「後はこの書類を提出すれば大丈夫だろう」 「はい。ありがとうございました」 そう言って下村はテーブルに広げられた書類の群れを、丁寧に一枚一枚確認しながらファイルに挟み込んだ。それを 何とはなしに眺めながら、宇野は同じくテーブルの上で待ち構えていた愛用のパイプを一つそっと取り上げ、何度か手 触りを楽しむように指に絡ませる。その間も下村は一心に書類を片しては鞄にしまいこんだ。 「しかしわざわざお前が来るほどのことでもないだろうが」 あっという間に綺麗になっていくテーブルを眺め、宇野が呟く。 下村は反射のようにふっと無心の視線を上げた。 「まさか。宇野さんの所に、他のヤツなんか来させられませんよ」 言い負かされて泣かされて、門前払いが関の山でしょう。そう言って、下村は口元だけで笑いを造ると無造作に鞄か ら手を引いた。 「おいおい、俺は一体どんな人間だ」 憤慨して宇野が言うと、やはり下村は楽しそうだった。 一仕事終えて、気分がいいのだろう。しかしどんなに機嫌が良かろうと、流石に放置された黒い水の入ったカップには 手を出そうとはしないのだが、不思議な事に下村は何時も初めの一口だけそのカップに口をつける。きちんと飲み込 み、なんとも言えない顔をする。はっきり言って、一度この事務所に来たものであれば、そんな無謀なことをするやつは 居ない。それなのに今更分かっていながら、何故か律儀に毎回同じ事を繰り返すのだった。 しかし宇野は下村のそういった良く分からないこだわりが嫌いではなかった。 「有能な弁護士さんですよ」 そう言われればまんざらでもなく、宇野はいい加減にしろ、と口先だけで反論した。下村にもそれは重々承知の上か、 笑って返すだけでそれ以上は何も言わなかった。 「じゃあ、申し訳ないですが後は・・・つっ」 「どうした?」 突然顔を歪めた下村が、咄嗟に鞄から手を引いた。どうしたのかと宇野が乗り出すと、下村の手元からはたちまち赤 い雫が滴った。 「切ったのか?」 「いえ・・・爪が」 「つめ?」 渋い顔のまま、下村が咄嗟に左手でポケットからハンカチを取り出そうとしているのを、宇野は無言で押し留め、テー ブルの下からティッシュの箱を取り出し差し出した。 「あ、すみません」 右手を制限されると、下村の動きは途端に鈍くなる。当たり前だ。元々左は無いに等しい。 それでも随分と器用な様子で左手で巻き込むようにちり紙を引き抜き、右手の指に当てた。見る見る白に赤いシミが 広がって行く。隙間から状態を確認しようとしているらしいのだが、どうにも上手くいかな様子で、下村はらしくなく小さく 舌打ちした。 「剥がれたのか?」 「多分・・・。半分くらい?」 宇野は思わず状態を想像して、顔を顰めた。しかし当の下村はとにかく状態が気になるだけで、痛みにはとんと無関 心な様子だ。ただじっと手元を眺めている。返ってこちらの方が痛いような気がしきて、宇野は立ち上がってデスクに近 づくと、暫くごそごそと引き出しをかき回し、取って返して下村の隣に腰掛けた。 「宇野さん?」 不思議そうに下村が隣を窺う。宇野は相変わらず不機嫌そうな顔は崩さないまま、それでも幾ばくかの配慮をその手 に漂わせながら下村の右手を掴んだ。 「見せてみろ」 留める暇も無いまま、案外強引な所作で右手を引かれて、下村は逆らう気もなくされるまま手を差し出した。指先にこ びりついた白いティッシュが、半ばまで赤く染まっている。かなり出血しているようだった。 「本当に半分か?」 「さあ・・・」 ぼんやりと無頓着な様子に、宇野は思わず溜息を漏らした。どうしてこう自分の体を厭わない輩が多いのかと、うんざ りする。中でも下村はトップクラスの無頓着さにランクインだ。 既に乾いた血で張り付いたちり紙が、返って傷を深めないように慎重に剥がしに掛かる。何をされても下村は逆らう 様子も見せないので、宇野は勝手に事を進める事にした。 指先から退けた紙の下には、やはり赤黒く曝された皮膚と、痛々しく浮いた爪があった。その浮き上がり方に半舜眩 暈を覚えて、宇野は息をのんだ。 「お前・・・爪伸ばしすぎてやしないか?」 他の指を見比べて、どうみても男にしては爪先が長すぎる。汚らしいほどではないが、如何にもどこかに引っ掛けそう な風体だ。それに下村はさぁ、どうですかね。と暢気な答えを返した。 「・・・分かった。ちょっと待ってろ」 どちらにしろ、このままにはしておけない。だからと言って、まさか桜内のところへまで行くような怪我でもない。 宇野は先程探し出した消毒液と鋏、爪切りを膝に乗せた。 「宇野さんって、いつもそんなの用意してるんですか?」 のほほんとした様相で、下村がそんなことを聞いてくる。もう少し痛がってもよさそうなものを。思いながらも、宇野は 律儀に受け答えをしてやる。 「ああ。ここに居る時間が長いんでな。大抵のものは揃ってる」 「ふーん・・・」 しかしその答えも本当は上の空だ。今は目の前の処置をどう進めるかに気がそがれる。それは下村にも分かってい るらしく、それ以上は大人しく黙った。 鋏の切っ先を、そっと剥がれた爪の先にあてる。本当は全部取り除かず、残った爪はボンドで貼り付けた方がいいの だろうが、流石にボンドはここには無い。余計な先の部分だけ切り取って、後は仮止めだけしてやろう。下村も子供で はないのだから、後は自分で何とかする。そう決め付けて、宇野は先の白い部分だけを器用に切り取っていく。その手 元を、下村はじいっと眺めている。 「・・・あまり手元をじっと見られると、遣り辛いんだが」 「あ、すみません」 そう言って、下村は今度はじいっと宇野の顔を見つめてきた。 宇野は溜息を付いた。 「それは余計に遣り難い」 「・・・すみません」 本当に申し訳無さそうな素振りで。 こんな風に下村は時々思いも寄らない素直さを見せて、宇野を困惑させる。 今も顔には出さないが、どうしたってその下村のどこかアンバランスな様子が宇野に座りの悪い気分にさせた。 冷静で沈着。礼儀正しく冷徹で何時もどこか醒めた目をした男。 無邪気や稚拙とは縁遠い様子の下村が、実のところ本当は一番幼いのではないかと思う時が宇野にはあった。 もちろんそれを表立って誰かに言ったことは無い。自分でさえ半信半疑だ。 しかし時折感じるこんな違和感が、下村の中にある未発達な感情の片鱗を覗かせるので、その度にどこか信じがた い気分で確信を深めてしまうのだ。 剥がれた爪を切り終えて、少し強めに絆創膏を貼り付ける。 「ありがとうございます・・・?」 「もう一寸、我慢しろ」 「宇野さん?」 既に処置を終えた手を離そうとしない宇野に、当然下村が不思議そうな顔をした。しかし宇野はそれさえも構わない 様子で下村の手を持ち直し、今度は鋏を爪きりに持ち替えて親指から順に爪を切り出した。 「う、宇野さん。いいですよ、そんなの」 「黙ってろ」 「でも・・・」 「また引っ掛けるぞ」 それきり黙ってしまった。脅し文句が効いたところを見ると、多少の痛覚はあったらしいとほっとして、どうしてそんな当 然の事でほっとしなければいけないのだと、なんだか自分自身に気まずい感じがした。 パチッパチッと小さな音が、黙ったままの二人の間に横たわった。こうして向かい合っている奇妙な沈黙が、それでも 重苦しくないのは、相手が下村だからだ。 不思議な男だ。相手に警戒感を与えない。 しかしそれも、相手を限ったことであるのは知っている。 大抵のチンピラや街のクズ共は、道の向こうから下村が歩いて来たら自ら避けて通るだろう。一見して暴力的な匂い の全くしない男が、その目を合わせただけで相手を射すくめる程の眼力を発揮するのを、宇野は何度も見てきた。 だが果たして、それが今目の前で大人しく爪を切らせている男と、同一人物であると一体誰が信じるだろうか。 どうにか手元も顔も見ないように、一生懸命目を泳がせてるこの幼い様子のこの男と。 宇野はなんだか可笑しくなって、咄嗟に吐息をかみ殺した。 しかし笑いの気配は悟られたらしく、書棚の方に目線を逃がしていた下村が、疑問の目を投げかけてきた。 「いや、後は先を磨くだけだから。もう少し我慢しろ」 「え?い、いいですよ。磨くなんて・・・」 「何を言ってるんだ。磨かないと、爪は割れやすいままなんだぞ。一手間を惜しんでまた剥がしたら、それこそ馬鹿だ」 「はあ・・・。助かります」 なんと言っていいやら、困惑した様子の下村を放って、宇野は丁寧に、傷に響かない程度の力で磨いていく。 いつの間にかまた下村がじいっと手元を見つめていたが、最早宇野も何も言わなかった。 多分こんなところが、気になって仕方がないのだ。 ヤスリを小刻みに動かしながら、宇野はぼんやりとそんなことを思った。 気付いてはいても、言う気はない。 本人も気付いているかは、怪しいところだ。 終 分かってくださると、嬉しいのですが・・・。 |