坂井の機嫌の悪さに気が付いたのは、店を閉めた後だった。 多分、その前から機嫌が悪かったのだろう。それでも公私混同せずにどうにか閉店まではいつもと変わらない顔で居 たことは、誉めてやってもいいと思う。 でもだからと言って、訳も分からずこんな風にされる謂れは無い。 下村は背中を強く玄関先の壁に押し付けられながら、憮然と顔を顰めた。 「なんなんだよ、一体」 こんなことをされる理由が分からない。 入るなり押し付けられたせいで、部屋の明かりをつける暇さえなく、暗闇に表情は分からない。向こうもそれは同じこ とだろうが、知ったことではなかった。 「坂井」 両手首を耳の横辺りで縫いとめられ、まるで標本の蝶の様だ。下村は自然と顰められ眉間の辺りを気にしながら目 を瞬いた。 何の反応も無い、何の答えも無い坂井は最近では珍しい。普段は煩いくらいにこちらにかまってくる男が沈黙を唯じ っと守っているのは不気味な気がしたが、それでもこちらか譲歩してやる気は全く無い。 下村は大きく息を付くと、掴まれた腕の力を抜いてぐるりと視線を暗闇に巡らせた。 漸く落ち着き始めた目が、段々と闇に慣れて視界を拓かせる。白く薄ぼんやりと浮かんだ天井や、奥から届く申し訳 ないくらいに少ない光が足元を照らしていた。その中で夜を纏ったまま、坂井はまんじりともせずに居る。 やはり不自然なその様子に、下村は苛立った。 「坂井」 再度、今度は苛立ちを込めて名前を呼ぶ。するとピクリとその肩が揺れたのが分かった。 それは、不穏な予感を孕みながら。 しまった。しくじった。 今更思っても遅かった。 舌打ちの漏れるはずだった口元は、乱暴な所作で塞がれた。 「っつ・・・ん」 吸い上げられた舌を噛まれ、声が漏れる。痛みより余程に厄介な感覚に、下村は足が震えそうになるのをどうにか堪 え、ぎゅうと目を瞑り押さえつけられたままの腕に力を込めた。それでも全力で伸し掛かられれば手も足も出るはずが 無く、二人分の体重を受けた膝がガクガクと震えそうになるのを堪えるので精一杯だった。 その間も坂井は身動きすることを許さない激しさで、体を押し付けてくる。強引に割られた足に坂井の体が割り込んで も、最早どうすることも出来なかった。 機嫌が悪いわけではない。これは怒りか。 息苦しい喉元で、呼吸をし損ねた気管が小さく鳴った。頭の中は混沌として、不意に眩暈がこめかみを貫く。 覚えの無い怒りに曝され、舌を、体を弄られるのか。 瞑ったハズの視界に、見ずとも分かる坂井の顔があった。 またお前は途方も無い勘違いや、理由の無い言掛かりで俺を責めるのか。 何時の間にか外された両腕は、だらりと体の横に放置され、何かを確かめようと躍起になる坂井の動きに揺らされ た。忙しない様子でシャツのボタンを外され、ズボンを開かれても抵抗する気も起きない。 「お前が」 喉元に直接吹き込むように、坂井が呟いた。犬歯が喉仏に触れて痛んだ。 「お前が、また、誰とどこへ行ってたかなんて・・・」 そのまま鎖骨をあまがみして、ゆっくりと開かれた胸元へ降りていく。それにピクリと顎を上げることで反応を返せば、 坂井は苛立った様に息を吐いた。 「俺のこと、どうでもいいなんて、そんなこと・・・」 混乱しているのはどちらも同じことだ。全く要領を得ない坂井の言い分に返事を返す謂れは無い。黙ったままだ。 「許さない。絶対に、許さない」 そこばかりをはっきりと言い切り、坂井は強く肌に吸い付いた。あちこちに跡を残すのを嫌う下村の反感をわざと買う 様に。 「なぁ、お前。どうすれば、どうすればそんな風じゃなくなるんだよ?なぁ、どうすれば、俺に・・・」 跡を残そうと押し付けられるたびに、その肌が冷たく濡れていることに気がついた。擦り付けるように寄せられる頬 が、差し込まれた僅かな街頭にチラリと光った。 溜め込んだ激情そのままに、坂井はぼたりと涙を落とした。 終 |