そんな泣きそうな顔をしたってダメよ。ダメ。 くちびるを柔らかく指先で押しながら、山根は小さく微笑んだ。細めた奥の目が、チラリと灯りを反射する。その鮮やか な煌きは、驚くほどの強さで持って、下村を魅了した。 山根とは時々、そのラウンジで会った。 別段故意にそうしているわけではなく、大概は偶然で後は山根の気分次第だった。 難しい女である。 気難しいという意味ではなく、心情的に理解できない部分が多い。しかしだからと言って嫌っている訳では決してなく、 ただ何となく正面から向かい合うのは座りが悪いと言うだけの話だ。 どうも今夜の逢瀬は山根の意志に因るところであるらしく、下村がラウンジへ上がると待ち構えていたハンターのよう な目で正面に腰掛けた。 「こんばんは」 複雑なウエーブをかけた髪を後ろで一つに束ねているせいで、白い首筋が露になっていっそうその細さを見せつけ る。 短い挨拶を交わした山根は、黒いセーターに黒いパンツといういでたちだった。 「そろそろ現れる頃だと思った」 ボーイに小さく手を上げて、それだけで恐らくは彼女の為の飲み物が用意される様を見れば、彼女がどれだけここへ 通い続けているのかが良く分かる。 下村は手元にグラスを待ち焦がれながら、辟易として溜息を吐いた。 「まあ、随分な挨拶ね」 しかし気を悪くした様子もないのは、自分が下村に嫌われていない事をしっかりと知っているからだ。 下村もその点に関して反対する気は特にない。嫌いではないことは確かだったからだ。 ボーイがそつのない仕種で、山根と下村の前にグラスを置く。それを見て山根がおや、と眉を上げた。 「すっかり常連サンなのね、下村さんって」 何を。言おうとして手元のグラスを垣間見た。そう言えばグラスに入ったこの酒を注文した覚えがない事を思い出す。 山根の仕種ばかりを観察していて、そんな事も忘れていた。 先ほど山根に対して思った感想を、そっくりそのまま返された気まずさに付け加え、どうやら思っている以上にぼんや りとしていたことで余計に眉間に皺がよった。 山根がそれを見逃すはずもなく、アルコールで濡れた唇を小さく歪めた。 「下村さんって、結構分かりやすいわ」 そう言ってふふ、と吐息で笑い、今度は喉を潤せるだけの量を口元に傾けた。 「でもみんな、あなたの事分かり辛いって言うのよ?・・・笑ってしまうわ」 窓際の席では、夜になると窓ガラスはそのまま大きな鏡になる。それでも山根は強固に外の景色に目をはせた。 「・・・俺はそんなに複雑じゃないぜ」 観念してグラスを傾ける。山根はチラリとだけこちらを見てまた視線を窓ガラスに戻した。 「そうね。でも簡単でもないわ」 本来自分の事である。自分のことは自分が一番分かっているというのが下村の考えだ。それは裏返せば他人に何が 分かるのか、という傲慢な考えに他ならない。けれども他人から見た自分がどうかと言う話になれば、これはまた意味 が違ってくる。 他人の中にいる自分が一体どんな人間かなんて、それこそ理解の範疇外だ。 山根の意図がつかめず益々眉間の皺は増える一方だ。 「あら、そんな顔しないで。別に毎回嫌味を言いにここへ来ているわけじゃないのよ?」 それはつまり今までの内の何回かは、憂さ晴らしに来ていたという事だ。隠す気もない山根の正直さに下村は漸く眉 間の皺を解いた。 「変な人ね」 暗に皮肉を言われて、逆に気を許すなんて。 複雑ではないけれど、簡単でもない。下村にはぴったりの表現だ。 「でもきっと、そういうところに惹かれるのかもしれないわ」 そう言って山根は細いグラスの足を戯れに指先で弄び、偽りなく微笑んだ。 今までの内の何度かの小さな嫌味。その大半がきっとその言葉の中に含まれている。 それでも結局はそれさえも大らかに包み込み、偽りのない笑みを自分に見せることが出来るこの強さを、やはり下村 は嫌う事などできはしないのだ。 「・・・気の毒なだけだ」 「そうかも知れないわ」 テーブルに落とした目の先に、下村と山根の指先が触れ合いそうなほどに近くにある。けれどもこの指が正しく交わる ことは、永遠にないのだと、下村も恐らくは山根も知っていた。 自分たちは似すぎている。 最早近づく事さえ、出来ないほどに。 相手の中の溢れるほどの真剣な何かを、黙って見過ごすことの出来ない愚かさは、多分誰にも理解できない孤独に 他ならない。 気づかずにいれば、そのまま平穏を保つことなど造作もないに関わらず、その細部までをも見ようとしてしまう執拗さ は、疑いようもなく二人の中に深く根付いていた。 自ら死に向かうその背を止められないのは、何かの業か。 或いは罰か。 軽く目を伏せたその目蓋の儚さに、下村は同じく目を伏せ、小さな肩に纏った遣り切れない厭世観は間違いなく自分 と同じものだと思った。 山根はふと目を上げ、つられて下村が顔を上げると、正面から視線がかち合った。深く深く落とされたラウンジの光 が、その奥で密かに光る。普段は勝気を装う華やかな雰囲気は、限りなく透明で、またそれでも美しかった。 「でもあなたはもう知っているのね」 既に手元のグラスは空になり、その手の中には軽く頼りないグラスの重さだけが残った。それは余りにも心もとなく不 確かで、余計に不安を煽ることしか出来なかった。 「・・・あなたはもう、見送ることはないのだわ」 限りなく静かな、幼い頃に見た限りなく静かな湖の様に山根は微かに微笑んだ。 そこで初めて下村はその意味に胸を痛める事を知った。 「もう、私とは違うのだわ」 再び伏せられた目は、自嘲よりも安堵の色で淡く色つき、いっそ憐れなほどにその情の深さを物語っていた。 あるいは寄り添うことも出来たかもしれない。そんな期待があったのだろうか。しかしまたガラスの向こう側へ視線を 流した山根の横顔からはどんな類の感情も見い出せず、そうであれば良かったのかもしれないが、しかし道は別たれ たのだと下村は頭の隅でチラリと思った。 「・・・いつまでも、一人ではいられなだろう」 まるで闇の向こう側までをも見通すような辛辣な視線を、ずばりと山根は投げかける。誤魔化しの余地のないそのあ からさまな縋るような目の中に、本気の困惑を見取って下村は柔らかく頬を緩めた。 「意外?」 頷いた山根の目は変わらず下村にすえられたままだったが、そわそわと落ち着きのない肩が上下している。それが どこか年相応で可笑しく、下村はいっそう目を和らげて微笑んだ。 「別に一人でいることを、好んでいるわけじゃないさ。ただ気が付いたらそうなってた。それだけで」 傍らに立ってはいずれすれ違って行く人を、今までずっと見送ってきた。けれどもそれはあまりにも空しく無意味で、し かし一方で何処を取っても悲しみの感情一つ浮かばなかった。そんな自分を否定したくて、投げやりに何もかもを投げ 捨ててこの街へ来た。 そうすることで自分の中に空いた穴を、上手く埋められるかもしれないと思い込んで、縋りついた。 だがそれはまんまと失敗し、しかし結果として傍らに人を得た。 「そう・・・そうなのね。私が思っているよりもずっと、大切なのね」 「そうかも知れない」 そう言いながらも忌憚なく真実を語る下村を、山根は興味深い鉢植えでも観察するように目を眇め、ややあって諦め た様に安堵の息を吐いた。 「でも、よかった。本当に。一人で居るのは、思っているよりずっと辛いものよ。誰かが傍に居る以上に。きっと」 持ち前の気丈さを遺憾なく発揮するはずの目が、薄い膜の様な微笑で覆われて見る者をはっとさせるほどの暗さを 見せ、下村を困惑させた。 「桜内はフラれるのね」 けれどもあまりにも素直な言葉は下村の度肝を抜き、言葉とそぐわない微笑を湛えた口元をじっと凝視した。 「ふふ。そんな泣きそうな顔をしたってダメよ。ダメ。悪戯にやり過ごそうなんて、考えてはダメよ。私達なんてこんなもの よ?分かってるでしょ」 大人ぶって、でもどこか不器用で、あっという間に理性は感情に淘汰される。気になる話題を目の前にして見逃すこと なんて出来やしない。女の狡賢さを装って、けれどもその目は自愛に満ちている。 混乱はそれでも愛しさを消しはしない。 確かに一人の人間として、下村は山根を好ましく思うのだ。 「・・・フラれたからって、一人で泣いてるような人じゃないしな」 「あら、私は慰めないわよ?」 「お母さんじゃないし?」 「そういう事」 正直いつになっても山根と桜内の関係は理解しがたい。男と女の関係のようであって、しかしどこか男同士の友情に 近いものを感じるのだ。特に山根の桜内へ対する態度には、嫉妬や情熱とは程遠い、一種割り切った理解のような物 を感じる。 しかしだからといって何の気持ちもない訳ではないのは、見ていれば十分分かった。 「本当は、愛人でもないんだ?」 からかうような口調でも、山根には分かってしまうだろう。素朴な疑問であったかもしれないが、何がしかの感情は確 かに篭る。 途端に山根は遊び道具を見つけた子猫のような目で下村を見返した。 「気になる?」 「気になるね」 そう正直に答えれば、山根はカラカラと陽気に笑った。 「そうね、本当は私が女でなければ分かりやすかったのかも知れない。でもどうしたって私達は男と女で、そして桜内の 手の速さはどうしようもないのよ」 あれは一種の病気だわ。 そう言って山根はやはり辛辣な口調とは裏腹の柔らかい目でもって桜内を語る。それが何故か心地よく、下村は邪魔 にならない程度に小さく頷いた。 「正確な意味で、例えば坂井さんがあなたに感じる様な感情を、私は桜内には持てないの。或いは桜内があなたに感じ る様な感情を」 あからさまな表現に下村が絶句する。山根は益々楽しそうに目を細めた。 「今更そんな風に驚かないで。当てずっぽうであんな会話をしたわけじゃないわ。・・・まさかバレていないなんて、思って はいなかったでしょ?」 それでもそこまでズバリと言ってくるとは思わなかった。 興味本位がとんだ墓穴を掘ってしまったと、まさに今更後悔 して、下村は大きく溜息をついて首筋を擦った。 「坂井さんも大概分かりやすいもの。知ってた?お店であなたに近づくと、坂井さんものすごく緊張した顔するの。あれ で気づかない方がどうかしてる」 クスクスと含み笑いを漏らして、小首を傾げる仕種は本当に愛らしいが、けれども言っている内容はとんでもない。 下村は語句が続かずポカリと口を開けて黙ってしまった。 「・・・それは・・・知らなかったな」 どうにか出てきたのは随分と気の抜けたもので、それを捕らえて山根はまた笑った。 「そうなの?てっきり知っていてやってるのかと思ってた。・・・下村さん、思ったよりも鈍感ね」 堪えきれない笑いを逃がすように何度も手首の辺りを握りながら、それでもどうにも浮かび上がる笑いの泡を裁きき れず、山根は苦しそうに何度か大きく深呼吸した。 「まあ、それはよく言われる」 「そうでしょうともっ」 とうとう堪えきれずに山根は声を出して笑いを弾けさせた。 その声は人気のないラウンジに余計に響き、カウンターのバーテンを驚かせた。 「これじゃあ、坂井さんの心配も最もだわ。平気で誰かについて行ってしまいそうだもの」 「俺は子供じゃねえぞ」 「余計に性質が悪いのよ、そういうの」 どうにか喉元で押えた笑いの隙間に、そうやってまた真っ直ぐに言うのはいっそ心地よい。 しかしそれは咄嗟に隠して下村は溜息をついた。 「あんまりバーテンを驚かせるなよ。グラスを落としちまう」 「そんなバーテン、必要ないわ」 笑みは口元に張り付いたまま、さあこれからどうやって遊ぼうかというのがありありと見て取れる。 このままここに止まれば、命さえ取られかねない様な迫力を感じ、下村はうかうかと腰を上げかけた。 「あら、もうお帰り?」 引き止めるような言葉でも、そろそろ引き時であることは重々承知しているらしく、素っ気無い素振りで手を振った。 「今度はお店に寄らせてもらうわ。・・・ここより少しはマシはバーテンさんが見られそうだし」 それに肩を竦めて、しかし思い直したように下村はすうっと手を腹の辺りに寄せて恭しく頭を下げた。 それきり踵を返して去る下村に、山根は至極満足そうに微笑んで小さくグラスを揺らして答えた。 終 タケ的解釈では、山根ねえさんとドクは恋愛関係でない感じです。 なんつーか、共犯者に近いような、そんな感じ。 でも相手に愛着はちゃんと感じてると思います。 |