海を見に行こうと言ったのは、坂井の方だった。 異例の早さで初雪を迎えた海に、静かに降る雪は全ての物音を飲みこんでは散ってゆく。 その様がどんなに綺麗だろうかと考えて、居てもたっても居られなくなった。 坂井がそんな風に言えば、何か小言を言ったところで結局下村はついて来る。 雪が積もって動きが取れなくなる前にと、坂井は仕事で疲れた下村の手を引いて海へ連れ出した。 「流石に誰もいないな」 口元まで引き上げたマフラーに遮られて坂井の口調はもごもごとしていたが、少し前に立っていた下村が振り返った のでキチンと言葉は届いていたらしい。証拠に下村の目には呆れた色が浮かんでいた。 「当たり前だろう。なんでこんな真夜中に、それも雪の中を好き好んで海になんて来るヤツがいるんだ」 げんなりとしたせりふの割に口調が荒くないのは、少なからず下村もこの海の風景が気に入ったからだろう。 しかし強引に連れ出した自覚のある坂井はそれには反論せず、黙ってまた下村が海に視線を戻すのを見守った。 厚手のジャンパーを着込んで首にはマフラーをぐるぐると巻いている坂井とは対照的に、下村はコートこそきちんとし た物を羽織っているが、まばらに伸びた髪が漸く覆った首筋は酷く寒そうだった。 そんな風にいつまで経っても自身に対して酷く無頓着な下村をどうにかしたいと思うのだが、その反面だからこそそん な下村を放って置けないと理由をつけて傍に居られるのだと思えば、強くは言えなかった。 そうして今もそれをいい訳に、下村に触れることは可能だった。 遠くの海で小さく灯された漁火が、ちらちらと波間に消えては浮かび、また消えて行く。闇に解けた水平線をそうして知 らせる明かりの小ささに、魅せられた様に下村は佇んでいた。 そして坂井はただじっと、下村のそんな姿を眺めていた。 たとえどんなに傍に坂井が居ようとも、下村はいつもそんな風に一人だった。 無視されているわけではなく、忘れられているわけでもない。 こちらに視線を投げては小さく笑ったり、合間を縫うようにいくつかの会話を交わしたりする。 けれども、それでも、下村は一人なのだ、と坂井は思うのだ。 どうにか坂井が入りこもうとする最後の一歩を、下村はやんわりと許さなかった。 どんなに触れようと、見えない何かが坂井と下村の間には確かに存在した。 普段はいい。 二人の間に何か他の存在があれば、坂井も普段はそれを気にせずにいられた。 しかしこうして二人きりになれば、触れようとする指の先までもぼんやりとした膜の存在を感じざるを得なかった。 だからこそ尚更に、坂井は下村と二人きりになることを選んだ。 その確固たる隔たり以上のものを、下村との間に置くことを拒んだのだ。 「寒いのか?」 いつのまにか視界を遮って下村が目の前に立っていた。 海上に浮かんだ月を背負って輪郭がはっきりと浮かびあがる。それとは対照的に、闇に暗んだ表情は曖昧になり、 寒さに平坦になった声からは何の感情も窺い知れなかった。 「いや…」 だから坂井も曖昧な表情で答え、口元に微かな笑みを浮かべて誤魔化すように口を噤んだ。 それに下村は暫し考えるような素振りを見せた。 しかし経験からそれも長くは続かず、結局はあまり興味を感じた風も無く下村は離れてしまうだろう。 坂井が触れようと、求めようとすればするほど、下村は離れて行く。 知っていても、黙って逃してやることは出来なかったけれど。 「下村」 返事の変わりに、下村が少し首を傾けた。月に透かした幾筋かの髪が、肩に流れる。随分と伸びた髪は、下村がこ の街へ来てからの長さを無言で物語っていた。 「・・・やっぱり、寒いよ」 こうして向かい合ってさえ互いの気持ちが伝わらない状況は、二人の関係を象徴しているかのようだった。 少しずつ感情を消し去っていく下村を、その度に口数の増えていく下村を、坂井はいつも少し離れた場所から見てい る事しか出来なかった。 その胸のうちに残った傷跡を、自分では癒せない。傍に居ることで少しでも和らげることが出来るならそれでいい。け れども下村は他人が傍に居る限り、決して安らぐことは出来ない、まるで野生の獣のような男だった。 常に自分の周りに相手を計るための距離を置き、相手を試してはその中にある本当を信じたくて仕方がない、人へ の恋慕を捨てられない優しい男。 その心が柔らか過ぎることを、下村は決して認めようとはしないだろう。 そしてそれとはまるで不釣合いな凶器の左手を抱えたまま、下村はいつも一人なのだった。 「坂井?」 じっと見つめたまま押し黙った坂井に、下村が不思議そうに名を呼んだ。 言葉の振動は静まりかえった空に響き、有り得ないほどの切なさでもって坂井の胸を痛ませた。 一人きりで立つ男。 何の支えも望まない。差し伸べられることを想像さえしない。 たった一人で生きることでしか、自分を守れない男。 真実を信じない男が、本当は一番に信じたいのだ。 そう思うたびに、強く感じる。 下村に、どうしようもなく魅かれている自分を。 そっと、下村が坂井の頬に手を差し伸べた。左手には必ず手袋をするくせに、右手にしているところを見た事のない 指先は、冷え切った海よりも冷たく、反射的に坂井はビクリと身を竦ませた。 下村はそれに驚いて咄嗟に手を引こうと指を引きかけた。それを掴んで、引き寄せる。下村は逆らわず身を寄せた。 「どうした」 誰かに聞かれることを恐れるように囁かれた甘い声。孤独を糧に生きる男の声は、どうしようもなく優しく暖かい。 どうしてこんなにも何もかもが坂井を引き寄せるのか分からない。分からないのに、下村の傍を離れることは出来な いのだ。 「なんでも・・・なんでもねえよ」 凍った右手を包み込んだまま、片腕で下村の背中を抱きしめた。どこもかしこも冷たくなった体が、まるで下村の心そ のもののように思えて、やりきれない。 粉のような淡雪が、静かに散っては二人の体に降り積もる。 取り残されたような沈黙の中で、坂井は耐え切れず目を閉じた。 動かない坂井に、下村は白い吐息を細く小さく吐くと力を抜いて体を預けた。 「お前には、雪が良く似合う」 小さく漏らされた声に驚いて顔を上げる。間近で見た下村の目は細められ、思い違いでなければ微笑んでさえいた。 「天使には天の祝福を」 そう言って、下村は軽く坂井のくちびるに自分のそれを触れ合わせた。 「merry.Christmas」 驚いて目を瞠る。 下村は今度こそはっきりと微笑んだ。 「あの時の事、考えてた」 じっと見つめてくる下村の目は静かだった。口元にはまだ笑みが留まっている。 あの時。今でもはっきりと思い出せる。 血まみれの下村を。 どこか遠くを見つめたまま、どこか遠くへ行こうとする下村を。 「あの時、死ぬことばかりを考えた。・・・生き残ることなんて、思いもしなかった。そして、確かに一度死んだ」 ゆっくりと瞬く睫に、溶けた雪がキラリと光った。まるで涙の様だった。 坂井はその詳細を思い出しては戦慄する体をどうにか支えることばかりに必死だった。 「でも、俺は生きてる。こうして、ここで」 「下村、俺は・・・」 耐えられず何事か言い募ろうとした坂井の唇を、下村はそっと造られた左手で柔らかく遮った。 「歓喜よ、天上の美しい火花よ」 「?」 寒さのせいではなく顔色の変わった坂井には気づかない振りをしたまま、下村は握りこまれたままの右手を坂井の手 ごと眼前まで持ち上げた。 「あの時俺は死んで、そうして再び生まれた。お前のこの腕の中で」 自嘲気味に伏せられた下村の目蓋が、白く浮かび上がる。 言葉の一つ一つに細かに震える指先は、きっと下村に気づかれているだろう。 それでもじっと下村の言葉を待っている。そうすることしか出来ない。 「喜びの歌。生憎俺は神の翼の下でなく、天使の翼の下だったけどな」 まるで誓いの言葉を囁く時の様に、そっと坂井の手の甲にくちづけた。 そうして再び出合った下村の目の中に、一人きりで佇む獣の姿を見ることはなかった。 「あの時からずっと、胸の中にあの火花は続いてるよ」 きっと、お前と居る限り。 限りなく透明な目の中に居るのは坂井だけだった。 信じられない。 自然と坂井の唇はかたちどった。 たった今まで隔てられていた全ての壁は、ことごとく消え失せ、たった今まで孤独だけを道連れにしていた男は、坂井 の目の前に立っている。 坂井の為に、立っている。 「ずっと」 声が震える。顔に落ちて解ける雪の雫はあっという間に暖かく変わって頬を伝った。 「ずっと、お前の傍に居たよ」 「ああ・・・」 「ずっとお前の傍に居る」 「ああ」 頷く下村の顔が、霞んで上手く見えない。 下村は頬に伝った雪の雫をくちびるで拭い、もう一度くちづけた。 その仕種の愛しさに、坂井はたまらず下村の体をかき抱いた。 雪の中で冷え切ったコートも、濡れそぼった頬も髪も、その何もかもがいとおしく大切で、坂井はまるで閉じこめるよう に忙しなく両手を広げて抱きしめた。 いっそ痛ましげなほど必死な坂井の様子に下村は何度か穏やかに瞬きし、間近に迫って輪郭も不確かなその目を合 わせて柔らかに目を細めた。 「だからお前も、俺の傍に居てくれよ」 澄んだ空から真っ直ぐに届く雪の気配からさえも下村を隠すように体の全てで覆い尽くして、くちづける。 いっそ痛ましいほどの懸命さで必死に取りすがる坂井に、下村は穏やかにその背に腕を回す事でそっと答えた。 「・・・お前がそれを、望むなら」 その言葉に驚いて、目を瞠る。 下村の目は限りなく月の光に澄み、承諾は深く確かに坂井の胸を掴んだ。 それが今まで、一人きりで佇んでいた理由なのか。 思わず口をついて出そうになった言葉を、坂井は咄嗟に飲み込んだ。 何もかもを捨て去って、何者にも縛られず、己の身さえ厭わない。 いつも一歩下がったところから、まるで興味のない目をするその中にそんな言葉を隠していたことなど、終ぞ坂井は 気づかなかった。 たとえ自分が求めようと、相手がそれを望まぬならば決して最後の一歩を踏み出さない。坂井の知らぬところで決め 付けられた不文律が、確かに下村の中には存在し、そうして正しく下村は従った。 そうして相手が離れるならば、それで良かったのだと言うように。 無言のうちに受け入れながら、結局最後の選択を相手に迫るその狡さに閉口し、けれども一方でそんな方法でしか 自分の気持ちを表すことの出来ない下村に、坂井はただ静かに胸を痛ませ、それ以上言葉もないまま温もり全てを明 け渡すかのように抱きしめた。 風もない穏やかな空は真っ直ぐに雪を降らせ、海に落ちては音を飲み込み消していく。 神さえも眠るような真夜中の静寂の中、坂井は腕の中にある確かな存在に感謝し、この腕が下村を生まれ変わらせ ることが出来るというのなら、天使もそれほど悪くないと目を閉じると、耳元でクスクスと下村が突然笑い声を上げた。 「なんだよ?」 今日の夜にふさわしく、少しは敬虔な気持ちで居た坂井は何事かと顔を上げる。 正面からかち合った下村の目は、まるで小さな楽しみを発見したような風に笑っていた。 「なんかお前、雪ダルマみてえ」 そう言って肩甲骨辺りを彷徨っていた右手で、坂井の肩口を払った。途端にパサパサと雪が落ち、流石にぎょっとす る。 先ほどまではそれほど気にならなかった雪がいつのまにか勢いを増し、無音の白い腕は眩く灯りを灯した様に月の 力で砂浜を照らしていた。 「こりゃ、積もりそうだな・・・」 「それ以前に、お前にはもう積もってるぜ」 そう言ってやはり楽しそうに下村は笑うので、毒気を抜かれて坂井は溜息を漏らした。下村は興味深そうに坂井のも う片方の肩口を払い、頭を払い、体温に溶けた雪で湿った前髪をかき上げた。 「どうりで寒いと思った」 そう言って大げさに目の前で鼻をすすると、下村は困ったように眉を顰めてぐいっと坂井を抱きしめた。 「寒くないって言ったり、寒いって言ったり。まったく我侭な坊ちゃんだな」 「・・・お前に言われちゃお終いだ」 そう言ってお返しとばかりに抱き返し、悪戯を仕掛ける様に首筋に鼻先を埋めると、冷えた空気の中にいつも香る甘 いコロンの匂いがした。それに訳もなくそわそわと落ち着きのない気分になり、坂井は力任せに下村を締めつけた。 「いてっ痛てえって!何すんだ!」 「あだっ!いってえ!」 途端に穏やかな空気など忘れた様に、左手でボカンと坂井の頭を叩いた。 「ばっ!お前!そっちは洒落になんねえだろうが!」 「お前が先に仕掛けたんだろうが!」 坂井の腕を無常に振り払いながら、下村が踵を返して歩き出す。足元に積もった雪に砂浜の粒が混ざって黒い足音 が次々に下村の後を追って行く。 それを暫し呆然と見送って、はっと気がつき坂井は慌てて後を追った。 「おい!何処行くんだよ!」 「帰るんだよ!」 風邪引いたら、明日のクリスマスパーティー誰がカウンターに入るんだ。 既に大分離れた砂浜と道路の境目辺りから肩越しにそんな事を平然と言うので、坂井は愕然として立ち止まり、たち どころに赤くなる素直な頬を慌てて両手で叩いて戒める。もとより自愛をしない下村はやはり坂井のことばかりをそんな 風に言うのだ。陳腐な仕種などしたところで、下村は坂井の方を見る気配もない。それにほっとしながら複雑で、いつも そんな風に下村は遠まわしで分かりづらいのだと思い、けれどもきっと今までだってずっと、今のようにその精一杯の 好意を坂井に向けていたに違いないのだ。 それにただ坂井が気づいていなかったというだけで。 「おい!ま、待てよ!」 はっとして再び後を追いかけながら、こうして穏やかな年末を当たり前のように隣で過ごすことの出来る現実に、坂井 はもう少しだけ浸っていたいと息を切らして下村の後ろ姿に抱きついた。 終 あそこは雪降りませんよ?とかいうツッコミはなしの方向性で。 だってメルヘンですから。 |