やさしい手をもって





















 頬を撫でられる感触で目が覚めた。
 ゆっくりと開いた視線の先は、眩いばかりの光の洪水だ。
 網膜は驚いて上手く目を開くことが出来ず、細く開いたばかりの目はたちまちに閉じてしまう。
 それでも頬に触れる冷ややかな感触は、途切れることなく繰り返される。
 それにどうにか励まされて目を開こうとするのだが、どうやっても上手くいかなかった。
「いいから。目、閉じてろよ」
 光の辛さを慮って、小さな囁きが降りかかる。そのあまりの心地よさにうっとりとし、下村は大きく息を吐いた。
 その間も絶えず頬に触れるのは、坂井の指だ。
 頬の輪郭を取り、柔らかな皮膚を少しだけ楽しむように押したりする。
 まるで何かを確かめるように繰り返される動作に、自然と口元は微笑を模った。
「だからカーテン付けろって・・・」
 皆まで言わずとも、坂井の言いたいことは分かった。
 何時まで経っても窓にカーテンを引こうとしない自分に、ある日堪り兼ねたように坂井が言ったのだ。
 何故カーテンをつけないのか?
 どうにか折り合いをつけて過ごす忙しい日常に必死で、カーテンを購入することもままならなかった会社員時代。
 明日は、週末は、来月はと思ううちに、そのままどうでもよくなった。
 そのままその習慣が残されているだけで、特別な意味などあるはずもない。
 それなのに、坂井は何か特別な理由があってのことだと思い込み、なかなか言い出せずに居たようだった。

 でも、この街に来てから、理由が出来た。
 
 お前の顔、見えなくなるから。

 喉から漏れた声は、自分でもぎょっとするほど擦れていた。多分擦れすぎて、言葉は坂井まで届かなかったろう。
 聞こえても、獣の唸り程度だ。
 慣れないことはするものじゃない。慣れないことは言うものじゃない。
 気遣わずに震わせた喉が、カサカサと痛んだ。
「なんか飲むか?」
 頬に触れていた手が、喉の辺りまで降りて来る。そのまま手のひらで守る様に包み込まれて、その柔らかさに少しだ
け痛みが和らいだ。
「ん・・・」
「待ってろ」
 ぎしりとベットのスプリングが鋭く軋んだ。それと同時に触れていた手が離れていく。それだけで途端に何か寒いような
気分になって、急に心もとなく手元の毛布をかき寄せた。

 体中のあちこちが軋んで痛い。どうやら熱がある頭はぼんやりとしてハッキリせず、喉は嗄れて酷い有様だ。
 目を開けようにも、多分眩しいというよりは目蓋が重くて上がらないのだ。

 表から今の自分を見たら、本当に随分な恰好だろうと想像してげんなりする。こんなところまで見せなくてはいけない
のかと思うと、後悔が無いわけではない。

 けれど。それでも。結局は。

「持って来たぞ。・・・起きれるか?」
「ん・・・」
 声を出すのも辛い。首だけで頷いて体を起こそうとするのだが、どうしても上手く力が入らない。終いには左手の事を
忘れて、前のめりに倒れてしまった。
「あっ・・・。おい、大丈夫か?」
「ああ」
 果たしてこの状態が「大丈夫」な状態であるのかは自分でも大いに疑問だったが、声から読み取った坂井の不安に
反応して、言葉は勝手に否定した。
 毛布越しに、そっと肩を撫でられる。大きな感触が心地よいのは変わらない。
「ああ、そうだ。ほら、これだけでも・・・」
 そう言って、唇に冷たい感触が不意に触れた。
 すべらかな表面が、不用意に上がった唇の温度をひんやりと和らげる。
「氷。これなら」
 そう言って、するりと唇を通った塊が、じんわりと潤って喉を癒す。
 しっとりと濡れた喉が、やっと一心地ついたように言葉を震わせた。
「サンキュ・・・」
 それでも声の擦れは隠せない。
 見えない視界の先で、坂井が軽く息を呑むのが分かった。
「ごめん・・・喉。それに、熱も出てる」
 頬に再度触れた坂井の手は、水滴で滴るように冷たく優しかった。

 大丈夫だ。大丈夫だよ。大した事じゃない。

 言っても良かった。言った方が良かった。
 でも今は、このまま、少しだけこの時間を引き伸ばしたいから。
 もう少しだけ、お前の手が優しいことは黙っていよう。
















 終














初めての朝の話。version2。