スコップ




















 バスルームから部屋へ戻ると、ベッドの縁に腰掛けて坂井がぼんやりと外を見ていた。
 こちらに向けた背中は裸のままだ。大分前にシャワーを浴びたというのに未だにそんな恰好で居ては流石に風邪を
引くのではないかと気にはなったが、何も言わずにタオルで髪を拭うふりをして目を逸らした。
 しっかりと筋肉ののった首から肩のラインや、浮き出た肩甲骨が呼吸に合わせて密かに何度か上下しているのが寸
前チラリと目の端に映る。
 声を漏らさない溜息は、もう一体何度目なのだろうか。
 一人で寝るには幾分大仰過ぎるベッドへ近づき、坂井とは背中合わせに腰掛けた。値は張るが質のいいベッドは二
人分の体重を受けたところでギシリとも言わず、シーツの擦れる微かな音だけが室内でたった一人だ。それが余計に
何か良くないものを際立たせているような気がして、自然と眉を顰めていた。
「・・・怒ってるか」
 ぽつり、と坂井が呟いた。声は遠い。きっと窓を見上げたままに違いない。
 それが少し気に入らなくて、顰められた眉間の皺は余計に深く刻まれた。
「下村」
 それでも声は遠い。こちらを向かない男に、何を返すことがあるかと知らずムキになっている自分にはっとした。
 穏やかなつもりでも、ささくれ立った気持ちは胸を痛める。それをどうしていいのか分からず、ゆっくりと瞬きを繰り返
し、しっかりと目を閉じて何度か呼吸を緩やかにしては心を静めた。
「下村」
 カサッとシーツか鳴った。少しだけ声が近づく。
「下村」
 ゆっくりと目を開いた。
 不意に横から現れた腕が、忽ちに体に巻きつき閉じ込めるように腕を絡めた。
 背中から与えられる体温が、包むように後ろから体を抱いた。
「下村」
「・・・なんだ」
 漸くの答えに、肩口に寄せられた坂井の吐息がほっと漏らされるのが分かった。
「・・・痛むか?」
 素肌のままの肩口を撫でられて、びくりと体が揺れた。青白い打撲跡をまともに触られたのでは流石に堪らない。
 しかし触れる傍からどこかしら痛むのはお互い様だ。まさに満身創痍に近い。一時間近い間休まず殴り合いを続けて
いたのだ。まるで途中から空手の立稽古といった風体だった。しかし終いには突き出す腕にも足にも力が入らず、しか
し的確な手腕は当たればそれなりに跡が残る。お互い顔を攻撃しなかったのは、腐っても客商売だからだ。崩れた様
相で店に出る訳にはいかない。つまり見た目はそれほどダメージの無い二人だが、服を剥がせばそれ相応にあざの残
るの体だった。
「分かってるなら触るな」
 ぴしゃりと締め出す言葉に、坂井の手が戸惑うように揺れたのが分かる。どうしてこいつはこんなに気を使うんだと、
一瞬カッとなりかけ、しかしそれを問うことの無意味さを思って気を静めた。
 後ろから抱きつかれ、首筋に吐息が触れる。巻きつく腕は力が込められとても無痛で抜け出すことは不可能だった。
 抜け出すことなど考えてもいないくせに。
 自嘲気味に考えて、目を伏せる。こうなる事を半ば予想してここに座ったのは自分の方だ。上の空でいる坂井の視線
を取り戻そうと、間の抜けた芝居を打ったのは自分では無かったか。
「どうした?」
 笑いの気配を鋭く嗅ぎ取った坂井が、穏やかに耳元に囁きかける。それでもどこか戸惑いや、遠慮を含んでいるの
は気にらなかったが、それも言い換えてしまえば、こういった関係にはつき物の甘やかで贅沢な苛立ちであることは自
覚している。
 何時だって結局は、甘えているのは自分の方なのだから。
「俺は一度も猫が死んだなんて言った覚えはないがな」
 喧嘩の最中に何度も持ち出した話題ではあったが、きちんと会話になった覚えは一度も無い。白熱した感情に言葉
など何の力もなかった。お互いの言葉を確かに聴いてはいたが、その意味まで理解していたかどうかは甚だ疑問だ。
 こうして落ち着いて話せば、やはり会話の内容は初めて聞くような気持ちになる。
「それは・・・でも、お前」
 そこで言葉を区切った坂井が、迷うように二の腕を何度も撫ぜる。時折あざの上を労わるように柔らかく触れた。
「あんな風だったから。てっきり・・・」
 もごもごと歯切れの悪い言い方に焦れそうになって、でも大概言いたいことは伝わった。坂井も自分の矛盾は早とち
りを十分に理解しているのだ。
 こうして冷静に話をすれば、事はこんなにもスムーズで穏やかなのに、何故あんな滑稽な羽目になったのか今からす
ると赤面の至りだ。まだまだ悟りには遠すぎると思って、この先の長い道のりを思って溜息が漏れそうになる。
 しかし悟りの話は別として、坂井は時折、驚くほど鋭い時がある。
 それも、こんな感情に所以する事に限って。
 もっと限定するのならば、自分の感情の陰りに対して。
 そう思うと、少しゾッとした。
 確かに自分はあの時弱っていた。
 預かっていた猫はいずれ返さなくてはならないことは分かっていた。いや、分かっていたから預かったのだ。ずっと飼
わなければいけない動物は飼えない。あまり深く考えずに始めは預かったのだが、途中で本質的な自分の性格に気が
付いてまずい、と思ったが遅かった。
 その時には既に、手放すのが辛くなっていた。
 犬のように何時も擦り寄って来たりはしないし、気まぐれに手を引掻かれたりも時々した。よく懐いていたとは言い難
い。猫は元々気まぐれなものだ。気の向いた時だけ近づいては餌を強請り、日中の大半は外へ出て返ってこなかっ
た。
 それでも。
 得がたく絶えず傍にあった気配が、不意に日常から消える恐怖を久方ぶりに思い出した。
 今までにもそういったことは何度かあった。
 思い起こせば一番古い記憶では、前の日まで一緒に遊んでいた鶏を、晩の夕食に供された。
 新しい記憶では、一度は結婚を考えた女に逃げられた。
 二つとも、簡単に思い出せる記憶であるはずなのに、何故かここの所思い出しもせず、嘗てそんな思いをしたことさえ
も忘れていた。
 今日には、明日には。猫を飼い主の手元へ返さなければならないと思いながら、ぼんやりとそのことを考え続けてい
た。
 歳と共に感情の鈍化が進むのはわかる。しかし健忘を起こすにまだ早いはずだ。
 それなのにいつの間にか失う痛みを忘れていた。
 何故。
 何度も繰り返しては思い起こす。あの時の痛み、怒り、絶望。どれをとっても容易に忘れることの出来ないはずの感
情。
 何故。
「下村?」
 まるであやす様な声色に、はっとして意識が戻った。いつの間にか自分の考えに没頭していたらしい。また坂井は誤
解して、怒っているとでも思ったらしく、気弱げに鼻を啜った。
 それが余りにも哀れな様子で頼りなく、いつもの凛然とした姿とはおよそ縁遠い様に、覆わず声を出して笑っていた。
「なんだよ・・・?なに笑ってんだ」
 それでもやはり声色は気弱げだ。怒っていない事は分かっても、先に手を出したことを未だに悔いている。
 そんな風に甘やかして、一体お前はどうしたいんだ?
 まるで必然の様に導き出された答えは、酷く傲慢で身勝手で、それでいて深く心を突き刺した。
 自分でも気付かないほど巧妙に、密やかに入り込んだ坂井の巧みさに恐れ入る。
 何時の間にか、傍に居ることが当たり前になっていた。坂井の居ない日常など、思いつきもしなくなっていた。
 急に笑ったり黙ったり、相当に坂井は不審に思っているに違い無かったが、今は全くそれ所ではなかった。
 最終的に自分を打ちのめしたのは、猫が居なくなるということではない。
 何時だって最後に何よりも有効に打ちのめすのは。
「坂井」
「何」
 上半身を強引にねじって坂井の方へ振り返った。そのせいで幾分体は離れてしまう。坂井にはそれが不満だったよう
で、巻きつけた腕に力を込めて、もっと深く抱きこもうとするので、対して力でもってそれを押し止めた。
「坂井」
 なんとか正面から坂井の目をじっと覗き込んだ。
 灯りの少ない部屋は、唯一月の光だけが頼りなのに、坂井はその月さえ背負ってこちらに表情を確かめさせようとし
ないから、少しだけ焦れて強引に体を引き剥がし立ち上がった。
「どうした」
 見上げてくる坂井の顔に、漸く月の光が射しかかって不審そうな表情が露になった。
 こちらをじっと見上げてくる目は、漆黒の闇だ。
 一瞬見惚れて、こんなことは言わなければいいのかと思う。今のままでも何も変わらない。言葉一つで何が変わる訳
もない。先の事を考えれば、言わない方が返っていいのかもしれない。
 たとえ坂井の事を思えば。
 それでもいつかは言わなければならない言葉だ。
 今この時の、この気持ちが本当ならば、言わなければそれは裏切りだ。
 誰に対してでもない。
 自分に対して。
「坂井」
「なんだ?」
 手を差し伸べる。そっと指先で触れた坂井の頬は、放って置かれて驚くほど冷たかった。
「好きだ」
 見つめた先の、坂井の目の中でゆらりと光が揺れた。
 表情は無い。瞠った目元が痛々しいほどに徐々に見開かれていく。
「好きだよ」
 繰り返す。
 猫じゃない。猫じゃないんだ。
 例えばこの身があの瞬間、あまりにも痛ましげであったというのなら、それは猫のせいではないんだ。
「お前が、好きだよ」
 失うことを思うだけで心の揺れる、あまりに頼りないこの身だけれど。
 それでもこの心が真実ならば、この気持ちを偽れない。
 お前を失うことを恐れた自分を笑いながら、確かにお前を好きだと言おう。
 たとえそれが、いずれお前を苦しめる時が来たとしても。



























 今度こそ本当に 













マジでラブ週間に入ってます。
下手すると月間の勢いです。
終いには年間計画です。
だって、何時でもラブが好き。