日常会話
(中級編)






















「っはー!やっぱり風呂上がりはビールだな!」
 プハー、と坂井がご機嫌な様子で息を吐いた。 リビングの中央でご丁寧に腰に手まで添えている。風呂上りの体に
スウェットの下だけ身につけ、首にかけたタオルでごしごしと頭を拭った。
 坂井は普段あまり酒を飲まない。酒よりも食が優先といったところがあり、「飲みに行く」というよりは「喰いに行く」とい
う方が正解だ。逆に下村は酒があれば物をあまり口にしない。そうなれば自然とどこへ行っても食べ物は坂井の前、酒
は総じて下村の前といったい調子で、行きつけの店へ行けば黙っていてもそのスタイルだ。
 しかしそんな坂井にとっても風呂上りの一杯は格別なものがあるらしく、働き盛りのサラリーマンの様なその仕種に下
村は思わず笑いそうになって口先で堪えた。
「あんまりビールばっかり飲んでると、腹がでるぞ」
 ソファに座って文庫のページを捲る手を緩めないままそう言えば、坂井はとたんに嬉しそうになって隣に寄って来た。
「出るわけねーだろ。幾つだと思ってんだよ」
「思ってるから、言ってんだろ」
 空になった缶を投げ出して、スルリと首元に鼻先を寄せてくる。まだ暖かい頬と鼻先の冷たいアンバランスさに鳥肌が
たった。
「おい」
 まだ濡れて滴る髪が触れて、襟首がひんやりと湿る。
「冷てーよ」
 右手でぐいっと頭を押し返すと、坂井は不服そうに鼻を鳴らした。
「早くお前も入っちゃえよ。浴室冷えちゃうぞ」
「ここまで読んだら、入る」
 あと三ページ、と先を示す。その間にも文字を追うのを忘れない。振り返りもしない下村に、坂井はもう一度今度は甘
えを含んだ様子で鼻を鳴らした。
「じゃ、風呂入らなくていーよ」
「なんだよ、どっちなんだよ」
 坂井は時々筋道の通らない話し方をする。そもそも、「じゃあ」がどこにかかるかが分からない。
「だって風呂上がるまで、待ってられねーもん」
 そう言ってしょんぼり項垂れた坂井を見て、どうやら「本を閉じさせてさっさと風呂へ向かわせる」という選択が思いつ
きもしないのかと思い、下村は暫しの逡巡の後、溜息と共にしおりも挟まず文庫を投げ出した。
「下村?」
「風呂入ってくる」
 俺も大概絆されたと思いながら、坂井の頭をスルリと撫でて風呂へ向かった。





 後ろから坂井が嬉しそうについて来ているのに気がつかず。





 ピチョン、と水の雫の一つさえも浴室には大きく響いて、途端に坂井の胸は甘苦しく痛んだ。
 そっと触れた下村の肌はもう大分熱い。繰り返されたくちづけに唇は赤くはれている。
「ん・・・・・・」
 手のひらを滑らせようとするのに中途半端に湿った手ではそうも行かず、時折引っ掛ってはそれがもどかしく、しかし
よけいに煽られて坂井は夢中になって下村の体を弄った。
 脇から背中、背中から腰へ、腰からその下へ。もっと、もっと直接的に。出来ればいっそ下村の心まで。
 いつまで経っても余裕の出来ない坂井を、下村は黙っている受け入れる。
 抵抗は無い。罵りも、怒りも無い。
 ただやわらかく抱きとめ、力強く抱きしめてくれる。
 時には甘く声を漏らし、時には愛しさに満ちた言葉をくれる。

 その度に思う。これは今宵限りの、儚い夢ではないかと。

 これ以上無いくらい深く、強く触れ合う時、下村のその目や体は普段から想像もつかないくらいに饒舌だった。
 いつもスカした、作り物めいた顔や表情の乏しい目、本心を語ることの少ないその口から聞けない言葉を、下村は一
晩かけてゆっくりと、あらん限りの行為でもって坂井にくれる。
 シーツに広がる髪の一筋、頑なに握られた白い指先、露になった喉元や、上下する胸。深く艶やかな目や、小さく戦
慄く唇で。
 その一つ一つが今まで坂井が欲した言葉のすべてを教えてくれる。
 だから坂井にとって、行為そのものの快楽よりも、その行為から得られる下村の心のきざはしが、より深く坂井を酔
わせた。
「も、これ以上・・・・・・」
 呼吸の苦しくなった下村の口調はたどたどしくあどけない。
 何度も肩で呼吸を繰り返す様がまた愛しく、坂井は目元を緩ませた。
「ああ。ベッド行くか?」
「ん・・・」
 名残惜しくもう一度くちづけて、下村の手を取る。
 タイルに押し付けていたせいで少し冷えた背中にシャワーをあててやると、まるで猫のように大人しく背中を丸め、気
持ちよさそうに下村は目を閉じた。
「ついでに体も洗ってやろうか?」
 それは流石に殴られたが。








 夜明け頃から急に冷え込み始めた外の空気を嫌って、下村がぴたりと体を寄せてくる。目を覚ましたのだろうかと顔
を覗き込んでも、返ってくるのは穏やかな寝息ばかりだ。坂井は捲れた布団を引き上げて巻き込むように下村の体に
巻きつけながら、肩口にかかった下村の前髪を暫し指先で弄んだ。
 肌を合わせる行為が最後までもつれ込むことはそう頻繁にはない。どうしたって下村の負担が大きく、そう思えば坂
井とて無理強いはしたくない。大概が互いに触れ合って、抱き合って眠ることの方が多いのだ。
 しかし坂井にとってただこうして抱き合い、体温を分け合って眠ることは心地よく、確かにこれが「幸せ」という感情に
値するのかと思うと、何となく気恥ずかしい。男二人同じ布団に包まって何を、という気がしなくもないが、外野がどうあ
れ自分達がいいと感じるならば素直にそう受け取ればいいのだと思う。
 無意識にしろ体に巻きつく下村の腕の温かさは、子供の様に体温が高く、抱きこむほどに暖を取れる事に気を良くし
て、坂井は寄り添うことでは飽きたらず、少しでも体の線に間が空かないようにと体勢をずらして下村を抱きしめた。ま
すます感じる暖かな心地よさにうっとりと目を細め、白々と明け始めた空を無視して目を閉じる。目蓋越しに感じる朝の
気配は濃厚だったが、その中でひっそりとこうしていると、まるで二人きりで閉じ込められたような気分になって面映い。
 本当はいつでもそうでありたいと思っている事は、下村にも秘密だ。
 目覚めの朝の中で、小さな部屋で閉じこもる。そうしてやわらかな羽毛で包んだ空間で、残らず下村のすべてを独占
してしまいたいと願うのは、何と勝手なことだろうか。
 微かな呼気で何も言わない下村の額にそっとくちづけ、願わくばこの小さな一時の中でだけでも、このすべてを与えて
くれと坂井は呟かずにいられなかった。































 終

       







2003/02/08