物音がしたので振り返った。 寝室のドアにもたれて、下村が立っている。 寝起きの顔はぼんやりと虚ろで、赤い。 ちなみに赤いのは照れているからではなく、熱があるからだが。 「目ェ醒めたのか。どうした?」 手近のタオルで手を拭いながら、キッチンから呼びかける。 下村はこちらの様子に気付かない風に暫し目を泳がし、漸くといった感じでこちらに目を向けた。 小さく唇が動いている。しかし声はない。喉を痛めて声が出ないのだ。 「ちゃんと寝てろよ。もう少しで飯できるし」 下村も子供ではないのだし、どうせ寝ぼけているのだろうと放っておく。 改めて向き直ったシンクで野菜を洗い始めると、余計に物音は水音に紛れて聞こえなくなった。 坂井とて鬼ではない。理由もなくこんな素気無い態度に出たりは普段であったら絶対しない。 しかし熱はともかく、喉を痛めて声が出ないのは全くの自業自得で同情する気は毛頭ない。 そもそもが喉を痛めた理由というのがくだらないことこの上ないのだ。 重ねてそれが坂井に黙って出かけた結果となれば尚更だった。 「大体、何で下村は誘って俺は誘わねーんだよ」 呟きは水しぶきにあっという間にかき消され、レタスの葉に弾かれた水の粒は細かにシンクを良く濡らした。 昨夜のことだ。 店の女の子が一人やめる事になった。まあ、いつものよくなる日常のひとつだったのだが、何故かその娘の内々のお 別れ会に、下村は誘われ坂井は誘われなかった。 それだけならまだいい。もう少しはっきり言うならどうでもいい。しかし何故か下村は坂井に何も言わずにその会に 出、あまつさえ坂井の知らないところでご丁寧にカラオケを歌い上げて見事に喉を潰して帰宅した。 そして勝手に下村の部屋に入り込んで陰々鬱々と待ち構えていた坂井と鉢合わせした。 それが今朝の話。 それでも朝の時点ではかすれた声はたどたどしくも辛うじて聞かれていた。しかし朝晩の冷え込みが祟って崩した体 調は、見事にそれさえも潰してしまった。 お陰で今ではすっかり声が出ない。 こうして背を向けてしまえば、もう言葉は闇の中だ。 大体がこうして下村が一人で出かけるのが坂井は好きではなかった。 大概フラフラと何処かへ行ってしまう男である。 部屋を訪ねても、電話を掛けても出ないことはそう珍しいことではなく、どこへ行っているのだと聞けば本人も良く分か らない素振りで曖昧に返されることが多い。 浮世離れをしているとまでは言わないが、どうにも理解しがたい回路でもって動いていることだけは確かな様だ。 もしかしてこれはゼンマイ仕掛けかと思わなくもないが、今のところ確かめたことはない。 坂井は水音に紛れて大げさに溜息を吐いた。 「っわ?」 突然、顔を捕まれた。同時に横に捻り上げられる。 驚いて跳ね上げた水滴は見事に坂井の服を濡らした。 「し、下村?どうした」 下村が何時の間に傍に寄っていた。水音のせいで全く気が付かなかったらしい。 それもそのはずで、下村はフローリングの上でも頑なにスリッパを履こうとしないので、足音がしないのだ。 下村はよく坂井の足取りを猫のようだと言うけれど、お前の方がよっぽど猫のようだと言ってやりたいと常々思ってい る。 この気まぐれさはどこをとっても猫の気質に違いない。 こうしてまるで根拠の分からない様な行動は全く猫のそれだった。 下村は片手で器用に顎の辺りを掴んで離さずに、じっと坂井の顔を窺っている。 近くで見ると目は潤んで息が荒い。視線は辛辣なのに凡庸とした色は濁らず表面に漂っている。 明らかに高い体温は指先を伝って坂井の呼吸までをも不用意に蝕んだ。 「下村?」 じっと沈黙した下村に坂井は戸惑う。 これではどちらが不機嫌だったのか失念しそうで訝った。 こんなことで誤魔化すような男ではない。もっと堂々と人の失意や怒りや、不機嫌さなど綺麗に無視する男だ。 ちなみにその頭の中に「相手の機嫌を取る」という項目は見事に欠如しているらしい。 しかし相手の感情が分からないわけではないらしく、こちらが機嫌を損ねている時は上手に坂井をかわして過ごすの だから、この行動には訳があるはずだと思って坂井も黙ってそれに従った。 しかし次の瞬間、思いもよらない下村の行動に途端に坂井の頭は混乱した。 ―――ゥチュウ。 あまりに熱くて、びっくりした。 面食らって驚いて、坂井は手に持ったままのレタスのことなどすっかり忘れて危うくその場にへたり込みそうになって 慌ててシンクの端を掴んだ。 しかし不意打ちを食らわした下村といえば、してやったりの顔をするでもなく、羞恥に可愛らしく頬を染めるでもなく、ま ったくの素面の様子でそのままヒタヒタと足音を隠したまま寝室に戻ってしまった。 そのドアのパタリという音にはっと坂井が我に返った時には、既に下村の姿は寝室に消えた後だった。 「な、なんだ??なんなんだ???」 下村の気まぐれはいつもの事だ。こちらの期待通りにはなかなか動いてくれやしない。 でも、こんな気まぐれだったら、何時だって大歓迎なのに。 坂井は見なくとも分かる自分の頬を擦りながら、唇に少しだけ残る暖かさを思って一人ニヤニヤと頬を緩めた。 しかし大変残念な事に下村がこの出来事をすっぱり忘れていたのは、坂井の痛恨の極みだったのだが、それはまた 後のお話。 終 いい歳した・・・とか、あんまり思わないのです。 いくつになったって、やっぱり本気のときはこんな風になったりすると思う。 男でも、女でも。 好きな相手の行動に、一喜一憂するのが恋でしょう。恋でしょう? |