レアなイヌ






















 ああ、なにやら困っているのだな、と思って下村は溜息を吐いた。
 秋も深い昼下がりだ。
 足元まで深く切り込んだ午後の光が白く塗られた椅子とテーブルの足を輝かして目を痛める。
 それを横目に眺めながら、目の前で項垂れたままの坂井のつむじをじっと見る。
 約束の時間はとうに過ぎている。 
 待つのはそれほど嫌いではないが、流石に連絡もなく一時間も待たされれば十分だった。
 坂井は喫茶店の入り口に姿を現し、心もとない仕種で下村の正面の椅子に座ったきり無言で俯いている。
 どちらかと言えば黙れと言っても何か話したがる男がこんな真似をするからには、何かあるのだろうと単純に下村は
考えた。

 今日の約束は坂井の方から取りつけてきた。

 どうしても明日の午後、ここへ来て欲しい。
 差し出された紙には何度か寄った事のある店の名前が書いてあった。如何にもお洒落な雰囲気の、ちょっと高級そう
な感じのする店で、正直坂井が好むような店ではなく、多少驚いて目を瞠ると必ず来てくれ、念を入れてから下村の胸
に紙を押しつけ行ってしまった。下村は良いも悪いも答えなかったが、予定がないのは何時ものことだ。大人しく約束の
時間にきちんと店を訪れた。
 それなのに肝心の坂井は時間になっても現れなかった。
 坂井は自分と違って案外多忙だ。日中も出社して細々とした事をしたり、個人的に引き連れてる連中の面倒を見た
り、それに纏わる事で宇野の事務所に行く事もある。呼ばれれば億劫がらずに出て行くし、車の手入れにも余念がな
い。
 知っている範囲だけでそれだけの用件をこなしているのだから、自分よりよっぽど予定が詰まっているのだという想
像は安易につく。だからこうして待たされても、まあ、それほど頭にくることはない。何か抜けられない用があったのだろ
う。そう思うことにしている。
 そうでなければ、結局苦痛を買うのは下村なのだ。
 行動範囲も交友関係も極端に狭い下村と、何年もこの街に暮らして深く根付いている坂井とでは、そもそも比べるべ
くもない。
 そうなれば結局相手の行動に気をもむのは一方的に下村の方が必然的に多くなってしまうのだ。
 坂井は坂井で下村が少しでも予想外の行動を取ると、お前はすぐに何処かへ行ってしまう、なんでそんなに気まぐれ
なのだとたたみかけるのだが思うに坂井だって下村からすれば謎の行動が多いし、知らない人間と接している時間が
多いのだ。どうも坂井はそこのところが分かっていないようで、一方的に下村の行動にばかり気を取られている。
 だからといって下村としては相手を問い詰めるのは趣味ではないし、正直恰好いいものでもないと思っている。
 それでも気になっていない訳ではないのだが。










 相変わらず何も言わずに俯いている坂井を眺めながら、カップをゆっくりと口元に運ぶ。不審がってなかなか近づい
て来ないウエイトレスを呼んでコーヒーを頼んでも、坂井はピクリともしなかった。
 今この頭の中には一体何がうごめいているのだろうか。
 思い、少しだけ考えてからパタリと思考を閉じた。
 考えても分かる訳がない。
 諦めるように手放して、下村は気づかれないように溜息を吐いた。
 どんなに懸命に相手を理解しようと務めても、所詮は違う人間である。本当のところが分かる訳がない。
 それなのに坂井はいつだって下村を理解しようと躍起になって、結局自身を責めているだけなのだ。
 そうして終いにはどうしようもなくなって、何故分かってくれないのだと下村を責める。
 あの、濡れた子犬のような目で。
 それに下村が大層弱いのを承知の上での所業なのだ。
 あれには本当に参ってしまう。
 否を言う暇がない。
 そうなのだ。今、もし坂井が何を言ったとしても、自分は否を唱えられないだろう。
 坂井は下村に全てを委ねているという。
 それは確かに嘘ではないかも知れないが、少なくても事実ではないと思う。
 いつだって下村は坂井の望む方を選んでしまうから。
 俯いた坂井のつむじを見るのにももう飽きて、でもこれ以上コーヒーで誤魔化すのもやはり飽きているのでどうしよう
もない。
 知らず天井を仰いで、乾いた目を労わるように何度か瞬いた。
「・・・ごめん」
 声に驚いて顔を戻すと、いつのまにか坂井がこちらをじっと見ていた。
 疲れたような顔を見られたかもしれない。
 咄嗟に浮かんだ気遣いに舌打ちしたくなった。 
 冗談じゃない。こちらの意思はどうなるのだ。
 腹立ち紛れにテーブルでも蹴り倒して店を出ようかとよっぽど思った。
 それなのに目を見返してしまえば黙るばかりだ。
「いい、別に」
 どうにか目を逸らして気を逸らす。素っ気無いのは元々だ。これくらいで堪える男ではないだろうと、面倒なのでタカを
括った。
 実際坂井はあまり気にした素振りはない。
 それよりも自分の悲壮に酔った様に肩を揺すった。
「どうしても抜けられなくて・・・」
「だから、どうでもいいって」
 今度は明確に苛立ちが混ざった。
 坂井はそういうものを敏感に嗅ぎ取る。
 勢い見つめてしまった坂井の目に、あからさまな憐れを見取って、思わず怒鳴り散らしそうになった。
 何を、どうして、一体お前は俺に何をさせたいんだ。
 頭を撫でて、抱きしめて、一晩中でも一緒に居れば気が済むのか。
 誰とも話さず、誰とも接せず、誰とも会わずにお前だけといればそれで満足なのか。
 さっぱり、ちっとも、お前の考えてることなんか分からない。
 どんなに頑張ろうともがこうと、縋りつこうと追い詰めようと、どうしたって坂井と自分とは違う人間で、求めたところで
最後の一歩近づけない。
 その度に相手は自分でない事に気がつき、殊更に絶望するだけなのだ。
 それなのに。
 それなのにお前は、どうにかその最後を踏み越えようとするんだな。
 そう思えば最早怒る気になれる訳もない。
 苛立ちは途端に四散した。
「・・・どうでもよくないだろ」
「あ?」
 しかしこちらの思惑とは裏腹に、坂井の声に険が混じった。
 どうしてこうもかみ合わないのかと下村は煽るような溜息が漏れそうになるのを寸でで押えた。
「どうでもよくないだろっ。なんでどうでもいいんだよ!俺なんかどうでもいいって言うのかよ!」
 いきなり激昂した坂井に一番驚いたのは、隣に座っていたカップルだろう。親密に顔を寄せ合っていた肩が激しく揺
れたのが目の端に映った。
「何で怒んねーんだよっ、時間に遅れたんだぞ!一時間も!何で遅れたのかとか聞かねえのかよ、気にならないのか
よ!」
 そして多分二番目に驚いたのはウエイトレスだ。向こうの方で、何かを落とした甲高い音が耳に届いた。
 こうして落ち着きのなくなった坂井を元に戻すには、こちらの冷静さを見せつければ大概ケリはつく。テーブルを乗り
越えんばかりに乗り出した坂井を静かに見ていると、案の定はっとしたように体を椅子に戻した。
「たまには俺のことも気にしろよ・・・」
 また俯いて、最初に逆戻りだ。
 もしかして坂井は業と遅れて来たのかもしれない。
 ともすると、ずっと何処かからこちらを眺めていたかも知れない。
「坂井」
 坂井は初めて名前を呼ばれたように急いで顔を上げた。
 正面から向き合った坂井の目は、高ぶった感情で少し潤んでいる。
 ああ、本当に犬のようだ。
 しかしこの犬は哀れな子犬を装って、その実獰猛な牙を皮下に隠した肉食獣だ。
 例えばここで、いい子いい子と頭を撫でることも出来る。
 心配していたと宥めることも可能だった。
 しかしそれはどれをとっても坂井の指し示す選択肢のマークシートの紙の上だ。
 相手を尊重する風を装って、本当はがんじがらめに差し迫る男をどうにか見返してやろうと急に気分がうわついた。
 坂井の傍に居るのは誰の為だ。誰の意思だ。
「なに・・・?」
 坂井の返事は変に小さい。不安に目は益々潤む。
 それを今から施す駆け引きで、一体どう変わるか考える。
 何も変わらないかも知れない。何も気づかないことも。
「坂井・・・」
 声をひそめて、テーブルに乗り出すように顔を近づけた。
 下村が人の居るような場所でそんな素振りをすることは普段であればあり得ない。
 坂井はちょっと驚いたように目を瞠って、けれど請われれば逆らわず、不思議そうに顔を寄せた。
 下村は緩く近寄った坂井の首をぐっと掴んで引き寄せ、腰を浮かせてくちづけた。
「!!!!」
 坂井は驚愕のあまり目を見開いたまま、大人しくくちづけを受け取った。
 礼儀を欠いたその目を、普段であれば許さぬ下村であったけれど、今回だけは特別だと目を瞑る。
 甘やかに唇を一舐めし、後は素っ気無く手を離して立ち上がった。
「し、下村っ」
 さっさと行ってしまう下村に、慌てて坂井は追おうと腰を上げかける。しかし再びドスンと椅子に腰を打ちつけた。
 どうやら腰が抜けているらしい。
 それを横目でチラリと確認し、いつまでもお前の手の中には居ないことを思い知れとそれきり無視を決め込んだ。
 隣に座っていたカップルが石のように固まっているのも見えたが、さわがせたと胸のうちで合掌し、それでも当分は話
題に事欠かないだろうと開き直って下村はそのまま店を後にした。


























「俺はな、下村」
 閉店後の店。カウンターに留まって一服する。
 目の前では坂井が最後の片づけを黙々とこなす。
 いつもの日課に会話はない。しかしこの夜に限って坂井は早々にカウンターの中を引き払うと外へ出て倣うようにスツ
ールに腰掛けた。
「あん時、お前の事試したわけだよ」
 手の中で何度も転がした煙草は少々くたびれていたが、坂井は気にした様子もなくそれを銜えて灯を点けた。
 照明はカウンターを残して全て落としてあったが、最大に引き上げた光量に不足はなく、手元は目が眩むほどに明る
い。
 チラリと視線を走らせれば、坂井はぼんやりと正面の酒瓶棚を眺めていた。
「お前がサ、いつまで経ってもこっち見やしないし」
 火のついた煙草を指の隙間でクルリと回す。危なげなくとも許されない遊びだが、坂井がこちらをいっこうに見ようとし
ないので面倒なので放っておいた。
「どうでもよさそうだからさ、わざと遅れて行ってさ、お前がなんて言うかと思って」
 お前がどんな反応するか見たくて。
 再び銜えた煙草をフラフラと上下に揺する。殆ど吸い込んでいないので、灰は落ちなかった。
「そしたら本当にすげえ遅れちまって、大慌てで駆けつけたら、お前、待ってんだもん」
 びっくりしたよ。
 なあ?と言って坂井は笑った。口調は穏やかだ。
 それでも、目は静かに沈んでいた。
「お前、俺がどんくらい浮かれてお前の前に座ったか分かるか?」
 分かる訳がない。
 答えなくても坂井には分かっているのだろう。小さく肩を竦めて、煙草を灰皿に落とした。
「なのにお前、ちっともほっとした顔しないし、どうでもよさそうで。最初から待ち合わせなんてしてなかったみないな顔し
やがってさ」
 カウンターの木目に沿って、指を動かす。稚拙な仕種が疲れを含んでいる。
「ああ、本当にこいつにとって俺はどうでもいい人間なんだなって、思ってさ。そしたらお前」
 いきなりさ、あんな事。
 不貞腐れたような口ぶりだった。頬が微かに膨らんでいる。
 それが可笑しく、笑いそうになったけれど何とか堪えた。
「・・・・・・俺はさ、びっくりして腰抜けちまって。それなのにお前はさっさと帰っちまうし」
 消し損ねた煙草から、糸を引くような細い煙が立ち昇る。坂井はそれを追いかけて上向いた。
「あの後な、俺、隣のカップルとか、店員とかにじろじろ見られてて、そんなの分かってたんだけどさ・・・俺も大概バカだ
からさ」
 泣いちまったよ、一人で。アホみたいに。ホッして。
 まるでイヌみたいに、俺が来るまで本当に待ってたお前がせつなくて。
「俺は初めてあの時、お前の気持ちが分かった気がしたよ。・・・俺がお前を決めつけてたんだな。お前はいつもこっち
を見て、俺の事、待っててくれたのに」
 そう言って、坂井は両手で顔を覆って項垂れた。
 坂井の手は大きくて、易々と顔を隠してしまう。
 その肩が細かに震えて、あまりにも小さく見えて、かける言葉が上手く見つからなかった。
 
 待つことなんて、大して苦痛ではないんだ。
 お前は必ず来るに違いないから。
 だからお前が、そんな風に思わなくてもいいんだ。
 そんな事、今更だろう?
 そう思ったところで、上手く伝えられないから、それが少し哀しかった。
















































「それなのにお前、今度はさっさと行っちまったな・・・」


























 終