既に消えた月を探して窓を見上げても、慰め程度の空しか見えず、絶えず何処かで明滅する光の束がちらちらとガラ スに反射した。 そうして対するように暗く落ちた天井を見上げ、まるで挟まれるようにソファとテーブルの間に落ち込みながら、自分 は一体何をしているのだろうかと桜内は何度か目を瞬いた。 頼りなげな様子で眠る下村の目元を、不可思議な感情でもって眺める。 何事にも人に頼ることをよしとしないこの男が、ここまで気弱げな様を見せるなど未だ嘗て無かった。そこへつけこむ つもりは無いが、それでもこんな風に腕の中で眠られては胸が騒がぬ訳が無い。 しかしその安らかな眠りを積極的に妨げる気は流石に起きず、大人しく何度か冷たいままのその髪にくちづけた。や わらかな感触が唇に触れる度、自分の感情のごく自然な移行や不自然なほどのこの愛しさを桜内はまるで他人事のよ うに感じていた。 深入りするべきでないと、頭が言う。 けれどもどうしたって目の前で眠る、あまりにも儚い存在を愛しいと思うのを止められないのだ。 下村の背中に回した腕で、宥めるようにその背を撫でながら、ではこれ以上この手を止める理由など無いではないか とぽつりと波紋が広がった。何を偽ったところで、結局暴かれるのではないかという諦めの気持ちが先に立ち、これ以 上抑制や我慢を続けたところで内心では見透かされているのではという疑念が付き纏うに違いない。それならば初め から明け透けに押し付けた方が、ずっと自分らしいと思い、桜内は止める枷を振り払うように下村をぎゅうっと抱きしめ た。 「――さ・・・?」 小さく下村が身じろいだ。反射の様に肩口に額を擦り付ける素振りが酷く幼い。本来であればそんな素振りは限定さ れた時だけのものだろうと思うと、自然と湧き上がる不快感を抑える気にもならなかった。 誰と勘違いしているのだとは言わず、下村の枕になっていた腕を引き抜き、まだ完全ではない下村を上向かせ、乗り 上げる。体が離れて漸く見えた下村の顔は存外に幼かった。何度も執拗に目元を擦っているが、どうしたって泥酔寸前 だった酔いが簡単に体から抜けるはずもなく、思考は極端に低下しているのは明らかだった。 渋々といったように目元の酔いを掃うことを諦めた下村が、状況に気付いた時には桜内はもう下村にくちづけてい た。 「さ・・・桜っん・・・っ」 咄嗟に抵抗しようとする腕を顔の脇に縫い止めて、今更のように拒む吐息を強引に遮った。 何を今更。 思わないでもなかったが、誘われたとも思わない。所詮は独りよがりな我儘だ。 何度も繰り返し唇を噛み、口内を柔らかく舌先で撫でる。本格的に深くなるくちづけに、お互いの息が上がった。 あまりにも熱心な様に先に根を上げたのは下村だった。 混乱で上手く息をつげない苦しさに、目元が溶ける様に潤んで雫が流れ落ちた。 「桜内さん・・・」 呼気の合間に開放された下村が、小さく名を呼ぶ。しかし存外拒むための色はなく、それではいいのかと目を瞠ると 下村は恥じ入るように目を伏せた。 そのあまりの無防備さに見え隠れする酔いの影が、恐らくは今の下村を図らずも素直にさせているのだと思い、それ ならば普段は上手に隠し切っているその孤独は如何ばかりかと、桜内は気付かれないようにそっと胸を痛めた。 何もかもに不安を感じ、近寄らせないことだけを唯一と信じる男が、最後に選んだ道がこれなのか。 これではその警戒心も無関心も、全く意味を成さないだろう思うのに、結果的にはそれによってこの男が後ろを振り 返るようになったのだと思えば、やはり一方的な見方ばかりは出来ないのだった。 選びとった後さえも、触れることを恐れ、触れ合えないことに絶望する。 何度も、何度でも、毎晩のように繰り返し、夜が明けるまでの数時間、この男は一人何を思い、何をしているのだろう か。 こんな風に、酔いに任せて甘えられない夜を、一体どうやって。 そうしてそれを思えば痛ましく、自分ばかりが割りを食うと分かっていながらも手を差し伸べずにはいられないのだ。 あきれ返るほどに無知で稚拙な感情を、見逃すことなど出来ずに。 行き詰まるどうにもならない感情のまま、再び唇に触れ、宥めるように何度か柔らかなそれを慰めた後、抵抗のない 下村に了承を受けたつもりで桜内は押えていた両腕を開放した。 思った通り下村はその手を奮わず、緩慢に何度か手の届く範囲の物を遠慮深げに確かめた後、諦めたように桜内 の首に巻きつけ、まるで甘える仕種で肩口に額を擦り付ける。一見して慣れた素振りであるのに、首筋に触れた指先 は微かに震えていた。 そうやって無意識の内に溢れ出る感情を自分でも抑え切れないのだろう。 漏らされる吐息は忙しないのに穏やかだ。 まるで波の様だと桜内は思った。 意に添わぬまま、強引に体を奪うことなど容易に出来る。それでもそれを今までせずにいたのは、奪いきれない何か をその身の内に確かに感じていたからだ。 しかし実際こうなってみれば、奪うことなどさほど重要なことではなく、こうして抱きしめ合い、最終的には下村の中に ある硬く冷えた心のほんの一部分でも温めることが出来ればと祈るだけだった。 まるで初心な様子で抱きついてくる下村の仕種はどこか幼い。血に混じった多量のアルコールがそうさせていること は十分承知していたが、それは紛れもなく下村本人であり、またそれこそがその冷ややかな、体を丸めて縮こまるだけ の下村であると言い換えることは可能だと思った。 言葉もないまま体をすり寄せ、緩慢な動作で何度もお互いを確かめる。やはりそこには奪うための荒々しさは微塵も なく、ただ労わりや慈しみといった、普段では見せることも憚れる、羞恥の内に一蹴される類のものだった。それを今は まるで当然の如く自然に与え、与えらる事に違和はない。 今までこれほどまでに満たされる瞬間があっただろうかと桜内は思い、一度知ってしまったその味を、果たして二日 酔いの頭痛に紛れて忘れることが出来るだろうかと心配になった。 下村はする。 きっと、そうするだろう。 そして、自分も。 桜内は一夜限りの恋人を、まるで敬うような丁寧さでゆっくりと暴いて行く。 随分と昔に触れたさらりとして肌の感触は今だ健在で、幾らか夏の日差しの匂いを残す色づいた滑らかさが窓から入 り込む光に艶かしく桜内の目を惹いた。それを楽しみながらゆっくりとそこかしこに唇を落とすと、下村はくすぐったいの かクスクスと声に出して笑った。 「余裕だな・・・」 そう言って笑い声まで飲み込むようなくちづけを繰り返す。実際に深く繋がるよりも、ずっと相手を知りえるような気が して何度もそれを繰り返し、やがて下村がとろりとした吐息を吐くまで繰り返した。 「あんた、暖かいね。桜内さん・・・」 柔らかく笑う下村の顔は限りなく穏やかだ。 囁きあう様に耳元に顔を寄せ合い、吐息でもって会話する。 至るところにくちづけて、あらん限りの誠意を持って、明日は忘れるはずの恋人を、今夜だけはと抱きしめた。 終 |