の関心が少しはこちらに向きはしないかと、気をもんでは結局肩透かしを喰らうか、手酷く裏切ら
れる。いや、正確に言えば裏切られている訳ではない。ただ、そんな裏切りにもならない下村の一挙手一投足に振り回
されては撃沈する、憐れで滑稽な自分が居るだけだ。
 下村が自分でない他の誰かと一緒に居る。
 話をする。
 酒を飲む。
 それだけで坂井は十分に打ちのめされては暗い思考に身を窶す。
 こんなことでは、遠からず取り返しの付かない事態を巻き起こすのは目に見えていた。
 事実、ここ最近下らない言い争いや、お互いの意志の疎通を持たない諍いが増えたのは確かだった。
 坂井の言いたいことの大抵は下村には伝わらない。
 坂井の気持ちを知らない下村に何が伝わるわけもなかったが、それでもこの気持ちの何万分の一でも伝わりはしな
いかと、毎回期待してはまた背を向けられる。
 そんな事を何度も繰り返し、もういい加減期待するのは止めようと思うのに、結局下村が何か気づきはしないかと言
い争いになる。
 全くの堂々巡りだ。
 下村にしてみれば、いい迷惑だろう。
 訳の分からないことで言い募られ、訳の分からない責めを受けるなど到底耐えられない。今まで手が出なかった事の
方が不思議だ。
 それでも未だに決定的な決裂を起こさず居られるのは、下村が坂井に何がしかの譲歩をしているからだ。そうでなけ
れば、今の状態で何事も起こらずに居れるはずがない。
 坂井の心を癒すのは、今の所ただひとつ。
 下村が坂井を切り捨てようとしないということだけだった。
 下村は一見すると穏やかで、何か余程の理由がない限りは声を荒げたり態度を乱すことはなかった。外見もどちらか
といえば優男な風体であるし、物腰も柔らかい。体格も無駄な筋肉が付いていない分細身であるから、甘く見られて初
めは古参のボーイと上手くいっていなかったようだった。
 しかしそれも数日の内に静かになった。
 所謂「伝説の左手」事件だ。
 それについて坂井は深く詮索することはなかったし、下村に直接聞いたこともなかった。そういった騒動はどこの酒場
でもよくある話だったし、それで表面的に店が落ち着いたのであれば文句はない。
 しかし、それで気が付いた。下村は自分の意に添わないものには容赦がない。必要ないものはあっさりと切り捨て
る。それを失念していたという事実を。
 人気のないカーブを信号を無視するような勢いで曲がりきり、アクセルを握り込んだ。高回転のセルが高い音で静ま
り返った街を騒がせても、自分の胸の騒ぎに比べれば何のことはないのだと内心で嘯いた。
 下村がこんな時、訪れる先はそうはない。
 何の証拠もないまま確信だけが頭を支配する。恐らくは間違いなくこの先の小さなビルの一室に、下村は居る。
 桜内と一緒に。
 下村がかなり高い頻度で桜内の元を訪れては酒を飲んでいるのは知っている。そんな時、下村は決まってそこで寝
込んで朝帰りだ。
 坂井とは比べるべくもなく強く、幾ら飲んでも乱れる気配を微塵も見せない下村が、そこでだけは安心しきって平気な
顔で眠り込むのだ。
 それが何よりも坂井を傷つけ、苦しめているなどとは知らぬまま。
 全開のスロットルがますます耐え難いような高音を発しても、そんなものこの胸の痛みに比べれば、それこそ小鳥の
さえずり程度でしかないのだと思い、坂井は小さく舌打ちした。 
 














 終















「無明の夜」坂井モヤモヤ編。
手元にスピッツがあったので。
案外ハマり?