前を歩く背中を見る。 漸く明けた始めた空の中で、黒い背中はまだ夜の帳を抱えている。 薄ぼんやりと山際や水平線を彼方まで照らすはずの太陽も、その背中にはまだ届いていないようだった。 この背中が好きだ、と思うようになったのは何時からだったろうか。 いつも後ろをついて来たはずの男は、気がつけば前を歩いてこちらを振り返るようになっていた。 もう、お前を見ているだけじゃ嫌なんだ。俺が居ることを知って欲しいんだ。 言われた時、さっぱり意味が分からなかった。 何を言ってるんだ。お前はここにいるじゃないか。 困惑して答えれば、少し傷ついたような目で返された。 ・・・違うよ。居ないんだ。 それきり黙ってしまって、結局意味は分からなかった。 けれども自分の言葉が相手を傷つけたことだけははっきりと分かり、それが随分後になっても気になった。 その頃からだろうか。 坂井が自分の後ろではなく、前を歩くようになったのは。 「・・・この時間は風が穏やかだな」 海の向こうへ目をはせながら、坂井は横顔だけで話をした。 一度は倣うように海を見たけれど、すぐに視線は坂井の横顔に戻ってしまう。 「そうだな」 素っ気無く答えても坂井は気にした様子もなく、また歩みを進めていく。それを怠る事無く追いながら、また光の中で 浮かび上がる一点の闇を、真逆に眩しいような気持ちで眺めた。 二人でいると、坂井は無口だ。 ともすると自分の方が、雄弁であるかもしれない。 けれども坂井はそんな話を本当に楽しそうに黙って聞いているので、ついそのまま一方的に話をしてしまったりする。 そしてこんな風に歩く時は、決まって二人とも無口になった。 時々互いを思い出したように、少しだけ話をしながら二人で歩く。 それはこうして坂井の背中を黙って長い間見ることが出来る数少ない時間であり、とても大切な時間だった。 いつも二人は対等で、人ごみの中を歩く時、二人は肩を並べて足早に歩く。 店の中で坂井がホールに背中を見せることは殆どない。 互いの家にいる時は、振り返れば決まって坂井が穏やかな顔でこちらを見ていた。 だから坂井の背中を見ることは意外と少ないのだ。 「寒いか?」 「いや」 自分の方が余程寒がりなくせに、坂井は決まってこんな風に聞いてくる。気温の変化にあまり頓着しないのだと何度 言っても、思い出したように聞いてくるのだ。初めの頃はそれを一々正していたが、どうやら本当の目的は他にあるの だという事に気がついてからは、その度にきちんと答える事にしている。 それだけで坂井は至極満足そうな顔をするので、それを考えればそう嫌な気分でもない。 数歩離れて歩いていく坂井の足跡を消さないように、少しだけ横にずれながら、なんとなく同じ歩調でついて行く。 坂井は時々振り返ってこちらを確かめ、目を合わせては微笑んだ。 それに口元だけのささやかな変化で返しながら、また歩き出す坂井の背中を追っていく。 角度を上げ始めた光の筋が幾重も重なって足元を照らし、水面の上を弾かれては踊っている。空から差す光より、余 程眩いそれらの灯りを受けながら、何処まで行くつもりなのか坂井は足を止めようとはしない。 歩き始めて多分半時ほど過ぎた頃だろうか。やっと坂井は足を止め、それを少し残念に思った。 「漸く明けた」 ほっとしたようにそう言って、坂井はこちらを振り返った。 今度は肩口から顔を覗かせる方法ではなく、きちんと体ごとこちらに向けて、視線を真っ直ぐにこちらへ投げかけてく る。 それを正面に受けて、そうだな、と相槌をうった。 「手」 「え?」 「繋いでもいいか・・・?」 窺うような目の奥に、水面の光が舞っている。こんな突拍子もない事を平気で言って、けれどもこちらの同意に怯える 様が微笑ましく、黙って傍らまで近寄って、そっとその手を包み込んだ。 辺りはすっかり明るいが、まだ朝には早すぎる時間帯だった。人の通る気配もない。それならば異存はないと思って の行動だったのだが、坂井はびっくりしたようにこちらを見て息を詰めた。 「なに?」 笑いながら問いかける。途端にその目はわかっているくせに、と拗ねたようにそばめられた。 「前嫌がったじゃん、お前。手ぇ繋ぐの」 「そうだったか?」 何時の話をしているのか思い出せなかったが、なるほど言ったかもしれないと思う。坂井は時々困った事を言う癖が あり、そういう時は人の目など全くお構いなしなのだ。だからその度に無言のまま目で黙らせるのだが、多分その時も そんな状況だったのだろう。 別に手を繋ぐことに異論はない。 人目がなければ、別に一日繋いでいても全く構わないのだ。 まあ、時々は離してくれないと、両手を封じられるに等しいので困るのだけれど。 「・・・そーだよっ」 「わっ」 急にぐいっと腕を引かれて坂井の体に倒れこんだ。そのまま肩口に額をぶつけて呻いていると、ぎゅうっと片手で背 中を抱きしめられる。片手は繋いだままだった。 「お前、冷えすぎ。冷てーよ」 こめかみの辺りにすり寄せる坂井の頬は、確かに暖かかった。じんわりとしみこんでくる体温が心地よく、ぶつけた額 は確かにヒリヒリとしたが、放っておく。 気持ちいいほうが最優先だ。 「手だって・・・こっちも手袋すりゃいいのに」 きゅうっと握った手を、親指だけで器用に撫でながら、耳元を擽る坂井の息はほんわりと白く色ついた。何故かそれを 見てから途端に寒いような気になって、暖を取るように体を擦り付けると、僅かに坂井の体が強張った。 「・・・?」 どうしたのだろうかと顔を上げる。坂井の顔は近すぎてよく見えず、確かめる為体を離そうとしたが、首筋に顔を押し 付けられて留められた。 「っあー!もうっ」 「なっなんだ?」 びっくりして鼓膜が震える。意図を測ろうと顔を上げたいのに、坂井はいっこうに力を緩めようとはしなかった。 「坂井、ちょっと離せって・・・」 「い・や・だっ!」 「やだってお前・・・。何言って・・・」 「お前が悪い!」 「な?ちょっ」 今度は反対に急に体を離され、目の前に坂井の顔が迫ったかと思うともうくちづけられていた。 完全に冷え切った唇は感覚がなく、何度も重ねて漸く相手の感触が伝わってくる。 それでも尚、何度も角度を変えては浅く合わせようとする坂井の頭を、ごんっと左手でぶった。 「ってえっ。だから左手は止めろよ!」 「しつこよ、お前」 「ちっ」 不満そうに舌打ちし、でも黙って腕を伸ばして抱えなおしてくる。それは黙ってさせておいた。 そのまま黙っていると、坂井も黙ってしまった。 凪の時間を過ぎたのか、徐々に海から風が吹き込み始め、二人の髪を揺らし、コートを揺らし、砂を攫って山際へ流 れていく。見えるわけもない風の通り道を思って、目を閉じる。そうすると耳元へ直接坂井の鼓動が届いた。 緩やかな、けれども力強く繰り返される命のリズム。 まるで子守唄のように眠気を誘い、呼吸は知らず穏やかに整えられた。 「なあ・・・」 「うん?」 接した体が直接響いて声を伝える。低く響く坂井の声は、とても好きだと思う。 「なんでちゃんと、ついて来るんだ?」 「・・・ついて来ない方が良かったか?」 「そうじゃなくてさ」 遠くから見たら、抱き合ってダンスでも踊っているように見えるかもしれない。揺らぎのリズムを自然と取り始めた体が 微かに何かを伝えるように震えた。 「お前が追いかけているのは、俺なのか?」 声は僅かに震えていた。その声の切実さに、いつかの坂井の声が不意に重なった。 見ているだけじゃ嫌だと言った。 ここに居るとお前は言った。 ・・・ああ、お前は。 思い当たった途端に泣きそうになり、焦って坂井の肩に顔を擦り付けた。 なんと言う馬鹿なことを。そんな事も知らずにずっと、坂井の後を追っていた。 ただ黙って背中を追って歩く自分に、無言のままでお前はたくさんの言葉を語ってくれていたのだな。 そんな事も気づかずに、またお前を傷つけた。 それなのに。 期待か不安か。どれを取っても結局は満たされる。 坂井が大人しく自分の反応を待つ様は、限りなく心を和らげた。 「お前の背中、好きだよ」 そっと体を離して向き合った。坂井の背後から差し込んだ光が眩しい。薄く影をつけた坂井の顔は何も語らなかった。 それでいい。語るのは、今は自分の役目だ。 「お前の背中は、ちゃんと俺を知っているから。黙っていても、お前はちゃんと俺が居ること、分かってるから。だか ら・・・」 頬に触れる。右手は繋がれたままで自由にならず、不快ととられなければいいと思いながら、左手を差し出した。 「お前もきっと俺の背中、好きになる。例えば俺が目の前にいなくても、きっとお前は俺を感じることが出来るはずだ」 ずっとお前を思っているから。離れていても、ずっとお前を想っているから。 「下村・・・」 今にも崩れそうな目元に、やさしくくちづける。冷えた頬よりは幾分か温かな唇は、柔らかく目をくつろげさせた。 「嫌って言っても、勝手に住み込んじまってるよ、お前。全く図々しいよな」 はは、と笑って言うと、坂井は何度か忙しなく瞬いて、子供の様に微笑んだ。 「うん。俺、図々しいんだ。きっと絶対出て行かないぜ」 「自分で言ってりゃ、世話ないぜ」 忽ちに潤んでしまう坂井の目元を誤魔化してやるように、何度でも目元ばかりにくちづけた。 それでもどうしても追いつかなく、結局は雫を手袋で拭ってやると、坂井は慌てて自分の袖で雫を散らした。 「赤くなるぞ」 こすらないようにしてやりながら、今度は唇にくちづける。 坂井は大人しく黙ってそれを受け取った。 「俺、ちゃんとお前の所に居るか?」 息を飲んで、そう言った。確かめる様に縋る目は、痛いほど辛辣で激しく、どんな迷いも誤魔化しも許さない。一刀両 断の刃を思い起こさせた。 それに一度目を閉じ、開き、息を吸い込んで微笑んだ。 「俺のうちは狭いんだ。お前以外、入れねえし。・・・入れる気もねえ」 お前だけだ、なんてあまりにも真っ直ぐすぎて言えなかった。そんな正直になれるほどウブでもない。それでも坂井は 目元をやさしくして、朝日を内包したような鮮やかさで破顔した。 「悪ぃな!体でかくてよ!」 悪気など露とも感じさせない様子でそう言って、全力で抱きついてくるので、慌てて足を踏ん張った。そうでもなけれ ば、波打ち際に倒れてしまう。しかし坂井はお構いなしと言った風情で、ぎゅうぎゅう腕を巻きつけた。 心の中の、その真ん中を きっと ずっと お前のためだけの、特等席にしておくよ。 ヒミツだけどな。 終 補足説明的に。 |