日常会話
(初級編)



















「…起きてたのか」
「ああ」
 リビングの床に転がったまま、坂井はうつ伏せて肘をつき、上半身を半端に起こして頭をがりがりと頭をかいた。汗ば
んだ額に貼りついた前髪が気持ち悪い。かき上げながら見上げた先には、下村が涼しい顔でソファに腰掛けていた。
 何時もは思う存分惰眠をむさぼっている時間帯である。頭はぼんやりとして考えが上手くまとまらない。
「どうした?」
「いや…別に…」
 判然とせず、坂井は目を逸らして呟いた。
 どうにもあんなことのあった次の日は、顔を合わせずらいと思ってしまう坂井である。
 しかし当の下村はそんな坂井の心情など知らぬ風にしらっとしている。それがどうにも気まずくて、坂井は起こした顔
を元に戻してうつ伏せた。
「まだ寝るのか?」
 それをどう取ったのか、下村がそんな風に話し掛けてくる。暫し放っておいてくれと思うものの、実際放って置かれれ
ば不愉快なことこの上ないのだが。
「いや…もう起きる」
 迷いを振り切って顔を上げると、もろに下村と目が合った。それにぎくりとして、坂井は咄嗟に目を逸らしていた。
 いつになっても慣れないこの感覚。いいかげん初めてのことではないし、そもそも照れるような間柄ではないのだ。そ
れなのにいつまでたってもこんな日の下村の顔を直視するのは恥ずかしくて仕方がない。
 自分でも滑稽に思うほど、最中の自分は余裕がない。触れる前までは結構自然に振舞えているのに、一度あの肌に
触れてしまうと、途端我を忘れて必死になってしまう。
 いくら初めてではなかろうと、三十路前の男だろうと関係ない。
 そんな自分をモロに見られている相手、それが思いを寄せている相手ならなおさらだ。
 惚れた相手と抱き合った次の日に、訳もなく照れて何が悪い。
 誰に責められているわけでも、否定されているわけでもないのだが、坂井は被害妄想ぶった頭で誰とも知れない相手
を罵った。
 お陰でソファの上では下村が、しらけた顔を盛大に歪めて不信がっていた。
「大丈夫か?お前」
「…ああ」
 今度こそ体を起こして、あぐらをかいて目元を擦った。中途半端に引っかかっていた肩のシャツを退けてシャワーでも
浴びようかと立ち上がる。そこで初めて下村が昨晩と同じ服装でいることに気がついた。
「お前…着替えは?」
 服装には事の他拘りのある男が、宵越しの服を皺も気にせず着ているのは坂井から見ても不自然だった。
 下村はその問には答えず、少しイヤそうな表情でプイッと顔を逸らした。
「?下村?」
 珍しく拗ねたような顔をするので、坂井は驚いて下村に近づいた。しかし下村はそれを見ると不快そうに顔を顰めて
少しでも坂井から離そうとするように、体をソファの端へずらしてしまう。坂井は訳も分からずムッとして、業と下村の直
ぐ横に腰掛けた。
「なんだよ」
 先程の気まずさなどどこへやら。問い詰めるように顔を覗き込む坂井に、やはり下村は嫌そうな顔しか見せようとせ
ず、幾ら男同士とは言え少しは甘い雰囲気があってもよさそうな場面に、そんな顔をされては立つ瀬が無い。理由を聞
こうにも、下村は向こうを向いてしまって答えようともしなかった。
「下村」
 それを咎めるように声を強める。それでも中々下村は顔をこちらに戻そうとはしなかったが、どうにか辛抱強く待って
いると根負けしたように息をつき、漸く坂井の方へ顔を戻した。
「・・・さっさとシャワー浴びて来いよ」
 言ったきり、また下村は黙ってしまった。
 一体どうしてこんなに不機嫌なのだろうかと、坂井は下村の言うことも聞かずに考える。
 昨晩はそう無理強いせずに上手くいった方だと思う。下村も特に抵抗はしていなかったハズだ。だからといって目覚
めてからこちらろくな会話もしていないのに、機嫌を損ねよう筈も無い。
 しかし事実下村は不愉快そうに眉を顰めて目を逸らしている。
 近づこうとした途端に不機嫌になった下村に、理由も分からず坂井は暫く煩悶した。
 そこでフト、普段なら思いも付かないような閃きで、坂井は目を見開いた。
 ・・・もしかして。
「腰、抜けちゃった?」
 瞬間、下を向いた下村の顔が真っ赤に染まった。それが問いに対する何よりの答えで、あまりの反応に坂井までつら
れて顔が赤くなり、どうにもやり切れない気分は先程まで感じていた恥ずかしさと同じなのだと思って坂井は初めて気が
付いた。
 いつも白けた様な、冷静な顔をしている下村が、本当は自分と同じくらいに恥ずかしかったり、照れたりしているという
ことに。
 無理に自然を装った風は、本当はそれを隠すための手段だったのだ。
「・・・それで、シャワーも浴びてないのか」
 どうにも信じられない様な気分を隠せず、覚えず気持ちは優しくなって、坂井は深く俯いたきり硬直してしまった下村
の肩を抱き寄せた。抵抗する気配を見せないのは昨夜と変わらない。その耳元に柔らかくくちづけて、囁いた。
「一緒に入るか?」
 次の瞬間、坂井は思い知った。
 下村の義手は凶器だ。既に生身を補填する為だけのそれではない。容易に板だってぶち抜くし、壁をへこませること
さえ可能な武器だ。
 しかし、それと並んで義手をつけていない左手首も、十分に凶器と成り得るのだという事に。
「・・・ってー」
 坂井は左の手首でしたたかに殴られ、ソファから見事に転げ落ちてはテーブルに背中をぶつけて声を上げた。
 見上げた先の下村は、肩をぷるぷると震わせ、その顔は先程のしおらしい雰囲気から一転、鬼の様な形相に変わっ
ていた。
「いい加減にしろっ!下らないこと言ってねぇで、さっさと風呂入れ!うざい!」
 そう言って、ごろりとソファに横になり、さっさと放置してあったタオルケットで全身を覆ってしまった。
 坂井は余りの下村の迫力に気圧されて何も言えないまま、呆然の体でその様を見ていた。が。押さえきれない気分
の高揚に自然と浮き足立って気持ちは弾んだ。
「なあ、なあ、そう言わずに一緒に風呂入ろうぜ?背中流してやるからさ」
 膝立ちでソファの縁まで擦りより、既にタオルケットの固まりになってしまった体を激しく揺り動かす。しかし下村はうん
ともすんとも答えようとはしない。
 それがあまりに普段の下村らしくなくて、余計に坂井を喜ばせた。
 動揺している。あの下村が。自分の事で。
「なあ・・・。たまには自惚れさせろよ」
 落とした声が、自然と本気を含んで揺れた。
 何時も自分ばかりが思っているようで、時々苦しくなる。同じように返って来ない事を知ってはいても、たまらなくなる
気持ちはなくならないのだ。
 ぴくりと下村の肩(の辺り)が揺れた。下村は鈍感だが無神経ではない。事の他本気の混じった坂井の声を聞き分け
たのか、耳を済ませ居ているのが布越しにも分かった。
「顔、見せろよ。下村」
 穏やかに言って、そっとタオルケットの端を避けた。抵抗はなかった。
 漸く覗かせた下村の顔は、まだ少しだけ赤いままで、それが遣り切れないほど坂井の胸を揺すぶった。
「・・・ごめん。そんなに酷くしたつもり無かったんだ。からかうつもりも。・・・悪かった」
 そんなつもりは無くても、からかった様に取られたかも知れない。
 坂井はしゅんとして俯いた。
 ただ、嬉しかっただけなのだ。
 何時も坂井に抱かれたところで、たいしたことなど無い風の下村が、不意に見せた動揺に、まるでヒミツを打ち明けら
れた子供の様に嬉しくなってしまっただけなのだ。
 そんなにまで体を痛めつけているなんて、思わなかった。
 だって、何時も平気な顔でいるものだから。
「・・・お前、いつもは俺の服装なんて気にしもしない癖に」
「え?」
 ぼそり、と下村が呟いたので坂井は慌てて目を上げた。下村は今にもタオルケットに引っ込んでしまいそうに、口元ま
でそれを引き上げている。
「急に言うから、びっくりして」
 ぼそぼそと続けた事実に、びっくりしたのは坂井の方だった。
 確かに今まで下村の服装なんてそうそう気にしてはいなかった。今日はたまたま目に入っただけなのだ。
 つまり今までも、こんなことがあったということだ。坂井が気が付かなかっただけで。
 いや、違う。そうじゃない。何時も気付かせなかったのは下村の方だ。
 坂井よりもずっと早くに起きて、いつも不自然でない風にきちんと服を身に着けていた。
 多分今日は、予想より早くに起きたことで、身繕いが間に合わなかったのだ。
「お前、すぐ気にするし・・・」
 布にくぐもった声が、まるで拗ねているように小さく切れる。おさまっていた顔の紅潮がまたぶり返したように下村の頬
を染めている。
「恥ずかしいから、頼むから止めてくれ」
 そう言って、下村はまたタオルケットに顔を隠してしまった。
 それがどうしようもなく愛しくて、坂井は思わず力いっぱい下村を抱きしめていた。
「下村。ずっと、隠してたのかよ?辛くないわけなかっただろ?」
 耳元に囁いても、答えは無かった。
 雄弁な無言の答えは、違わず肯定であると知って坂井は肩口の辺りに額を擦り付けた。
「なあ、下村?」
 その声が、余りにも甘えた風に上擦って、坂井は自分で少し恥ずかしく思いながら、それでも多分下村の方が今は羞
恥で悶死でもしかねないくらいなのだろうと思って、触れる手は離さなかった。
「下村、好きだよ?」
 それに、下村がまたピクリと反応した。
 それがまた可愛らしい素振りで坂井の気持ちを煽るので、どうしようもなく今すぐにでも抱きしめたいのに、下村はタ
オルケットの中なのだ。
 仕方がないのでそのままぎゅうっと抱きしめながら、何度も何度も顔や肩口、頭の辺りに布越しのくちづけを送る。そ
の度に下村は反応するのに、とうとう顔を見せてはくれなかった。
「・・・下村?」
 仕舞いには反応も見せなくなってしまった下村を訝って、そっと坂井は顔の辺りのタオルケットめくってみた。
 すると下村はいつの間にか小さな寝息を立てて、丸くなったまま眠ってしまっていた。
 無防備に眠るその顔が余りにも幼く、柔らかな吐息は穏やかで、坂井は本当に下村が無理を重ねていたのだと思っ
て胸を痛めた。
 そして同時に、これは少しくらいは自惚れてもいいのかもしれないと初めて思って、一人で空しく盛大に、照れた。
















 終













なんとなく「私を月まで連れてって?」の下村。
あ〜赤い顔した下村が見たい。
見たいったら、見たい。