サンジはゾロの手の中にあるものを見て絶句した。 多分、見間違えでなれければ、あれはもしかして、そんな馬鹿な。 頬の辺りが、かあっと一気に熱くなる。指先は震えて足は覚束ない。頭は熱いのに血が足りないような感じで一瞬目 の前が暗くなった。 貧血か。まったくそれどころじゃないのに。 サンジはどうにか冷静でいようと思うのに、感情ばかりが上手くいかない。 どうやら血の気の失せているのは指先かと、冷たくなったそれを握ってゾロの目から誤魔化した。 ゾロがキッチンに入ってきたのは、夜半過ぎの事だった。 他の皆は既に寝静まっている時間である。見張りの当番でなければゾロもとうの昔に船室に戻っている時間だった。 けれどもサンジがこの時間に起きているのはいつものことで、別段特別でなく、誰でも知っていることであった。だから 逆に言えばサンジと話がしたければこの時間を狙ってくれば確実に捕まえられる。 だからドアに向かって背を向けていたサンジは、足音のわざとらしさに夜番のウソップが夜食を強請りにきたのだろう と思い込んでいた。あるいはつまみ食いの虫か。 しかし口を開きかけながら振り返った先には、決まり悪そうにこちらを見るゾロが立っているだけだった。 「ゾロ?どうした」 こんな時間に、とは言わずとも知れるだろう。よもやサンジの手伝いではあるまい。行儀良く並んだ塊の幾つかを鍋 に放り込んで蓋をした。 「いや・・・・別に。何でも」 何でも無いやつがここへ来たことがあったか。ないだろう。思ったがしかしサンジにしてみれば、ゾロが居て何の不服 もない。普段の素っ気無い態度の方が、よっぽど異論のあるところだ。 サンジは小さく肩を竦めるに留め、椅子に座るように顎で促した。 そうして結局これが所望なのだろうと聞きもせずに酒棚へ手を伸ばした。 「酒もいらねぇ」 それには流石に驚いた。掴みかけた酒瓶を危うく落として割るところだった。 言いながら大人しく従って椅子に座ったゾロの横顔に目をやると、チラリと一度だけ気まずそうな顔でこちらを窺った りしている。 もう一度どうした、という問いかけが出そうになって寸でで堪えた。何度聞いたところで、答える気のない男から引き出 せる言葉など、どうせないだろう。時間の無駄な上にヘタをすればそのまま意に添わぬ諍いにだってなりかねない。 他の誰も居ない場でわざとらしい言い争いなどする気もない。そんなものは昼間のうちに十分済ませている。 だがどう考えても不自然な様子が気になり、サンジの仕度を続ける手も止まりがちにならざる得ない。しかし気を持ち 直し、出来るだけ手早く片付けてしまおうと背中のゾロを意識しないよう勤めた。 風も穏やかな海上で起こる音はごく限られている。その上に浮かぶ小さな船のまたその一部であるキッチンから生ま れる音などたかが知れている。リズム良く繰り返す作業の音だけが二人の間を取りもっていた。 ゾロはといえば、そのサンジの作業が終わるまで何もいう気が無いのか、それとも言うべき言葉など初めからないの かは分からなかったが無言のまま座っている。意識せずとも追ってしまうその気配の暖かさは、サンジを知らず軽やか な気分にさせた。 ざっとシンクのゴミを払い、作業を終了させる。蛇口から滴った雫の音を最後に、サンジのリズムは途絶え、それと同 時にゾロが何度か足を組みなおした。 「何か飲むか?」 酒をいらないと言う男が、他に何を飲むことがあるかと思ったが、居ずらそうな気配ばかりを漂わせるゾロを気遣って の言葉だった。 しかしゾロは予想に反して頷き、小さく「お茶」と言った。 「了解」 その程度の注文などサンジにとって何ほどのものでもなかったが、ゾロは少し困った様な顔をして、受け取る際にあり がとうと呟いた。 それきり何も言わなくなってしまったゾロに、サンジは肘の辺りまで捲り上げていたシャツを直し、テーブルにきちんと 畳んで置いてあったジャケットのポケットから煙草を取り出した。向かい合って座った二人の間に上がる紫煙の先を目 で追いながら、こうしてゆっくりと二人で居られる時間は案外貴重なのだと思い、そうして自分はそんな時間が本当はも っと欲しいのだと思った。 しかしゾロからしてみればサンジの存在はそれほど重要でないことは言うに及ばず、ともすれば存在自体を忘れてい ることさえあるようなふしがある。こうしてわざわざ出向いた理由も、自分が期待するようなことはどうせ何もないのだろ うと銜え煙草の先も項垂れようというものだ。 「もう、終わったのか?」 コトン、と半分まで減った湯飲茶碗を置き、そのままそれを見つめてゾロが不意に口を開いた。それに倣って同じよう にゾロの手元を見ると、茶碗を包んだ指先が白くなっていて、無用な力がそこに加えられているのが良く分かった。 「ああ・・・終わってるが」 しかし問いの意図は分からない。指先でくるりと煙草を弄びながら答え、そこで初めてサンジはゾロが随分と不自然な 恰好で座っている事に気がついた。確かに普通に座っているし、右手はきちんと茶碗を掴んでいる。しかしどうも左腕 の位置が変なのだ。常であれば自然に椅子について体を支えるか、テーブルに肘を乗り上げている恰好になるはず だ。しかしゾロの左手は背中の後ろに隠れてしまっている。その上何故か腹巻に手首から先を突っ込んでいるようなの だ。 そういえばキッチンに入ってからこっち、左手を出しているところを見た覚えが無い。 サンジは首を傾げ、不思議そうにゾロを見ると、どうやら本人も自分の不自然さには気づいているようで、まるで威嚇 するようにサンジを睨み返してきた。 「なんなの」 茶まで出させておいてその仕打ちかと、流石にサンジは眉を下げてちょっと悲しいような顔した。 するとゾロは何か焦った風に目を泳がせ、ますます茶碗を掴んだ指に力を込めた。 「・・・割るなよ?」 「わ、割らねぇよっ」 「あ、バカ!」 途端に手を離したゾロの指先に弾かれて、茶碗が揺れた。くるりと円を描いて落ちそうになる。 ゾロは咄嗟にそれを左手で受け止めた。 「あっ」 「は?」 まずい、とゾロの表情は露骨に言っていた。 何を? サンジの頭には疑問符が浮かび、つられてゾロの左腕の先を見た。左の手のひらの中に、湯飲茶碗はきちんと収ま り、けたたましい音を立てるのを見事に防いでいる。それの何がと思い、サンジは気がついた。 ゾロの手のひらの中にあるのが、湯飲みだけではない事に。 「ゾロ・・・?それ・・・」 それきり言葉が継げない。指した指先を震えないようにするのが精一杯だった。 「な、な、なんでもねぇよ!」 「そんな訳あるかっ!」 思わずそのまま貧血を起こすところだった。 どうにか取り直し、ゾロの近づこうとするのに、ゾロはがたんと立ち上がって離れてしまう。サンジは余裕もなく慌てて よろけそうになる体をテーブルに手をついて立ち上がった。 「そんな訳・・・ないよな?」 一瞬の激情は途端に情けない呟きに消えた。だから、怒鳴り合いたいわけではないのだ。それだって貴重なコミュニ ケーションの一つだけれど、二人きりの時までそんな風に触れることも許されないなど辛すぎる。 ゾロはゾロで困ったように立ち尽くし、まるで縋るような目をするサンジから逃げることを諦めて、ぎゅうと両手を握り 締めた。 「・・・・・・・・・・・・やる」 「え?」 「これ、やるよ」 ぐいっと左手を突き出して、ゾロが手を開いた。そのまま床に落ちそうになるそれをサンジは咄嗟に両手で受け止め た。 手の上には、金色のリボンのかかった、小さな箱がのっていた。 「ゾロ・・・これ・・・」 「やる相手、お前しかいねぇし・・・」 「ゾロ」 「・・・よくわかんねぇけど、貰えば嬉しいものなんだろ」 「ゾロ!」 「わあっ!」 物凄い勢いで飛びついてきたサンジに、ゾロは俯いていたせいで対処が遅れ、そのまま後ろに景気よく倒れてしまっ た。 「なにすっ」 「嬉しい!クソ嬉しいぜ!」 そのままぎゅうっと抱きついて離れないサンジに、ゾロはそのあまりに嬉しそうな様子に黙ってしまった。 そんなに喜ばれるなんて、思っていなかったのだ。 「嬉しいのか?」 「バーカ!嬉しいに決まってんだろ!」 我を忘れているように、そんな風にサンジは言うのに、きちんと倒れるときにゾロの頭をかばっていた。そんな風に分 からないような優しさを、サンジは精一杯ゾロに示すので、ゾロはその端々に気づいたとき、どうしていいのかわからな くなってしまうのだ。 どうしていいのか分からなくて、でも、どうにかしてやりたいと思うのだ。 今だって本当に嬉しそうに、眩しいくらいに笑っているのに、それなのにサンジの目はどこか哀し気だ。 それがもし自分のせいであるのなら、少しでもいい。ほんの少しでも、その色が消えるように、少しでもサンジが喜ぶ ような事をしてやりたい。 ただ、それがどうしても上手くいかなくて。 「ありがとう、ゾロ。ほんとに嬉しいよ」 どうにか落ち着いて、サンジはそっとゾロの額にくちづけた。何度も繰り返し、悪戯のように頬や鼻先、目元にも。 こんなにも些細な事一つで、こんなにも心は浮き立つ。 だって、と思う。だってこの前寄航したのは、十日以上も前なのだ。そんな前からゾロはこの日の為に、チョコレイトを 買っておいてくれたのだ。 バレンタインのチョコレイトを、サンジに渡すために用意しておいてくれたのだ。 夢にも思わなかった突然のゾロの好意に、どうしようもない愛しさや、例えようも無い歓喜が後から後から湧き上が り、押えきれない感情が喉を突いてありとあらゆる言葉でもって、ゾロへの気持ちを語ってしまいそうだった。 ゾロがこちらを見ていないことが、サンジのすべての悲しみの源だ。けれどもこんな風に思い出した時だけでもいい、 ただの気まぐれでもいい。ゾロがこちらをほんの一時でも見ていてくれるなら。 それでいい、とサンジは思うのだ。 黙ってそれを受けていたゾロだったが、不意に腕を上げるとそっとサンジの背中に手を回した。 「ゾロ?」 「そんな目ぇすんなよ」 「目?」 「そんな目、させたい訳じゃねぇ」 ぎゅうっと、抱き寄せて、ゾロはサンジを抱きしめた。サンジは驚いて言葉も出ない。初めから終わりまでとことん行動 の読めないゾロに、サンジは頭の回転が追いつかず、ただ呆然とゾロの肩口に額を擦りつけた。 「お前が喜ぶようにしてやりたいだけだ・・・」 「ゾロ・・・」 「だからそんな顔すんな」 「・・・うん・・・ごめん」 なで、と大きな手で無造作に頭を撫でられる。何度も何度も繰り返す動作にきっと髪の毛はくしゃくしゃになっているだ ろうけれど、サンジはただそれが心地よく、猫のように目を細めて頬をすり寄せた。 「俺もあんたに負けねェくらい愛情込めて、あんた好みのチョコレイトケーキ焼くからさ」 ルフィにやっちまわないで、ちゃんと喰ってくれよな。 抱きしめているサンジの顔は分からなかった。けれどその言葉の中に、たくさんのサンジの気持ちがあると思う。 自分が何のこともなくしていた事や言葉の一つ一つから、サンジが何かを読み取るように。分からないというだけでな く、きちんとサンジの言葉から色々な事を読み取らなければ、いや、読み取りたいと思うのだ。 こんな他愛もない小さな菓子一つで喜ぶということが、たとえ理解できなくても、それでサンジが喜ぶというのなら、そ れをしてやりたいと思うから。 「任せろよ。ルフィには一片たりとも渡さねぇ。残らず俺が喰ってやる」 「おうっ」 溜息のような言葉で、でもしっかりとしたサンジの物言いに微笑んで、ゾロはそっとサンジの頭を解放し、体を起こした サンジと正面から向き合った。それでもやはりサンジの目は今にも泣きそうに潤んでいる。ゾロは困り果てて、これ以上 どうしたらいいのか分からず、目元をやわらかく親指で拭った。 「ゾロ?」 「もう明日のしたくは終わったんだろ?」 「あ?ああ・・・」 さっきもそう言って。続く言葉は途中で途絶えた。見下ろしたゾロの目の中にある種の色を見つけて、続けられなかっ た。 そんな、馬鹿な。でも。 「ゾロ」 「じゃあ、もういいだろう」 「ゾロ」 「なんだ」 「大好きだ」 「俺もだ」 即答に驚いて、けれどもその顔はすぐさま満面の笑顔に変わった。 まるで春先に咲き誇る、匂いたつ花弁のように染まった頬に、ゾロの方こそびっくりして、それでもその目の中にあの 影がない事を認めて満足そうに微笑み返した。 「俺も、好きだよ」 その言葉を空気に溶かすのは勿体無くて、サンジは吐息の一つも逃さぬ様に、これ以上無いくらいの丁寧さでその甘 い唇にくちづけた。 一応バレンタインのお話っていうことで、ひとつ。 |