テーブルとソファの間にすっぽりとはまったまま、どうしようかと桜内は迷った。 まるで慰めるような言葉をいくつか言った後、下村は落ちるように眠ってしまった。 体内に回った多量のアルコールは、容易に人を眠りに連れ込む。ついさっきまで平然としていたくせに、本当にぎりぎ りだったのだと思うと少し可笑しいような気がした。 ここまで来て、それでも結局は素直に甘える事の出来ない下村を、意地っ張りだと思う反面、そうしなければ保てない ものを思って、少し切ないような気分になる。明らかに酒に酔った言動はきっと明日にはあやふやになり、またどうしよ うもなくなった時にだけ、こんな自分を桜内だけに見せるのだろう。 嬉しいような、哀しいような、悔しいような。複雑な気分だった。 甘やかすのは嫌いじゃない。・・・もちろん、報酬はしっかり頂く訳だけれど。 小さく笑って、桜内はどうにか腕をずらし、微かな呼吸を繰り返す下村の唇にくちづけようと顔を寄せた。 その瞬間。 「コラァッ!!!」 室内に腹にクル怒声が響いた。 驚いて顔を上げると、リビングの入り口に物凄い形相をした坂井が仁王立ちしていた。 「お前・・・なんでここに」 「そんなことは、どうでもいいでしょう!」 押し殺して始まる声は、語尾ではかすれた叫び声に変わっていた。 ああ、ここまでか。 桜内は内心がくりと肩を落とし、しかし外見上は全く平素の素振りで起き上がると、テーブルに放置していた煙草を手 に取った。 テーブルの上は、未だに広げられたシーツがその大半を覆っている。 「・・・ん、桜内さん・・・・・・?」 大音量の目覚ましに漸く目を覚ました下村が、目を擦りながら体を起こすが、今の状況が理解できているかは大分怪 しい。その証拠に起き上がった下村は、片手で甘えるような仕種で桜内のシャツの裾をぎゅうっと掴んだ。 「し、下村!」 「・・・は?坂井?」 びっくりしたように、下村が仁王な坂井を振り返った。 しかしその目はあきらかにぼんやりとしており、瞬間的でしかない眠りでは、体内のアルコールが解消された様子は 全くない。正面から下村を見、一拍置いて下村に習って坂井を見ると、坂井はなんとも複雑な表情で黙っている。 しかし暗がりにあっても尚、その目は危うい剣呑さでギラギラと輝いた。 「お前・・・なんでここに・・・」 下村の疑問も尤もだった。それは桜内の疑問でもある。 扉の鍵はきちんとかけてあるはずだった。下村ならまだしも、坂井に合鍵など渡した覚えは全くない。それでも坂井が ここに立っているということは、正規の方法ではない、何らかの手口でもって入り込んだとしか思えなかった。 ドアが壊れていなければいいが。 何やら一人緊迫した雰囲気を撒き散らしている坂井と、どうでもよさそうな下村の対比を興味深く見学しながら、そん な事をぼんやり思う。それと同時に、酔いが抜けていないながらも、微かに雰囲気の変わった下村を再度見やって頭 の中で何かが繋がった。 そうか、そうなのだな。 桜内は驚いて目を瞠る。 初めて二人のこの微妙な関係を、理解出来たような気がした。 下村にはきっと、坂井のこの必死の形相の意味が分からないのだ。 そもそも自分に対して、坂井がそんな感情をもっているなどと、露とも思っていないのだ。それだからこんな場面を見 られても、平気な顔でぼんやりとしている。あるいは坂井の顔を見られて嬉しいくらいにしか、思っていないのかもしれ ない。 人目を憚る関係とはいえ、お互いの気持ちの通じ合った者同志が、何をそんなに不安がっているのだと桜内は安易 に考え、面白がっては二人をおもちゃ代わりにからかったが、それがどれだけ危うい二人の感情を揺るがしたのだろう かと、急に心もとない気分になった。 のろける若い二人を冷やかすつもりが、知らぬ事とはいえとんだ悪役を演じたものだ。 坂井は自分が来たにも関わらず、立ち上がるどころか動かずじっと桜内の傍に居る下村に、大層苛立ったように何 度か忙しなく息を吐き、おもむろに歩み寄った。 「・・・帰るぞ」 傍に立った坂井を見上げる下村は、相変わらず凡庸とした様子なのに、その目には感情がないのだ。 その事に桜内は、純粋な驚異を感じて戸惑った。 あれほどの感情を、ここまで上手に包んで隠す下村の周到さに。 こんな何も考えていない振りをして、その実のところは誰にも分からない。 おそらく、坂井にも。 いや、坂井だからこそ、か。 返事の返らない事に焦れた坂井が、下村の腕を取って強引に立たせようとする。しかし下村はそれと拮抗するように 腕を引き、僅かばかりの抵抗を示した。それに坂井はぴくりと眉を跳ね上げ、今度は両腕を取った。 「立てよ」 「嫌だ」 ほぼ同じ体格の相手を、意思を無視して動かすことは容易ではない。完全に立つ為の力を抜いている状態の下村 を、どうにかできるわけもなかった。 「下村っ」 坂井としては、一刻も早くここから下村を連れ出したい心境だろう。本来であれば桜内に文句の一つも言いたいところ だろうが、ここに来ていたのはあくまで下村の意思だ。それを尊重するから、坂井は直接桜内を責められないのだ。 そうしてその一方で、そんな無様な自分を見せられない反動が、下村に対しての苛立ちに大いに反映されている。 坂井の気持ちが分からない訳でもないが。 「どうせっ」 坂井から片腕を奪い、手探りで再び得た桜内のシャツをぎゅっと掴む拳が白んで、細かに震えた。高ぶりそうになる 感情をどうにか拡散させようと、下村がやっきになっているのが分かる。 しかしその怒りの発動とは異なって、無理やりに落ち着けた声には隠しきれない悲痛の色が浮かんでいた。 「・・・どうせ帰って一人なら、ここに居た方が、いい」 まるで喉の奥に何かが詰まったように聞き取り辛い。言いたくない気持ちを無下にした言葉を、一体どんな表情で言 っているのか。 しかしそれを見ることが出来るのは、向かい合った坂井だけだった。 「下村・・・」 スルリと坂井の腕から、下村の腕が開放される。重力にしたがって落ちた両手は、力の入らぬままトスッ絨毯の上に 落ちた。 坂井はそっと瞠目していた。 二人の会話を下村の横から聞きながら、なんと不器用なことだろうと桜内は息を吐いた。 多分この二人に必要なのは、たった一つの互いの言葉に違い。 それなのにそれを決して言おうとせず、果ては本心までどうにかやり込めようと誤魔化す様に唖然とした。 「もう、出かけねえよ」 沈黙を破ったのは坂井だった。ぽつりと呟く。その声に俯いていた下村が顔を上げた。 「・・・分かった」 暫し考えるような素振りを見せて、本当はすぐにでもその傍に行きたいに違いないのだ。 桜内は自分のシャツを未だに掴んでいる手が、離されることを名残惜しく思った。 だからそれを見たのは偶然だ。故意ではない。それなのに感じるこの罪悪感は、なんなのだと桜内は訝った。 下村の指は、未だに小さく震えていた。 「桜内さん・・・帰ります」 「あ?ああ。気をつけて」 ヒラヒラと手を振って、中腰でソファに曖昧に寄りかかったまま二人を見送った。坂井は無言で立ち上がる下村を、黙 って上から見下ろしている。 その目に一瞬宿った安堵と愛憎と、切なさの入り混じった色を、下村は果たして見ただろうか? 立ち上がり際に下村はちらりと桜内を見た。 済まなそうな表情は直ぐに隠れ、次の瞬間にはもういつもの飄々としたものに取って代わっていた。 無言で坂井が軽く頭を下げた。本当は嫌なのだろうに、変なところで律儀なのだと笑いそうになった。寸でのところで 未遂に終わったが、今にも触れ合わんばかりに近寄った桜内を坂井は見ていたはずだ。それなのにそれについて何も 言及しないのは、そう振舞う自身を下村に見られたくないと思っているからに違いない。そんな無様な自分など。 まるでちぐはぐに掛け間違えたボタンの様、にかみ合わない二人が連れ立って出て行こうとしたその間際、不意に下 村が坂井の手を掴んだ。そのまま指先だけとぎゅうっと握る。けれども下村は顔を上げず、驚いて振り返った坂井さえ も完全に無視して出口に向かった。 「し、下村?」 「帰るんだろ」 手を引かれ、坂井が慌てて下村を追う。 一瞬外からの光に当てられて、坂井の顔が露になった。 真っ赤に染まったその口元は、閉じこめ切れない嬉しさにうずうずと塞がれず、中途半端に開いたままだった。 忽ちに去った一瞬の邂逅は直ぐに消えてしまったけれど、今は危うい関係でもそう酷いことにもなるまいと、桜内は安 堵の息を吐いた。 「鍵ぐらい、閉めていけよ」 ドアが閉まる直前に、横着をしてソファに座ったまま声を張り上げた。 がたんと閉まったドアの音に、その声は掻き消されるか、坂井の小さな復讐に知らぬ振りをされるかもしれないと思っ たが、暫くして無言の返答がガチャリという施錠の音で返された。 「・・・だから、何で鍵を持ってるんだ。あいつは」 大仰に呟いて、桜内は色々と逃した幸運と、これからの二人の前途を祈って目を閉じた。 終 |