ひととき




















 ぼんやりと薄暗がりに浮かんだ背中を眺める。
 視界は半分毛布に遮られて、でも目は離せない。
 背中の主は未だにこちらには気づかす、鏡を覗き込んで懸命に何かをしていた。
 ベットの上に寝転んだ姿勢から分かることは少ない。下から見上げるような恰好でじっと視線を投げかけているのに、
背中は揺るがず、腕だけが動いている。
 それが気に入らず、ワザと毛布をバサリと動かした。
「・・・起きたのか」
 それに漸く気がついて下村が振り返った。慣れない目で認めたシャツは、白ではなく薄いブルーに染まっていた。
 いつもはきちんとした印象の強い首元は、だらしなくネクタイがぶら下がったままだった。
「ん」
 小さく吐息で返答する。下村はそれで興味が失せたのかまたこちらに背を向けてしまった。
「何してんの」
 うつ伏せた口元は枕に言葉を吸い取られる。半分までの声量で何処まで聞こえたのか分からない。しかしそれさえ聞
き逃さず、下村はもう一度振り返った。
「社用」
 言って、ゆっくりとベットの脇に立った。まだ結ばれていないネクタイの先が枕をノックする。それが直接に耳に響いて
また眠気を誘った。

 そういえば昨晩、寝る前にそんな事を言っていた気がする。

 こちらといえばそれよりも下村の体に手を這わすことばかりに夢中になって、話は殆ど聞いていなかった。
 それは下村も承知のはずだろうに、とっくの昔に了解は取り付けたとばかりに表情は無味乾燥だ。
 それが気に入らず、毛布に絡め取られた腕をどうにか取り出し、ネクタイの端を掴んで引いた。
「おい」
 下村は眉を顰めて釣られる様により深く腰を折った。
 片手の生活に慣れたとはいえ、こういった細々とした作業に下村は時折イラついたような仕種をすることがあった。
 実はそれを見るのはあまり好きではない。自分の無力さを目の前で大きく広げられたようでどうにも気に入らない。
 坂井は眠気を押しのけて上半身を起こすと、改めて襟に挟んだだけのネクタイを全て抜き取り、ベットに座るように促
した。
「結んでやるよ」
 下村は半舜あっけに取られたように口をあけて、でもあっという間に心得たようにベットに大人しく腰を落とした。
 背後に回り、襟元にネクタイを通す。
 下村を抱き込むようにしてネクタイを結ぶ姿勢をとった。
「何時までかかるんだ?」
 昨日の晩にきっと下村は言っただろうが、覚えてないものは仕方がない。
 ネクタイの端を持って丁寧に輪を作りながら耳元に囁いた。
「午前中には終わると思うが・・・。どうかな」
 仕事次第といいたいのだろう。
 ベットに踏み込んだ坂井の熱心さと上の空に、とうの昔に慣れた下村は今更晩の話を蒸し返したりはしなかった。そ
れに気を良くして鼻先で少し長い襟足の髪をかき分け、うなじに触れるだけのくちづけを何度も落とした。
「おい・・・」
 続きを促したそうな素振りを見せれば、ペシッと手をはたかれた。
 肩越しにじろりと睨まれる。しかしその目は思ったより穏やかだった。そしてその首元には悪戯の間にも、勤勉に働い
た手が綺麗なタイの結び目を作っていた。
「ありがとう」
 そう言って僅かなりのお礼とばかりに、立ち上がり際に坂井のこめかみに盛大に音をたててくちづけたが、それが余
計に不満を煽って坂井は口を尖らせ再び枕に倒れこんだ。
「・・・寂しいとか、可愛いこと言うなよ?」
「言わねーよ!」
 やけになって返しても、所詮枕の中に言葉は沈む。
 またこちらばかりが負けかと思って坂井は腹立たしいような気分で枕に顔を押し付けた。
 不意にフッと首筋に冷たいものが触れた。
「あんまり可愛いこと言うなよ。・・・行く気が削がれる」
 突然耳元で囁かれた言葉にぎょっとして、顔を上げると驚くほど近くに下村の顔があった。
 意外な言葉にあっけに取られた坂井に、してやったりという顔で下村はニヤリと笑い、ついでのように今度は唇に触
れた。
 それきり下村は後腐れなく背を向けヒラリと後ろ手に手を振って、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「・・・やっぱり俺の負けかよ・・・」
 掴むどころか反対に摘まんで捨てられたような気分で、キイッと枕に歯をたてた。
 しかしそれで気分がすこぶる良くなるはずもなく、返って敗者気分を煽るだけだった。
「覚えてろよ・・・明日の朝はベットに這い蹲らせてやる・・・」
 物騒な言葉で漸く少し落ち着いて、とりあえず帰って来た下村に何を食べさせようかと頭の中で献立を立てながら目
を閉じた。












 終













やっぱりこっちの下村の方がしっくりくるような気がします。