fellow 11



















 案の定上階へ続く階段を慎重に昇った。
 あの男たちが動いたのは誰かの指示があったからに違いないが、それが直接ここで下されたものか、あるいは遠方
から電話での指示であったのか分からない以上、上階に誰かが居る可能性は十分にあり、下村が忠告したように思っ
た人数よりも更に増えている可能性もまた十分にある。
 坂井は体を捻る度に起こる疼痛を、細い吐息でやり過ごしながら気配を殺して柱に背を押し付けた。
 外から見た限りではそれほど広い建物ではなかった。部屋数も多くて二つ程度のはずである。狭い廊下の壁に背中
を押し付け、窓から外の様子を窺い先へ進む。相手の動きを確認できないのはもどかしいが、急いては事を仕損じる。
 二度目はない。
 そして時間もない。
 いかに短時間でここから抜け出すかを、今は最優先に考えなくてはならなかった。
 神経を張り詰めて相手の気配を探る。壁の向こう、部屋の中、入り口、外。しかしいっこうに人の気配は読取れない。
幾ら耳を澄ませたところで、シンとした空気の中には遠くで鳴く鳥の声しか混じらず、幸いな可能性が首をもたげて坂井
は思わずその場にずるずるとへたり込みそうになった。しかし時間は差し迫っている。呼吸すら痛みの元にしかならな
い体を叱咤し、相手の素性の知れるものがないか部屋へ入り込みざっと辺りを見回した。
 証拠を残していくわけないとは思うが。
 テーブルの上には折れ曲がった雑誌や、食べかけのカップラーメン、スナック菓子が散乱している。中にはメモ用紙
のようなものもあッたが、他愛もない落書きが殆どだ。しかし中には何事かの意味を成す符号の書かれたものもあり、
とりあえず折ってポケットに突っ込んだ。放り出されていたジャケットを無断借用して羽織り、止血に使えるものないかキ
ッチンを覗いたが、日用用具も揃っていない。ここまでの足であるバイクは大分離れた場所に止めてあるので見つかっ
ているとは思えないが、とにかく取りに行っている間に他の連中が戻る可能性がある以上、下村を動かすしかないのだ
ったが、どうにも気が進まない。暫し考えるがやはりそれしか方法が思いつかず、仕方がないと振り向こうとした時だっ
た。
「動くな」
 全く気配を感じなかった。キッチンの勝手口に今では明らかな人の気配を感じる。エモノは分からないが、明らかに脅
威として脅しに使えるものは限られている。
 銃か、ナイフか。
「そのままテーブルに手をつきな」
 言われるまま、キッチンを出てテーブルに手をつく。男は酷く静かな物腰で後ろへ迫った。
「何をしていた」
 首筋に冷やりとした感触が当たった。ナイフか。刃渡りは短いようだったが、首を掻っ切るのに必要最低限の長さは
備わっている。坂井は顎を上げてごくりと喉を鳴らした。
「何をしていた、と聞いている」
 相手の声だけから表情を判断するのは、そう難しいことではない。困惑か、戸惑いか。連絡が行き渡っていないの
だ。咄嗟に思い浮かんだ。なんという無計画さだと呆れ返って言葉もない。先ほどの二人にしても、手際の悪さは隠しよ
うもなかった。
 まあ、お陰で大助かりだったのだが。
「・・・男を捜している」
 慎重に言葉を選ぶ。答えようによっては不利有利が大きく傾く。地下で寝ている二人の事を知られるのはまずい。
「ここに居た奴らはどうした」
「それは俺が聞きたい」
 男は考える様に沈黙した。あわよくば既にここから出て行った後だと判断してくれればいい。そうすれば少なくとも下
村の安全は確保される。
 坂井は大きく息を吐いた。胸が鈍く痛む。だが血は吐いていない。だから大丈夫だ。
「よし・・・そのまま部屋を出ろ」
 チリリと痛みが走り、首筋に食い込んだナイフが皮膚を裂いたのが分かった。血は暖かな流れをつくり喉元を伝って
借り物のジャケットにシミを作っていることだろう。
 頭の中でフルスピードで考えをめぐらせながらゆっくりと歩みを進める。敷居を跨いで廊下へ出ると、男もそのままつ
いてきた。
 そこで坂井は一瞬息を飲み、刃先とは反対方向に体を倒して思い切り体を沈み込ませた。
「なっ?!」
 男が顔面に下村の蹴りを喰らったのは、次の瞬間だった。
 地下に眠る男たち同様、何があったのか分からなかったに違いない。男はもんどり打って部屋へ逆戻りし、テーブル
に激しく体を打ち付けるとそのまま前に倒れこんだ。少し遅れて坂井の血のついたナイフが甲高い音を立てて下村の
足元に転がった。
 下村は少しだけ口元を歪め、廊下の壁を頼りに立っていた。
「・・・下村」
「油断するなと言ったはずだが」
 呼吸が速い。話すにも何度か歯を食いしばって眩暈をやり過ごしている。血のシミは太ももの辺りまで大仰しく広が
り、素肌を伝って靴まで赤く染めている。地下へ続く道筋には、まるで道標のように転々と血の跡が残っていた。この失
血寸前の体のどこから、あれほどの凄まじい蹴りを放ったのかと少しばかり呆然とし、しかしはっとして坂井は無言で下
村を横から抱きかかえて体を支えた。
「俺も動くなと言っただろう」
「こらえ性がないんだよ」
「言ってろ」
 血の気の引いた顔に、今度は明らかに笑いと取れる表情が浮かんでいる。しかし貧血で焦点が上手く合わないの
か、何度も確かめるように瞬きを繰り返している。
「・・・どうして来たんだ」
 早々にここから移動しようと歩き始めた坂井の肩に腕を回しながら、耳元で囁くように下村が言った。思ったよりも声
はハッキリしているが力ない。坂井は不安になって足を止めると、下村の顔を覗き込んだ。
「おい、大丈夫か」
「どうして来た」
「どうしてって・・・。理由がなくちゃ、来たらいけないとでもいうのかよ?」
「・・・・・・」
「こんなんじゃお前、ここから一人で抜け出せねぇだろうが!それとも一人で――」
「余計なお世話だ!」
 突然声を荒げた下村に驚き、坂井は言葉を詰まらせた。途端に激しく咳き込んだ下村の肩が大きく揺れる。肩に回し
た腕は、今にも力が抜けそうにずるりと滑った。
 あまりの物言いに絶句する。ふいにいつか岸壁で聞いた下村の声が脳裏に蘇った。酷薄に坂井を拒む深く沈んだ下
村の声。近づくことさえ許されない、差し伸べた手をにべもなく拒絶される絶望感が胸を突いて呼吸を止めた。

 俺は近寄ることさえ許されないのか。

 絶望は瞬時に怒りに姿を変え、行き場のない激情が渦巻き、場もわきまえず怒鳴り返した。
「俺には、心配する権利もねぇって言いたいのか!お前、こんな怪我してるくせに!」
 何故
 どうして
 ほんの些細な関わりを、望むことさえ罪なのか。
 いったいどうすれば俺はお前の傍へ行けるのだ。
 今まで感情の奥底に自ら沈めていた様々な感情が、一度に形や言葉を綴って胸に渦巻いた。
 しかし次に発せられた下村の一言に、獣じみた熱はスルリと手から滑り落ちた。
「俺はどうでもいい!てめぇが怪我してるのが、気にいらねぇんだよ!この馬鹿!」
 胸の中の激情が、ぴたりと止むのが分かった。代わりに上手く理解できない現状がぐるぐると回りだす。
 下村の言葉が良く分からない。
「・・・なんで」
「俺がドジ踏まなけりゃ、お前に迷惑かからなかったろうが。・・・冗談じゃねぇ、あいつら。腕の一本じゃ済まされねぇぞ」
 立ち止まってさえも呼吸の乱れを正せないまま、苦しい息の下で下村は呟いた。わき腹に当てた布が赤く染まってい
る。はっとして坂井は下村を引きずりながら再び歩き出した。下村の頭が下がっている。意識が朦朧としているのだ。
「下村っ寝るなよ!」
「・・・雪山じゃねぇんだから・・・」
 こんな時まで何を。怒鳴りそうになる言葉は喉の奥で打ち消した。
 頭の中は酷く混乱していて考えが上手く纏まらない。
 言葉の意味は分かるのに、上手く心が飲み込めないのだ。どうしたって自分の望むような形にばかりなろうとする。
 都合のいい考えを打ち消そうと躍起になっていると、ふいに頭が切り替わった。入り口を出たところで、近づく排気音
に気づいたからだ。これ以上の人数を相手にしている時間はない。下村の意識はもうギリギリだ。出血が多すぎる。
 坂井は一瞬迷い、しかしすぐに腹を決めるとその場に下村を座らせた。もう殆ど意識のない下村の呼吸は峠を越え
て、既に弱々しいものに変わっている。少しの間だけその顔をじっと眺め、一度強く目を瞑ってから坂井は身を翻した。

 せめて最後まで、下村に触れさせるものか。
 
 玄関口に身を潜め外を窺う。ギリギリまで樹木に隠されていた車が、木々の間から姿を表した。ぬかるんだ道に車は
酷く動きずらそうに身を震わせている。
 その姿を見た時、坂井は膝から力が抜けそうになって改めて足を踏ん張らなくてはならなかった。
「宇野さん・・・」
 シトロエンはよっこらしょ、と言うように車体を玄関先にぴたりとつけた。
 





 地下室に転がっていた男たちの四肢が、くまなく綺麗に折られていたと聞いたのは、随分後になってからだった。

























2003/02/27