何かといって思い出すのは後姿ばかりだ。 多分あの時の印象が強すぎて、未だに頭から離れない。 冬の空の下をはかない足取りで確かめるように歩いていたあの後姿を。 年が明けて一番にすることといえば新年の挨拶だろう。 坂井も下村も、そういう意味では健全な家庭で育っているせいか、こうして朝一番に目を合わせれば自然と言葉は突 いて出る。しかしどうにも恰好がつかず気まずいような気分になるのは否めなかった。 寝起き姿の坂井は髪の後ろの方がほつれて盛大な寝癖がとさかを作って奇妙に滑稽であったし、一方の下村は落ち かかった前髪のせいでどちらが前か良く分からない有様だ。 こうして布団の上で向かい合って正座したところで、正装には程遠い。 「・・・せめてもう少しマシな恰好になってから挨拶した方がいいんじゃないのか?」 起き抜けの下村の声は掠れていて可哀想なくらいだった。昨夜は随分無理をさせた自覚のある坂井は、そこには無 下に触れず、俯いて頭をかいた。 下村は客商売の家に生まれ育ったというだけあって、こういった季節の行事にきちんと礼を払う事を怠らない。本来で あればきちんと和服を着こんで挨拶を交わすのが一家の慣わしなのだという下村にとって、それでも随分な譲歩であっ たようだ。 坂井はそういった変なところで几帳面な下村を嫌いではなかったので別段気にするつもりもなかったが、素っ気無い 挨拶でなく、もう少し親密で甘やかな挨拶を交わしてもおかしくない関係なのではないかという気がしないでもない。 しかし当の下村はそういった事は皆目見当もつかない素振りでこちらに近寄る様子もない。いつもは戯れに軽いくち づけの一つもしているところであるのに、まるで清らかな交際でもしているように手を触れる気もないようだった。 「なあ、あのさ、なんでそんなに改まってんの?」 正座したままぼんやり膝頭の辺りを眺めている下村のつむじを見ながら言う。昼に近い太陽は横から照らして容赦が なく、痛めつけるような勢いでガラス越しに差し込んだ。 「さ、触ったらダメなわけ?」 何を今更緊張しているのだと思い、どもってしまって思わず顔が赤くなった。 下村は俯いたままで何も言わない。 坂井は困り果てて眉を下げた。 「し、下村?」 けれども手も触れられず、なさけないような気分で名前を呼ぶ。温まった毛布で手のひらを擦った。 もしかして昨夜の事を怒っているのか、それとも気に入らない事があったかとグルグルと考えを巡らす。 確かに初めは少々強引であったかもしれないが、下村の事である。本気で抵抗されれば坂井とて到底事を進められ るわけがない。そのままなだれ込めたという事は、下村もそれほど嫌でなかったという事だ。 と、いう事はそれ以外に理由が。 毛布を握っては開いてを繰り返し、くしゃくしゃになったそれを伸ばしてみても下村は黙ったままだ。 どうしようもなくなって天井を見上げても答えはない。 「・・・忘れてた」 下村は漸く小さく呟いた。坂井は慌てて体の触れないように傍による。 遠いところを見るような目で下村は坂井を見た。 「社長」 「・・・社長?」 突飛なセリフに坂井が反復する。下村は窓に視線を移し、考えるようにそのまま目を時計に移した。 「新年クルージングするって言ってたの。忘れてた」 「はあ?」 鼻から抜けるような坂井の声に、下村は漸く坂井に視線を戻し、先ほどの坂井よろしく眉を下げた。 「夜明け前には出航してるはず・・・なんだけど。どうしたかな」 「俺はそんな事、聞いてないぞ」 川中の船を操舵するのは大抵坂井の仕事だ。船を動かすときはまず初めに坂井に声がかかる。しかしそんな話を今 回聞いた覚えがない。 下村は少し首を傾げて困ったように首を擦った。 「いや、電話俺が取って、お前に伝言頼まれてたんだが・・・」 珍しく言いよどむ下村は珍しい。坂井は次の言葉を待ってじっと下村を見た。 下村は腰の辺りに固まっていた毛布を引っ張ると、どうにか言わずに済ませたいといった風情で広げて膝にかけた。 「・・・その、つい・・・言わないと、と思ったんだけど・・・そうすると・・・止めないといけないとか思って・・・そのうちに・・・」 「・・・何を?」 坂井は純粋に意味が分からず問いかけた。途端に下村が俯いてしまう。 訝って下から覗き込んで驚いた。 「し・・・?」 下村は、真っ赤な顔で目を逸らしていた。 首の辺りまで真っ赤になっている。よく見るとぎゅうと膝頭を掴んだ手の甲まで真っ赤だ。 「あ・・・え?もしかして」 「ばっ言うな!」 慌てて坂井の口を塞ぐ下村の顔は変わらず真っ赤だ。目元が潤んで覚束ない。 坂井は何度見ても信じられない光景が、目の前で確かに繰り広げられる様に目を白黒させて、口を阻んだ下村の手 を掴んだ。 「・・・言えなかった?」 どうにか隙間から出た声は、自分でも驚くほど柔らかだ。 下村が頷く。赤面を誤魔化すためなのか、表情は怒ったようなのだが仕種が一々幼い。 それが余計に坂井の気持ちを和らげて目元を緩めた。 「好きだよ」 ぎょっとして下村が目を上げる。その目に改めて笑いかけた。 「・・・知ってる」 「うん」 真っ赤なままなのに、恥ずかしいのに、それでもきちんと答えを返すのは本当に下村らしく、坂井は漸く許された様な 気分で下村を抱き寄せた。 「今年も、よろしくな」 「ああ。こちらこそ」 胸の辺りでくぐもった声が、温かく布越しに坂井を暖める。それにうっとりと目を細めながら、髪に頬をすり寄せた。 それに下村が柔らかく吐息を漏らし、しかし唐突に坂井の胸を強く押すと何か判別しがたい顔でこちらを見上げてい た。 「何?」 突然離れてしまった寂しさに自然声が歪んだ。下村はそれに密かに目を細め、困ったように口元を笑みに模った。 「また忘れてた。社長」 言われて自分まで忘れていた事実にげっと思う。 仲間はずれや蔑ろにされると、後々うるさい相手なのだ。一体どんな形で嫌がらせを受けるか分からない。 坂井は諦めて腕の力を抜くと、下村は途端にスルリと逃げてしまい、遣り切れない様な行き場のない空しさを感じて黙 って己の腕を見つめて溜息を漏らした。 「・・・坂井」 下村はそんな坂井に呆れたような顔をして、それでも甘やかすような声色で名を呼んだ。 それにはかない期待を持って見上げると、下村は今まで見せたことのない様なやさしい目をして微笑んだ。 そうして無言のままそっとくちづけが落ちてくる。それをうっとりと受け止めながら、きっとこうして時を重ねる度に、新し い下村を知る度に、何度も繰り返し思い出すあの背中も、きっと振り返ってくれるだろうとその背を抱いた。 後日、川中にさんざん寝坊の真相を問い詰められ、答えに窮する坂井の横から、易々と前日寝るのが遅かったのだ と答えた下村に、川中が目を白黒させたのはまた別のお話し。 終 一応、新年えすえすです。君に幸アレ。 |