フト鼻先を掠めた匂いに、坂井は顔を上げた。 甘やかで、でも何処か清々しい香りが辺りを満たしている。 普段余り通らない通りの奥の細道は、曲がりくねって分かりにくく、気晴らしの散歩に出かけた坂井には少々難解す ぎた。それでも知った道よりは気が楽なような気がして、結局は奥へ奥へと入り込み、今では全く分からない道筋に通 っている。 その途中、坂井はその匂いに気がついた。 途端に溢れかえるように遡った記憶が、その香りに誘発されてはまるでつい昨日のことのように思い浮かぶ。 嗅覚は正確に記憶の襞を刺激するのだと言っていた。 なるほど確かにこういうことなのかと坂井は一人頷いた。 「そりゃぁ、あれだ。金木犀だろ」 「きんもくせい?」 黄色くて、小さな花がたわわに実った枝ぶりを細かに語って聞かせた末に、下村はそう言った。 「秋口に咲く花だ。甘くて、柔らかな匂いだろ?」 「そう。小さいやつ」 「じゃあ、やっぱり金木犀だよ」 そう言って、下村はテーブルの上に開いた台帳の端に、ボールペンで「金木犀」と書いた。 その字をまじまじと眺めながら、花の名前など全く疎い坂井は、そうか、花なのだから名前位あっても当然なのだと思 って感心した。 それにしても下村はこういった事に色々と詳しい。雑学が趣味だと以前言っていたような気がするが、これも雑学に入 るのだろうか? 「俺なんかあの匂いを嗅ぐと、ああ秋だなって何時も思うよ」 あの香り、好きだな。 手元の帳簿を小さな字で記入しながら、下村はテーブルからは顔を上げずに呟いた。 穏やかな口調は終業したホールに低く響く。その静けさにうっとりしながら、坂井はずらずらと増えていく字面を無意 識に追っていた。 見る見るうちに書かれていく字を見るのは事の他楽しい。 匂いは記憶を召還する。 「お前さ、なんでそういうこと知ってんの?」 「そういうことって?」 きょとんとした様子で下村が顔を上げた。ペン先が止まって、小さな字の連なりはぱたりと途絶える。それをなんとなく 残念に思って「金木犀」の書かれた紙面を指した。 「匂いが、記憶を呼ぶとか」 「ああ、それか」 そう言って、下村はまたペン先に視線を戻した。 「知ってるっていうか、自分でそういうことがあったから、覚えてただけ。でも嗅覚は記憶の中枢を刺激する一番の要因 だとか何とか・・・」 言いながら、下村の関心は紙面に移ってしまった。早くこの台帳を付け終えなくては帰宅できない。時計はとっくに真 夜中を過ぎている。 「匂いで昔の事を思い出すっていうことか?」 「過去に体験した場面で印象に残った匂いにもう一度何処かで出会うと、自動的にその場面の記憶の引き出しが開い て思い浮かぶらしい」 例えば、夕飯の仕度の匂いとか。 そう言われて、ふーんと坂井は相槌を打った。 「魚を焼く匂いとか、なんかガキの頃のこと、思い出すかも」 「だろ?」 同意を得て、下村は口元だけでちらりと笑った。 それが、なんだか少し不思議な感じで坂井は首を傾げる。しかし下村はまた台帳付けの方へ気を遣ってしまって、坂 井のそんな様子には気付かなかった。 「お前は?」 「ん?」 「お前は、例えばどんな匂いに、どんなこと思い出したりするんだ?」 下村は余り自分の事を話さない。別段隠しているわけではないのだが、自分から進んで話す事でもないと思っている 節がある。 坂井にはそれがつまらないし、気に入らない。 相手の事をなんだって知りたくなってしまうのが、恋の必定じゃないのだろうか。 それでも下村が坂井の事に無関心というわけではないから、あまり気にしないようにはしているけれど。 「そうだな・・・」 右手の甲で顎を軽く擦る。きちんと考えて答えようとしているのが手に取るように分かる。坂井はそれだけで嬉しくなっ て、テーブルに乗り出すようにして答えを待った。 「・・・日向」 「ひなた?」 「ん」 言って、下村は坂井の方を見て笑った。それが少し恥ずかしそうで、坂井はどきりとする。 時々下村は、こんな風な顔をする。 ちょっと戸惑ったような、恥ずかしそうな、でも嬉しそうな。 そんな時坂井は隣に自分が居ることを、ちゃんと下村が分かってくれていると思ってもっともっと嬉しくなるのだ。 「日向の匂い?」 「ああ」 ぱちん、とペン先をしまって、下村が台帳を閉じた。最後まで書き終えて満足したように息を吐く。 テーブルの上を綺麗にする下村を手伝いながら顔を覗き込むと、下村ははい、と鍵を手渡してくるので受け取った。 「戸締りしていくから、車暖めておいてくれよ」 「分かった」 話の続きは帰ってからでもいいかと、坂井は施錠確認に行った下村の後姿を確認してから裏口に向かった。 「金木犀?」 「結構、香るだろ?」 そう言って下村は部屋に入るなり少し誇らしそうに窓を開け放した。 入り込む柔らかな秋口の風に、ひらりと甘やかな香りが混じる。そう言えば直下に金木犀の木があった。 「なあ、それで、何を思い出すんだ?」 先にさっぱりとシャワーを浴びた坂井が頭を拭っていると、続いて入っていた下村がリビングの入り口に顔を出した。 右手にはしっかりとビールが握られている。ポタポタと雫を落とす髪を、左手首だけで器用に拭いている。 待ち焦がれたように坂井が切り出すと、下村が首を傾げた。 「何が?」 「だからさっきの、記憶の引き出しの話」 「ああ」 坂井に缶を手渡しながら、隣に腰掛ける。真夜中は静かで、軋んだソファの音が響いた。 プシッと開いた栓の音が、心地よく疲労を癒す。下村も大抵のことは右手一本で器用にこなすが、ちょっと硬かったら しく、代わりに坂井が引いてやる。ありがとう、とちょっと缶を掲げた。 「日向に居ると、なんか思い出すからいつも窓際で寝てるのか?」 坂井が下村の部屋を訪ねると、大抵寝ていることが多い。それも寒かろうが暑かろうがお構いなしに、サンサンと太 陽の差し込む窓際で。 それを見る度に猫みたいだと思っていた坂井だが、どうやらそれにはきちんと理由があった様で、興味深い。 習慣的に少し間を空けて座った下村に、坂井は詰め寄るように近寄って体を引き寄せる。熱湯を含んだ肌は外気に 少し冷えた坂井の手にしっとりと馴染み、暖かな体温は香りを呼ぶように甘い匂いを纏っていた。 「あんまり考えてなかったけど。そうかもしれない」 首筋に鼻を擦り付けて香りを楽しむ坂井の悪戯を意に介した風もなく、下村はこくりと喉を鳴らしてビールを嚥下し た。 ちょっと考える素振りは、下村を酷く無防備に見せる。幼さが口元を掠めた。 それを横から楽しく眺めながら、まるで今気付いたと言う様な下村を不思議に思う。 相変わらず自分のことには余り関心が無いような風が、下村らしいと言えば下村らしい。それでも余りにも自分の価 値に無頓着な様は、坂井を時々不安にさせる。 あまりにも無頓着で、最後の一歩さえ気軽に踏み出してしまいそうで。 「坂井?」 はっとして気を戻すと、下村がこちらをじっと見ていた。 「あ・・・悪い。なんでもない」 そうか?と瞬く下村の目が少し細められる。柔らかな眼差しは、穏やかな空気に相応しい。間近で見る下村の目は、 澄んだ紅茶の様にまろやかに坂井を惹きつけた。 そんな様子に、下村が笑みを口元に浮かべた。 「お前」 「え?」 「日向に居ると、お前を思い出すよ」 「・・・俺?」 びっくりして、目を瞠る。 下村はゆっくりと指を伸ばして坂井の手を取った。 そのまま引き寄せ、くちづける。 「いつも、お前は日向の匂いがする」 言って、笑った。 ちょっと戸惑ったような、恥ずかしそうな、でも嬉しそうなあの笑いだった。 瞬間的に坂井は顔に熱が昇るのが分かった。見なくても真っ赤になっているはずだ。 こんな風に突飛に、明らかに無意識に下村は坂井を喜ばせる。 坂井は思わず貧血でも起こすのではないかと目が眩んだ。 日向の匂い。 自分の過去の事も何もかも、知った上で下村は平気でそう言うのだ。 その上、坂井を思い出すから日向が好きだと言う。 完敗だ。この男には。 全く敵わない。 坂井は無意識に額を押さえて熱を冷ましながら、繋いだままの手を急に意識した。 臆面もなく殺し文句を吐く男は、目の前で平然とビールを飲んでいる。 「下村」 ん?と振り返る。その頬に指で触れて先を促すと、下村は黙って缶をテーブルに置いた。 「お前、本当に・・・」 「なに」 不思議そうな目が、くるりとランプに光る。 部屋に満ちた金木犀が、ゆるりと琥珀の目と合間って耐え難く坂井を誘った。 「・・・最高」 沈み込むように深く微笑んだ口元に、甘い清冽な香りと共にくちづけた。 これからはきっと、この香りの度にお前を思うよ。 終 金木犀すき。 |