バイクを止め、改めて空を見上げると真冬の空は透けるような青で目を貫いた。 その中に転々と半分青に飲み込まれながら流れるわた飴のような雲を目で追い、不意に落ち着いた先に陸に落ちた 雲を見つけてぎょっとした。 下村が、こちらに背を向けて立っている。 雲と見間違えたのは真っ白いシャツのそれだった。 この寒空に、シャツ一枚。その上裾はばたばたと風に靡いて忙しない。真冬の服装ではなかった。 近寄るとただ突っ立っていると思っていた下村は、酷くゆっくりとした歩調で散歩をしているのが分かった。ゆっくり、 ゆっくりとした歩みよりも、余程たなびくシャツの方が威勢がいい。 風音に気配が読み取りづらかったのか、下村はすぐ傍に寄るまでこちらには気がつかなかった。 「お前の手は、もう魚が食っちまってる。探しても無駄さ」 声に振り向いた下村が、少し笑ったように見えた。顔は酷い有様で、表情は良く分からない。 一度死に掛けた男は、まるでアレは冗談だったのだというように軽い口調で、痛みは大分楽なのだと言った。 それがどうにもいたたまれず、無言で煙草を口に突っ込んでやった。強がりの様なセリフは、今は聞きたくなかった。 ゆっくり、ゆっくり、下村が岸壁を歩く。その後を子鴨の様について歩いた。 あの時、気付くべきだった。 カウンター越しに見せた、小さな笑い。 別れ際、わき腹に触れたその拳に。 初めからわかっていた事だったじゃないか。 そうだ。初めから分かっていた。 信じられないくらいに無謀。 突き抜けて無鉄砲。 無常な拳を振り上げる男。 選んで無茶を厭わない。 人を殴るということは、思っているよりもずっと重い。あるいは躊躇なく相手を殴ることは出来ても、ためらいなく骨を 折ることが出来るのは稀だ。それが出来るということは、日常的にそれを成していた者でなくては叶わない。 それが出来る男だと、直ぐに分かった。 そして、それに返るリスクの重さを既に知っている男だと。 分かっていながら、どこか目を逸らした。真正面からその姿をその顔を、その目を捉えることにあがなった。 目の前を歩く下村の足取りは、死に掛けた割には確かで、普段に比べれば心もとない。ふらりと突き出される足先 が、今にも岸壁から外れて転落するのではないかと、何度か本気で危ぶんだ。それでも下村はお構いなく散歩を続け る。たまに海に目をやり、思い出したように一寸こちらを振り返りながら。そのたびに少しだけ眇める目には、不思議そ うな色が浮かんだ。 黙って付いて歩く、犬でも見るような目だった。 短くもない岸壁の端から端を何度も往復しながら、何度でもその背を目に焼き付ける。 空の青、海の青。間に漂う白い背中を、飽かず眺めて焼き付けた。 色素の薄い茶色い髪、風に煽られて覗いた首筋の白さ、筋肉だけの薄い肩、先のない左腕、覚束ない足、素足に 靴。 何もかも、何もかもが酷く現実から浮かび上がって乖離し、今にも泣き出しそうな痛みを胸に覚えて戸惑った。 不安なんだ。心配なんだ。今にもお前がどこかへ飛んでいっちまいそうで。 言葉にすればなんとも陳腐な響きだろうと思いながら、それでもこの痛みは違わずそうであるとの自覚はあった。 叶から話を聞いた瞬間、全身の血が足元へ一気に降りた。考えるより先に体は動いていた。 その時にはもう、逃げ切れない事実は目の前に突き出されていたのだ。 やりきれない焦燥やこの身を突き動かす無言の慟哭を思い出し、今すぐにでも叫び出しそうな不安定な感情を甦らせ る。 出来ることならば、今すぐにでもその体を引き寄せて抱きしめてしまいたかった。 最早飛び立つことの出来ぬよう、この腕の中に縫いとめることが出来るのならば。 紺碧にぽつりと浮かび上がった酷薄な男の背中に、はぐれた天使の翼を見た気がした。 終 |