泡沫の虹




















 伸びやかに晴れ上がった紺碧の空に、ふんわりと柔らかな雲が浮かんでいる。
 それをなんとなくガラス越しに見上げながら、胡坐をかいた膝先にちらかしたままの工具を指先で弄んだ。
 健やかな秋の午後だった。
「よう、直ったか?」
 キッチンから顔を覗かせた下村の頬が少し赤いのは、風邪気味だからだ。
 それなのに本人はそんなことはとんと無関心な様子で、また床の上を裸足で歩いては足先を冷やしている。
 本当ならそんな様子を一から十まで言い聞かせたいところだが、言ったところで曖昧に誤魔化されて終わるのは目に
見えている。仕方なく見て見ぬ振りが坂井の出来る精一杯の抵抗だ。
「ん、まだ」
 床に広げた新聞紙の上に、バラバラになったラジオが置かれている。分解しているわけではない。正真正銘、直そう
としているのだ。
 それなのに近寄った下村は、あからさまに嫌な顔をして隣にしゃがみ込んだ。
「まだって言うか・・・それは、まだっていうレベルなのか?」
 疑いというよりは心配気な下村の様子に、つい縋るような目をしてしまったらしい。どうやら見透かされた様で、今度は
意味合いの違う嫌な顔をした。
「・・・もうすぐ飯出来るぜ」
「ん」
 それでも自分が出来ない事を坂井に任せている負い目があるのかそれ以上は言及せず、それきり立ち上がって下
村はキッチンヘもどってしまった。その背中を何となく名残惜しく思いながら、坂井は取り合えず手元だけでも片付けよ
うと思うのだが、これはどうも上手くないと冷や汗が出る。冗談でなく先程の下村の言葉が的中しそうな予感だった。
「なあ、テレビ買わないのか?」
 下村がこの街に住むようになって随分と経つが、何時になっても下村の部屋は殺風景なまま、家具の増える気配もな
い。必要最低限の用具や衣服はきちんと揃っているのに、娯楽や嗜好に関するものが殆どなく、辛うじて今ある物も、
坂井が持ち込んだものばかりで下村が買い入れたものなど、このラジカセぐらいのものだった。
「別に、必要ねぇからなあ・・・」
 テーブルに広げられた、昼食にしてはきちんとした和食を口に放り込みながら、もごもごと下村が言葉を濁した。
 何気ないその一言に、途端に坂井はチクリと胸が痛むのを感じていた。
『必要ない』
 下村はすぐにそう言う。
 下村にとって全ての判断材料は「必要か」「必要でないか」それだけだ。
 だから坂井は本当は何時だってこんな風に不意に下村の言葉一つで不安にさせられる。
『必要ないから』
 そう言って、あっさり下村が自分から去るのではないか。
 あるいはこの街から。
 あるいは・・・
「坂井?」
 不思議そうに覗き込んでくる下村の声にはっとする。
「あ・・・なんでもねぇ」
 焦って箸を運んだ。下村の顔が不審に曇るのが分かっても、こんな時は上手くフォローできなくて、結局はこんな風に
誤魔化すことしか出来ないのだと思い、ああこれでは下村と同じではないか、すれ違いだと思いただ漫然と気分が重く
なるのだった。
「そんなにラジオ酷いのか?」
 そんな見当外れの心配に、酷いのはお前だ、いつだってこんな気分にさせるのはお前だけだと思って、なんて独りよ
がりだと余計に気分が重くなる。
 下村が馬鹿なのか、自分がアホなのか。どちらにしろ救いは少ないと思って、坂井は小さく息を吐いた。
「坂井?」
 かたんと箸を置いて、不意に下村が手を伸ばしてきた。右手。温かい感触が頬に触れた。
「具合でも悪いのか?」
 食事中にあまり話をしない下村に対して、坂井は饒舌に上手に食事をする。下村が感心していつだったか、お前は話
す口と食べる口が別なんだなと言った事があった。
 その坂井があんまりにも静かなものだから、流石にぼんやりな下村でもおかしく思ったのか、訝っている。
「いや、大丈夫だ」
 触れる手をやんわり退けながら笑って見せても、下村の表情は晴れなかった。
「・・・またなんか考えてんのか」
 ぎょっとして顔を上げる。いつも上の空のような目が、今はじっとこちらを見つめていた。
「お前はちょっと考えすぎだ」
 そう言って一つ息を吐いた。
「こっち来な、坂井」
「え?」
「いいから」
 有無を言わせない言葉に、坂井は咄嗟に腰が浮いていた。
 膝をついたまま、這いずって隣へ座る。ラグの上に直に座り込んだ足が触れた。
「言ってみな」
「下村?」
「今考えてたこと、言ってみな」
「・・・・・・」
 坂井は思わず言い淀み、俯いた。
 びっくりした。
 何時だって好きなのは坂井ばかりで、下村は滅多に感情に由来する事を言ったり、したりしない。
 そういう関係になった後も、下村が何を考えているのか坂井にはさっぱり分からなかったし、下村も坂井が何を考えて
いるのかなど、興味がないとばかり思っていた。
 そうなるにつれ自分ばかりが傾倒して、自身でも少しまずいかもしれないと思ったりもしていた。
 だからこんな風にいきなり語りかけられると、今更何をどこからどこまでどう言っていいのか、見当もつかなくなってし
まうのだ。
「坂井」
 そっと、米神の辺りに柔らかなものが触れた。驚いて顔を上げる。思ったより間近にある下村の顔に、今触れたのが
その唇であることは容易に想像できた。
「俺はカンが悪い。ちゃんと言ってくれないと、分からない」
「下村・・・」
 信じられない気持ちで、坂井は下村を見上げる。合わせた先のその目は驚くほど穏やかに坂井を見返した。
「必要ないって、お前いつか俺を置いて何処かへ行くかも知れないって、思ってた」
 目を瞠った下村の頬に、そっと触れた。情けない事に指先が震える。何故自分がこんなに動揺しているのか分からな
いまま、坂井は両手で下村の顔を包み込み、伸び上がる勢いのまま抱え込んで胸に引き寄せた。
「俺ばっかりがお前を好きで、お前はきっと簡単に行っちまう。そんなこと考えてた」
「・・・坂井」
 胸元で下村が小さく身じろいだ。暖かな吐息が布越しに触れる。それだけで胸をときめかせる自分が、坂井は可笑し
かった。
「お前が俺のこと、必要なくなっても、俺はお前をきっとずっと好きなままだ」
 それが少し、辛い。もうずっと分かっていたことだけれど。
 下村は動かず、じっとしたままだ。それが切なく、泣きそうな気持ちは治まらない。
 こうしてただ静かに下村がこの手の中に納まっていることさえ、明日はもうどうなっているか分からない。もう明日に
は、下村は何処かへ行ってしまうかもしれない。
「坂井・・・」
 そっと胸を押されて、抱えていたその頭を解放した。力を抜いた手が、ぱたりと落ちる。ゆっくりと下村は体を起こし、
伏せていた目元をそっと上げた。
「変わらないものなんて、あり得ない」
 合わせた視線は、揺るがない。言葉の真意を探ろうと覗き込んだ下村の目は、澱みない湖の様に澄んで坂井の目を
見返した。
「でも、それでもその一瞬に感じた気持ちは本当だ」
 差し込んだ光がじんわりと足元を照らす。伝わる暖かさが足先を溶かしていく。
「それに俺は、別にお前が必要なわけじゃない」
 びくりと坂井の肩が揺れて、あまりの正直さに下村は驚いて、それでもそっと微笑んだ。
「必要なんかなくたって、お前と居たいから一緒に居る。・・・お前はそうじゃないのか?」
「お、俺だってっ」
 焦って坂井は詰め寄った。それに下村は穏やかな笑いを更に深めて頷いた。
「知ってる。だから、そんなに不安がるなよ。俺はお前の傍に居る。少なくとも、今は」
「ん・・・」
 ぎゅうと坂井は下村を引き寄せ、抱きしめた。やはり下村はじっとして、力を抜いたまま体を預けている。
「なあ、好きだよ・・・?」
 そっと髪にくちづけて、そのまま頬を擦り寄せる。自分と同じシャンプーの香りが鼻先を擽って、それが奇妙に胸を高
鳴らせた。
「知ってる」
 額を肩口にすり寄せる仕種は、下村が好んでする仕種の一つだ。それが坂井は好きで、そうされる度に切なく甘い気
持ちで胸がいっぱいになった。
 そのまま目を瞑り、暖かくぬるまった空気を吸い込んだ。
 下村は一瞬の真実しか求めない。
 永遠も約束も信じない。
 けれどもだからこそ、一瞬後には消えてしまうような、泡沫の光の残像を何時までも大切に胸に仕舞っているのだ。
 そうしてそれを時々そっと取り出しては、まるで宝物のように愛しげに眺めるのだ。
 それが下村の愛し方だというのなら。
 その残像の中に、果たして自分は残りえるのだろうか?
 閃光よりも柔らかに、面影よりも鮮やかに、そう、例えるなら雨上がりの空に架かる虹のように、下村の中に自分を焼
き付けることが出来るのだろうか。
 坂井は鮮やかに晴れた秋空を窓ガラス越しに見上げ、いつか見た泡沫の虹をその空に思い描いて目を閉じた。 













 終













逆に、相手が目の前に居ても何時も不安に思ってしまうのが恋ってものですよね・・・。
ラブ万歳。