混沌として目を覚ますと、まだ外は暗闇の霧に煙っていた。 それをぼんやりと見上げながら、そうか、まだ朝は遠いのだと思い再び目を閉じる。しかし一度醒めてしまった体は 中々に眠りに落ちず、仕方なしに体を起こして上着を羽織った。 カーテンもつけない窓際にベットを置いたせいで、真夜中にあってもそこはそれほど暗くはならない。しかしそれも慣 れてしまえば気になるほどでもなく、かえって薄ぼんやりとした輪郭が眠りを誘って丁度いい。 布団の波を手で意味もなくなぞりながら、そのさらさらとした感触を手のひらで楽しみ、ややあってからそこへ頬を預 けて眠れないことを知りながら目を閉じた。 吐息を吐けば間を置かずに白く浮かぶ。薄いパジャマに上着を羽織っただけの格好でいつまでも居ていい気温では なかったが、その指先の冷える感覚が嫌いではなかった。 段々と感覚の鈍くなる手足とは裏腹に、体の芯は熱いくらいの体温を孕んで自分の存在を強く感じた。 しかし皮膚の感覚に幾らかの愚鈍さを自ら認める自分であっても、このままぼんやりとしていれば容易に風邪を引く のは否めない。のっそりと体を起こし、上着を脱ぐ。次いでパジャマも脱ぎ捨て表層を擦る布地を全部剥ぎ取ってから バスに向かった。 こんな時、不意に頭に浮かんでは消えて行くのはどうでもいいような事柄であったり、早急に対応を迫られる事柄であ ったり、・・・胸をちょとだけ引っ掻くようなくすぐったい事柄であったりする。今夜はどうも最後の方のものであるらしく、頭 から湯を被りながら脳裏をちらついては騒がせる男の影を追っては目を伏せた。 こんな風に誰かを思い煩うのは、なんだか久しぶりで不思議な感じだった。 そう思う事に胸が痛む。共に暮らした女にさえ、そう思うことのなかった自分に嫌気がさす。これでは捨てられたところ で文句の言いようもない。それが分かっていながらそんな自分を責めもしなかった、思っていたよりずっと強い女はもう 死んだ。結局文句を言う相手さえも失ったのだと。 感情が死んだ。そう思った。 愛した女の死に際にさえ、喪失で心が軋んでも、決して哀しくはなかった瞬間に。 それなのに。 「まだ、こんな中にも何か残ってたんだな」 自分の胸を見下ろして、呟く。唇の隙間から生ぬるい水が入り込んで喉を塞いだ。一通り弄っては流れて体を伝い排 水溝に流れていく。 含んだ嗚咽は流れて消えた。 こんな時、無性に会いたくなる。 会って、話をして、腕に触れ、肩に触れ、頬を包み込み、その唇にくちづけたい。 その体を抱いていたい。 果たしてそれを出来うる自分であるかは、全くの謎だったが。 本来であれば外出の際には、よほどの緊急事態を除いてきちんとした服装をするのを心がけている。 一人で居るにつれどうしても無気力になりがちになるのに歯止めを掛ける意味もあり、最後の意地のようなものもあ った。 しかしどうしても面倒な身支度や選択を省きたくて、洗いざらしのシャツを羽織って色の落ちたジーンズに足を通す。 年齢を気にしていては最早その格好は不相応であったかも知れないが、思うことも面倒でポケットに車のキィを突っ込 みデッキシューズを突っかけた。いつもはきちんと後ろに撫で付ける髪も、面倒でそのままにしていると目元を隠すので 丁度いい。いつもの癖でチラリと覗いた鏡の先には、学生時代に良く見かけた男が立っていた。 大学を卒業し、それなりに選んでそこそこ名の知れた商社に入り、そこそこの業績を上げて数年。成功すればそれな りに見返りの大きい海外転勤を仰せつかって赴任したものの、迂闊にもそこは余りにも居心地が良すぎてしくじった。 自分が今まで如何に場違いな場所に居たかということに気が付いてしまった。 日本に戻り、まりこと再開してからのことを考えて、あまりの無様さに溜息が漏れた。 自分の中にある種の燻りを、まりこを理由に断ち切った。その卑怯さに。 どちらにしろ、あのままサラリーマンとしてまともにやって行くことは、恐らく自分には無理だっただろう。遅かれ早かれ 現実と内面の違和感に齟齬を感じて打ち止めになっていたはずだ。 もしあの時、まりこのことがなく、この街に来る事になっていなかったとしたら。 ・・・もっと惨めな事になっていた可能性は大きい。 暴力の匂いを一度体に染み込ませてしまった者が行き着く先は、やはり暴力でしか生きられない世界だ。 だから一見やくざに見える割りに安定した今の仕事は、本来なら望むべきもない最高の職場だった。 夏を迎えた海沿いの道は、見慣れないナンバーが多く、地元の車のほうが余程少ない。その中をのろのろと進みな がらクーラーを切って四方の窓を全開にした。途端に入り込んでは通り抜ける潮風に車内は満たされ、忙しない様子で 髪が額や頬を打った。しかし爽やかな夏の風の感触にそれも気にならず、目を細めてはやり過ごす。 遥か前方、海に向かって拓けた視界は果てしなく、夏の水平線の模りが鮮やかに目に残った。 どこへともなく車を走らせながら、今日はこのままどこまで行こうかと思案し、どうせする事もなく、待つ人もいない今の 自分はどこへ行こうと全くの自由なのだと思って、何故か少し胸が痛んだ。 何かしらの理由があってどこかへ旅立つのは、何時だって心躍るものだ。しかし目的もなく、ただ淡々と遠くを見るの は少し哀しい。そう思い、そう思った自分に驚いた。 今日は本当にどうかしている。 普段、こんな風に深く思い煩うことは少なかった。その必要がなかったせいもあるが、そういった心境になった自身の 変化が理由としては大半だろう。昔は考える時間が一日の大半を占めた時期もあった。しかし頭を体が逆転し始めた のは、大学を出た頃からだった。 思うより体が動くことが多く、それで大層馬鹿なこともやったし、実際パリではその大半が頭よりも体が先に動いて起 こした事例が少なくない。空手に打ち込んだこともそうだったし、本来ならする必要もなかったアルバイトも然り。 しかし結局はどちらも最初は多少の刺激を与えてはくれても、それも一過性のもので長くは続かず、結局は頭が体の 本心に気付く前に飽きてしまった。 本心。 最終的にここまで流れ着いてしまったのは、考えることを嫌った頭の賜物だ。体が示した本心を、汲み取ろうとしなか った末路だ。 車が漸く切れ始めた道路に合わせてスピードを上げる。あまりここらで出しすぎると下手を打つので、速度は法定を 少し上回る程度に抑えた。 斜めから斬り込む海風が、速度に合わせて強さを増すので目を細める。打ちつける風の勢いは頬に痛かったが、ど うでもいいような気がして窓は閉めなかった。 ひんやりとした人工的な涼しさも、乾燥した暖かさも余り好きではない。育った場所がそういった温度の調整を必要と しないところであったせいかもしれない。夏にしろ冬にしろ自然に任せることが多い。そのせいでたまに文句を言われる こともあるが、一瞥で黙らせることが多い。 そんなに嫌なら、傍へ来なければいい。何も望んではいなのだから。 よく使った言葉だ。相手を拒絶し内面まで踏み込ませない為の常套句。それを使えば大概の人間は呆れるか怒って 傍を離れるか、少し困った顔を見せて距離を置いた。それでいい。その時はそう思っていた。合わない人間と無理に合 わせる必要もない。 でも。 今になって思う。それはなんという傲慢かと。 少しでも信用していた人間に、あっさりとそう言われた者の心情など、考えたこともなかった。なのに。 『俺は、お前が望むから傍に居る訳じゃねぇよ』 そう言って、怒った様に声を強張らせた。 『俺が居たいと思うから傍に居る。お前が望もうと望まざるとに関わらず』 そう言って、二・三日はまともに口を利いてくれなかった。 その時の様子を思い出し、思わず口元に笑が浮かんでしまう。拗ねたように尖らせた口先が記憶に新しい。 あんなことを言われたのは初めてだった。聞き様によってはそれこそなんて傲慢な言葉であることか。 でも、「お前の為」と言われるより、代えがたく心に響き、そこで初めて今まで行った自身の仕打ちの無情さを思い知 った。 何もかもを切り捨てて、一体どこへ行こうとしていたのだろうか。 体の訴えた本心は、もうどこかへ行ってしまったのか。いや、違う。体に頭が追いついただけだ。 人の生きる意味は何か。生きるとは何か。この命の意味は。 人類の永遠の命題ともいえるその問いに、未だかつて答えた者はない。 いつの間にか自身を試すことによってそれを得ようとしていた事に気がついたのは、左手を失った後だった。 あの時、目を覚ました時。 目の前にした命の存在に、まるで奇跡の様な心の揺さぶりを受けた。 今まで感じたことのない、生きていることへの愛しさと、語りかけてくる命への羨望。 きっとあの時からもう、まるで産まれたての赤子のように坂井を欲していたのだな。 「下村?」 「よう」 突然現れた下村に、坂井は驚いて目を瞠った。 洗車をするから手伝えと言った坂井に、無常にも首を横に振ったのは下村の方だった。それが悪びれせず洗車場に 現れて手を上げている。 「何だよお前、付き合わねぇって言ってたじゃん」 「ん?気が変わった」 あっさりそう言って、下村はシレっとして左手の手袋を外してスポンジを手に取った。 「お前・・・」 習うように坂井の横に腰を降ろしてホイールを流し始めた下村を坂井はぼんやりと見やった。 滅多に見ることのない、ラフな服装に目を取られる。引っ掛けただけの白いシャツ、色あせたジーンズ。夏の日に映え る髪は真っ直ぐに降ろされて酷く年若く見せている。夏であればそれこそよく見かける服装だが、下村がそんな恰好を するのを終ぞ見たことがなかった坂井には、何故かものすごく不思議な光景に見えた。 「何?」 立ち上がったまま作業を再開しない坂井に小首を傾げる。それだけの仕種も普段と違う服装一つで、思いのほか幼く 下村を見せていた。 「な、なんでもねぇよ!」 「?変なの」 振り切るように怒鳴った坂井に、下村が不審気な声を上げたが無視した。 冗談じゃない。こんな真昼間から不埒な考えで呆然としていたなんて誰が言えるものか。 平日の真昼の洗車場には他に人影もなく、誰に見られる心配もなかったが、坂井は咄嗟に赤くなった顔を見られまい と怒った振りで髪をかき上げた。 奥まった場所にある洗車場は酷く静かで、二人が懸命にスポンジを滑らせる音と、遠くから微かに聞こえる汽笛だけ が耳に心地よい。 相変わらず何を考えているのか良く分からない下村をちらりと横目で見ながら、坂井はドアにスポンジを滑らせた。思 いのほか繊細な造りのホイールを丁寧に拭っている下村の真剣な横顔に、じっと見入る。視線に気付いたのか、下村 がフト顔を上げた。 その素振りに、一つ大きく心臓が鳴った。 眩しい陽の光に白いシャツが目に残像を残す。大きくはだけられた首筋から胸元はいつの間に焼けたのか、皇かな 褐色の肌を鮮やかに覗かせている。そうして合わせた目の深さに、坂井は一瞬正気を失った。 「こっ!ちょっ・・・坂井!」 気付いた時には、下村の腕を取り上げ車体に押しつけくちづけていた。 「こら!どこだと思ってるんだ!」 ばしんっと勢いよく顔を張られた時には、既に下村の鎖骨にクッキリと跡を残した後だった。 「・・・洗車場」 不貞腐れて口元を拭うと、端を切ったのか指先に血がついた。 「真昼間のな。・・・帰る」 「あ、おい!」 ぷいっと顔を背けて下村が行ってしまうので、坂井は慌てて後を追おうとした。折角来たのに逃す手はない。無意識と はいえ自分の行いに舌打ちした。 「洗車!」 振り返って、下村が怒鳴った。 びくりと坂井は立ち竦む。 しかしてっきり怒っていると思っていた下村の顔は、ただただ真っ赤に染まっていた。 「そのままじゃ、水垢が付いちまうだろ。・・・これ以上はマズい」 そう言ってますます顔を赤らめた下村に、坂井はぽかんと口を開いて瞠目した。 「じゃあな!」 そう言ったきり坂井の答えも待たずに本当に行ってしまった下村の車を見送りながら、坂井はヘナヘナとその場にへ たり込んでしまった。その顔は、下村にも負けない位に真っ赤に染まっている。 「本当にお前・・・反則だぜ・・・」 そんな顔まで見せておいて、そのまま放置だなんて、なんて人でなしだ。 そう思いながら、どうにもニヤつく頬を押さえたところで激痛がぶり返し顔を顰めた。本気で余裕のなかったらしいこと が良く分かる。 手加減も上手くできなかった下村が、どうしようもなく可笑しくて、可愛かった。 「あーあ、勿体無いことしたなぁ」 下村がその気になるなんて、梅雨の晴れ間くらいに数少ない。どういう風の吹き回しかは知らないが、とにかくそれを まんまと逃してしまった迂闊さに、坂井は大きく溜息を付いてアスファルトに寝転んだ。真っ青な空の青さが目に焼きつ いた。 それを褥にとにかく体が落ち着くまではじっとしているしかないのだと、苦笑いで目を閉じた。 終 |