damn sweet



















「アイロンかけさせてください」

 開口一番、下村はそう言った。







 黙々と目の前でアイロンを掛ける下村を肴に酒を飲みながら、一体どうしてこんな事になっているのかと桜内はぼん
やりと考えた。
 桜内の家にアイロン台なんて奇特なものは存在しない。しかし下村は器用にテーブルの上にシーツをひいて即興の
台を作り、きちんと端からアイロンを掛けている。
 しかしその「端」の「はし」が尋常でなく、桜内は小さく溜息を吐いた。
 手始めにワイシャツ、白衣、ズボン、靴下と来てハンカチ、果てにはタオルまで掛け始めた下村は、明らかに極度の
酩酊状態だ。それなのに手元に狂いは全く無い。しかし着実に事を進めながらも、残りあとタオル数枚のところまで来
て途端に手際が悪くなった。ついにはタオルを半分に折ってはアイロンを乗せ、もう一つ折っては熱を充てと、どうやら
牛歩戦術に切り替えたらしい手際は先程とは比べるべくもない。その仕種は余りにもあけすけで頼りなかった。
 これは何かあったと思うなという方が無理な話だ。
「下村」
「なんです?」
 しかし手元に集中していることには変わりないのか、正面のソファにだらしなく腰掛けた桜内には目もくれず、じっとア
イロンの先を見つめている。それが何時に無く神経質な感を滲み出していて、桜内はおや、と思った。
 この神経が少しズレて生えている男でも、多大なストレスと感じることがあるのか。
 しかしそれを真っ直ぐに聞いたところで、紋切り型の答えしか返ってこないのは明らかだ。
 それでは鮮やかな外科医の手際でも見せるかと、桜内は少し姿勢を正した。
「タオルはアイロン掛けても仕方がないと思うんだが」
 下村に習って手元をじっと眺めながら顎をしゃくる。指先で弄んでいるグラスは露を滴らせて手に不快だったが、テー
ブルは下村に占領されているので使えない。仕方なく手元で揺らして誤魔化した。
「でも、ふかふかして気持ちいいんですよ」
「ふーん・・・。それは知らなかったな」
 湿った指先を顎で遊ばせる。
 遅々として進まない手先の作業は、下村の心情を正直に伝えていた。
「ベッドシーツにアイロン掛けても気持ちいいんだぜ」
「そうなんですか?」
 きょとんとして下村が顔を上げた。
 手元のアイロンはこれ幸いと動きを止める。
 大体何が楽しくてタオルになんてアイロンを掛ける人間がいるだろうか。
 結局下村はこうして桜内に甘えに来ただけなのだ。
 それならば、それなりにきちんと甘えて見せればいい。
 いとも簡単に反応する下村など、そんな時以外にはあり得ない。
 心得たように漸くこちらを向いた下村に、桜内やれやれと内心で肩を竦めた。
「寝る直前に掛けると、暖かくて気持ちいいんだ。・・・試してみるか?」
 そうして匂わす様に目を細める、意外な事に下村は緩く目を伏せた。
「だって、まだアイロン掛け終わってないし・・・」
 何てことだ。
 桜内は正直に驚いた。
 以前ならまだしも、最近になって下村がこの手の誘いに応じたことはほとんどない、というより皆無だ。それを誰のせ
いかは今更だが、しかしこの薄らぼんやりとした相手に貞操観念を植え付けるとはなかなか手ごわいと今更ながらに思
わざる得ない。
 しかし今日はどうやらそれも及ばないところまで下村は酔っている。
 恐らく見かけほど頭の中は正常ではないだろう。
 そうでなければ、こんな状態の時に桜内のところへ来るわけも無い。
「下村」
 名を呼ぶと、素直に下村が顔を上げた。その目へそっと微笑み、ゆっくりと立ち上がってテーブルを回りこんで床に座
る下村の隣に腰掛けた。
「アイロン、スイッチ切れよ」
「でも・・・」
「いいから・・・」
 そう言って柄の部分をぎゅっと握ったままの下村の手に、そっと指先を触れさせる。
 下村は驚いたように手を引っ込めた。
「呑みすぎだ」
 自覚はあったのだろう。下村は気まずげに目を伏せ、口を噤んだ。かみ締めた唇がみるみる赤く染まっていく。迂闊
を恥じて、耳が赤い。それでも逃げずに居るのは、ある程度の覚悟があるからだろう。それでもどこか踏み込めない下
村を、やっぱり桜内は甘やかしてしまうのだ。
 ほら、こんな風にほんの少し背中を押すだけで、下村は無防備になる。
 物腰の柔らかさとは打って変わって、普段の下村には隙が無い。あの店でホールを仕切るというのはそういうことだ。
それは藤木を見ていて知っている。
 しかしそれだけにこうして一度気を許した人間に、危ういほど下村はどこまでも無防備だ。
 その甘やかさを一度でも知ってしまって手放せるほど、桜内はお人よしではなかった。
「今日は一人なんだな」
 そっと耳元に吹き込むように囁くと、下村は擽ったそうに首を竦めてむずがった。
「一人で飲んでたのか?」
 分かりきった質問に、下村は桜内の意図など知らず眉根を寄せた。
 あの男が知っていて、こんな状態の下村を桜内の元へ寄越す訳が無い。
 下村がこんな風になるのは、あの男の不在の時と決まっている。
 それに付け込んでいる感が無いわけではないが、放っておく方が悪いのだと自分を軽く納得させた。
 桜内とて下村をどうこう言えるほど、強固な貞操観念など持ち合わせてはいないのだ。
「部屋で?」
 こくん、と下村が頷く。それが耐え切れずに、一生懸命言い訳を考えてこの部屋へ来たのだろう。
 そうでもしなければ自分を自由に出来ない下村を、桜内はやはり構わずにおれないのだ。
「何時でも家へ来ればいいだろう」
 そっと目を伏せる下村の淡い睫毛が微かに震える。これは相当に酔っているし、弱っている。
「でも、迷惑だし」
「俺が?迷惑だと言った覚えは無いがな」
「でも・・・」
 言い募ろうとする下村の言葉を遮るように、頭を撫でる。下村は何度か言葉を紡ごうとするのだが、その心地よさに
は勝てなかったのか、大人しく項垂れて目を閉じた。
「・・・誰かに、迷惑だと言われたのか」
 選んだ言葉は思いのほか核心を突いてしまったらしい。弾かれたように顔を上げた下村の目は、動揺に激しく揺れて
いた。
「そんな・・・そんなこと、言われてないです」
 言いながら目を逸らすのは、肯定と同じだ。
 下村を一言でこんな風にすることが出来る人間を知ってはいるが、その人間がそのセリフを言うわけが無いことも知
っている。
 そして下村がそれ以外の人間に言われた言葉になど、何の影響も受けない男である以上、そのセリフは下村本人の
言葉であるのだと白状しているようなものだった。
 下村は変わった。以前であれば、そんな気弱な物思いなど、鼻で笑って歯牙にもかけない男だった。
 それなのに今は、相手の事を慮ってはこんな事を平素に言う。
 変わるという事を一概に良いとも悪いとも言うことは出来ない。一方で自身さえも省みない男が寸分でも命を惜しむよ
うになったのなら、それこそ歓迎すべきことであると桜内も思う。
 しかしそれと同時にこうして元々にある柔らかな部分を如実に表面に出すということは、危険この上ないと思うのだ。
 そしてそんな下村を見るたびに、漣のようにざわめく胸の内を桜内は知っている。
「・・・坂井が居なくて、辛いんじゃないのか」
 だからいつも誤魔化すように坂井の名前を使ってしまう卑怯さを、十分理解していた。
 そうでもしなければ、歯止めの利かない感情が溢れてしまうのを止められない。
 報われない気持ちを持て余すのは、もう二度と御免だった。
「別に・・・・・・坂井は俺のものって訳じゃないし・・・いつも一緒に居られる訳じゃない。あいつが何をしていても、俺がどう
こう言える立場じゃないから」
 そう言って無理に笑おうとする下村が辛くてしかたが無いのは、やっぱり桜内の方なのだ。
 たまらない気持ちを堪えきれず、桜内は寄る辺ない肩をそっと抱き、腕の中に閉じ込めた。
「辛いなら、辛いって言えよ。誰が聞いてるわけでもない」
「でも、桜内さんが居るよ」
「医者には守秘義務がある」
 半分冗談めかして、しかし多分に本気で。
 喉元に触れる下村の髪の冷たさに、ぎゅうっと胸が掴まれた。
 下村が小さく笑った。見なくても分かるような、自嘲気味の声だった。
 それでも微かに力の抜けた体にホッとして、下村を抱き込んだまま桜内は引き寄せるようにして体を倒した。
 下村は黙って体を添わせたまま、大人しく桜内の腕の中に納まっている。
「・・・ずっと一緒に居たいっていうのが、ただの我侭だって、分かってる。でも、たまにやりきれないんだ」
「ああ」
「あいつは面倒を見なくちゃいけないヤツがいっぱい居て・・・あいつは放っておけないヤツなんだ」
「そうだな」
「だから――だから俺の事も、見捨てられなくて。分かってるけど、でもそれがたまに辛いんだ」
「下村・・・・・・」
「いっそ離れちまえば、――・・・二度と会わなければ、いいのかな?」
「下村、お前・・・」
「――そんな風に思うのに、馬鹿みたいに待ってるんだ、俺」
「・・・・・・」
「でも、一人が少し嫌で・・・桜内さん、ごめんなさい・・・」
 最後の言葉は吐息交じりの囁きで。
 それきり下村は黙ってしまった。
 規則正しい呼吸音が、胸の辺りをそっと撫でる。
 安心した子供の様に眠ってしまった下村を、起こさないように顔を覗き込む。
 見当外れの憂鬱に、瞑った目元は微かに濡れている様な気がした。































10000−1hitter ボブ様。

リクエスト「悶々とする下村敬さん」でした。