グルグルと目の前で包帯に巻かれていく自分の腕を見ながら、ぼんやりとその時の事を思い出していた。 ワンパターンなナリをした男たちに囲まれて、流石に刃物を出された時にはこの状況を危ぶんだ。素手であればある 程度切り抜けられる自信はあるが、多対一の状況で刃物を出されると分が悪い。無傷で済ませるには難しい。 それでも合理的に一人、一人と打ち倒しながら、中には腕のたつ相手もいて、喉元に切っ先を繰り出された瞬間、死 のイメージと同時に以前なら思わなかった事が頭に浮かんだ。 死ぬわけにはいかない。 咄嗟に左手で難を逃れ、手加減もせずに右腕で首筋を打った。下手をしたら死んだかもしれないが、知ったことでは ない。 「今夜の相手は手ごわかったか」 バチンと包帯止めで処置を終え、桜内は膿盆に突き刺したままだった煙草を再び口に突っ込んだ。そのままテーブル に足を上げて、大きく息を吐く。夜中にも関わらず珍しく酒は入っていないようだった。 「ええ。ヤバイと思った時には避け切れなかった」 「・・・珍しい」 呟いて、桜内は何度か首を回した。 「深くないし、直ぐくっつくが、場所が悪い。塞がるまでソレはつけるな」 そう言って、桜内は診察台に置かれた左手の義手を煙草で指した。 それに眉を寄せて、下村は口を尖らせた。 「それは、困るなぁ」 「お前が困ろうとなんだろうと俺の知ったことか。酷くなってもいいなら勝手にしろよ」 桜内は立ち上がると、にじる様に煙草をステンレスの膿盆に押し付けて火を止めた。 「ひでぇ医者」 「お前ほどじゃないさ」 鍵は閉めて行けよ。そう言って、桜内はさっさと診療所から出て行ってしまった。 その後姿を見送りながら、どうやらまた気に障るような事を言ってしまったかと思ってため息を吐いた。 桜内があからさまにこんな風に不快を表すのは珍しいことではなかった。しかし今までは一定の理由に関することに は慎重に口を閉ざしている感があったにも関わらず、このところやけにそういった配慮が足りない事が多い。 女と上手くいっていないのかと思わなくも無かったが、それとはまた少し違うような気もした。 「まあ、いいか・・・」 呟いて、灯りを消す。 桜内の言葉は謎掛けが多すぎて分からないことが多い。それでもこちらの言葉に対する明確な反応は明らかに不快 を伴っていた。 今まで幾度もこんな風に治療を施してもらってきた。その幾度かと今夜とが違っているとは思えない。敢えて言えば、 今夜は今までで一番ヤバかった。そして負傷の位置を選べなかった。それくらいのものだ。 傍らに投げ出していた上着を手に取ると、薄暗がりにあってもそれには拭えない血の跡がはっきりと残っているのが 見て取れた。 「それ」 坂井はそう言ったきりその後が続かず、口の中だけであやふやにむにゃむにゃと呟いた。 下村から電話があって、どうしても今夜は店に出られないと言う。体調でも悪いのかと問うのにどうにも歯切れが悪く て、ハッキリしない。坂井は歯痒くなって、会話も途中に電話を切り、際に聞こえた「来るな」という言葉もどこ吹く風と、 さっさと下村の家に向かっていた。 それで結局開口一番、出た言葉がそれだった。 「切られて。着けられねぇんだ」 下村は気まずそうに頭をわしわしとかき回し、常には無い忙しない様子で目を泳がせた。どうも自分の言葉の足りな さに煩悶しているらしいが、こちらとて良く分からないのは同じだ。 下村の左手首の先には、何も無い。 どうとでも取れるような下村の解説がもどかしい。 早い話、左手首ギリギリを切りつけられて、義手が着けられないと言いたいのだろうが、どうしてか下村が気まずそう に口を歪めている。何故か心持、目元が赤い。 この会話の中に、はたしてそんなに羞恥心をくすぐる話題があったろうか? そんなナリの下村を見て、訳が分からずどうにもいたたまれなくった坂井は口を噤んでしまう。すると益々下村が目元 を赤くした。 「お前、何をそんなに照れてんの・・・?」 このまま初心な学生のように玄関先で向き合っていても仕方が無い。坂井は取り合えず靴を脱ぎ捨て、下村の腕を 慎重に掴んでダイニングまで連れ戻す。その間も下村はどうにもやりきれないような表情でもじもじしていた。 「て、照れてなんかいねぇよっ」 途端に間近にある坂井の顔を睨んで来るのだが、そんなことを言っても、やはり下村の目元は赤かった。それが照 れていると言わずしてなんと言うのだ。全く説得力の欠片もないと言いたいのだが、様子のおかしい下村には言い辛 く、そんな顔をされてはこちらまで恥ずかしいような気がしてきて、坂井は誤魔化すために眉を顰めた。 「だから・・・左手着けられねぇから、店は休む。悪いが」 しかしお為ごかしの渋面を、俯いてしまった下村には悟られずに済みほっとする。まるで言い訳のような呟きを下村は 続けた。 「流石にこれで接客は出来ねぇし・・・」 それは大した理由ではない。客商売でそれを気にするのは奇異なことではないし、坂井もそう言われれば別に言及す ることでもない。 それなのに相変わらず、盛大に照れている下村を見ていると、どうにも違う部分に何かあるような気がして坂井は訝 った。 「なんか、隠してんのか」 何度か言いよどんで、でも決心して坂井はきっぱりと言った。下村がぎょっとして顔を上げる。先程より幾分増しにな った顔色は蛍光灯に白かった。 「別に・・・何も」 その割には泳いだ目が甚だしく裏切っている。とにかく坂井を直視しないようにしているのは明らかだった。 「・・・それと関係あるのか」 視線だけで、白く巻かれた包帯を指した。下村の顔が、ぎくりと固まる。図星を指されたのは一目瞭然だった。 下村はよく言えばマイペースで、悪く言えば配慮が足りない。こちらが心配しようと気にかけようと、意に返さないこと が多い。大概の場合は気付かずにそうしていることが多いらしいが、たまに気がついていながら、知らぬ振りをどうに か押し通そうとする幼稚さがどこかしらあった。そして今の下村は明らかにその後者だ。 唯でさえ気苦労の多い相手に、この上隠し事までされては目も当てられない。 「言えよ」 今更怪我をした事を慮っての不自然さで無いことは重々承知の上だ。それこそ下村にとって一切頓着しない部分だ からだ。自身の身の安全やそれに対する配慮が足りない。だからと言ってそれで今更気まずい顔をするとは思えない。 そこまで問詰められて流石の下村も自分の不自然さには気がついていたらしく、渋々といった感は拭えないものの、 割り切りよく口を開いた。 「だから、怪我してるから、店には出られないって言って・・・」 しかし相変わらず坂井の顔を見よともしない。それにむっとして、問詰める口調をきつくした。 「それだけで、何でそんな顔する必要があるよ?」 「だからそれは・・・」 それにしてもどうにも歯切れの悪さは否めない。まるでそこから先の事項を口に出すことを憚っているようだった。 憚る。下村にもそんな繊細な感情があったのかと、自分で思っておきながら坂井は少し驚いた。 「ヤラレそうになった時に・・・その・・・」 右手で頬の辺りを忙しなく擦り、どうにか何かを誤魔化そうとしているらしいが、ここで逃がすつもりは毛頭ない。 しかしそんな坂井の決意を、下村は全く違う方向性で裏切った。 「ヤバイと思った時に、お前の顔が浮かんだんだよ!悪いか!」 「・・・・・・は?」 思いっきり間抜けな顔を、下村はきっと睨んで目元を吊上げた。 「俺の顔って・・・なんでそれがそんなに恥ずかしいんだよ?」 眦を荒々しい怒気が彩っている下村の鮮やかな目元が、今にも感情の高ぶりに緩みそうで、なんだかこちらが悪いこ とでもしている様な気分になってくる。 「は、恥ずかしいだろ??お前!ど、土壇場でお前の顔なんてっ」 特別な相手でなければ、そんな時に思い浮かべたりなんか。 「って、ええ?!つまり俺ってお前の走馬灯のトップってこと?!」 「え、縁起でもねぇこと言うなボケ!」 ガツンと拳固で頭を張られて、坂井は蹲った。呻きを上げる暇も無い。 感情が高ぶって下村の方にも加減が無かった。 「だからっだから、来るなって言ったのにっ」 勝手に上がり込みやがって。憤慨している下村の顔は真っ赤だ。怒りなのか羞恥なのかは微妙なところだったが、ど ちらにしろ我を忘れている。 そんなこと、坂井を喜ばすだけなのだということさえも気付かない位に。 「そんなに、ヤバかったのか」 「・・・まあ、そんなでもないけど」 急に真剣な眼差しを受けて、下村が大人しく声を落とした。負け惜しみは忘れないが、後に引かないところが下村の いいところだ。 そっと下村の右腕を引く。下村は抵抗もなく屈み込んで坂井と視線を合わせた。 「俺は、役に立ったか?」 「え?」 「お前を引き止める役に、少しは立ったのか?」 「・・・坂井」 幾ら鈍感でも、坂井の言いたいことが分かったらしい。下村は折り曲げただけの膝を付き、完全に座り込んだ。 「本当は、お前が向こうに行っちまうのを引き止められれば、なんでもいいんだけどさ。やっぱりそれが俺なら、嬉しいと か思うだろ?」 向かいに座り込んだ下村の肩口に、額を預ける。痛む左側は避けた。 シャツの向こうから、温い下村の体温が伝わってくる。目を瞑れば、呼吸のリズムさえも手に取るようだ。 「ヤバいって思うだけでも、格段の進歩ではあるけどさ。お前、本当に自分にも手加減しねぇから・・・」 安堵で吐息が漏れた。そこで初めて、坂井は思うより自分が緊張していたことに気がついた。 下村は動かずにじっとしている。以前ならめんどくさそうに眉を顰めて突き放していたような場面でも、最近では諦め がついたのか坂井の好きにさせていることが多い。 それが返って坂井の不安を煽ることもあったが、取り合えず今は有難かった。 多分今自分は、相当に情けない顔をしている自信がある。 「でも、取り合えずお前がここに居れば、それでいいよ」 それ以上望んでも、下村からは得られない。下村も返すつもりは無いだろう。 どこまでものめりこんでしまいそうな自分を鼻先で笑って、でも本当は誰よりも真摯な目で下村は坂井を見た。 それが、下村の答えだと言うのなら。 少しは自惚れてもいいじゃないかと、自分に言ってやるのだ。 大丈夫、あの中にも少しは俺が居るはずだと。 下村が、細く息を吐くのが分かった。 「俺はな、坂井。今まであんまり死にたく無いと思った事が無いんだ。全然ないとは言わない。でも、やっぱりあんまり実 感が無いんだよな。きっと」 肩越しの振動が、端から下村の言葉に変換される。坂井は目を閉じてそれを聞いていた。 「だけど、あの時、俺は、咄嗟に思っちまった。死にたくないって。そしたらお前が暢気な顔でちらつきやがるから、頭来 てさ」 驚いて顔を上げる。かち合った下村の目は静かだった。 「手加減しなかったから、あいつ死んだかもしれねぇよ」 そう言って、下村は小さく笑った。物騒な内容はさて置いて、坂井はそれを呆然と見る。 下村がこんな風にきちんと自分の感情に意味を付けて言葉にして、坂井に説明している。 今までなら、簡単に誤魔化されて、かわされて、それで終わりだったはずの、この場面で。 尚も下村は、言葉を綴った。 それとも、お前の顔が思い浮かんだから、死にたくないと思ったのかな。 「ああ、もう完全にくっついてるな」 そう言って桜内はプチプチと糸に鋏を入れていく。 本当ならば自分で抜いてしまっても良かったのだが、以前それで散々嫌味を言われたのを思い出し、仕方なく下村は 桜内の診察台に座っていた。 「・・・少しは命が惜しくなったか?」 診察台より幾分低い位置にある椅子に座った桜内のつむじをぼんやりと眺めていた下村は、突然の問いにぱちくりと 目を瞬かせた。 「前から命は惜しいですよ。今更でなく」 「どうだか」 無駄口の間にも、桜内の手の動きはすべらかだ。あっという間に抜糸を済ませ、消毒液で血の跡を拭うと軟膏を塗り こんだ。 「塞がってるけど、汚したり、水に長時間濡らしたりはしないようにな。幾らお前が野蛮人でも傷が酷くなるぜ」 「分かってますよ」 拗ねたように答えても、桜内は「どうだか」というような表情を語外浮かべただけだった。 全く信用なんてありはしない。 「ま、ヤバイと思うだけの神経が通ったみたいで、安心だがね」 処置の道具を手早く片付けながら、口元から煙草を離さない。他の患者にそんな態度で接しているとは思わないが、 幾らなんでも気安すぎると下村は内心ハラハラした。 「なんだよ。煙草くらいでくたばるたまか」 こちらの胸を酌んだように言うので、下村は驚いて口を噤んだ。 「お前の言いたいことくらい、分かるって」 案外分かりやすいよ、お前は。そう言ってカラカラと笑われて、そんなことを言われたのは初めだと驚いた。 「あの時もお前、上の空で。一体誰のこと考えてたのかな」 振り向きざまににやりと笑う。あの夜の不機嫌さはそこかと思って下村は眉を下げた。 「桜内さん、臨床心理に向いてますよ」 「お前専門のな」 「よろしく、ドクター」 「こちらこそ」 プカリと天井は煙で満ちた。 終 少しは命を惜しがってくれよぅ。 敬ちゃん・・・。 |