空はどこまでも青く、白波のような小さな雲が、遠慮深げに二つ浮かんでいた。 「よう」 「おう」 船着場のヘリに腰掛けて、足をぶらぶらとさせていた下村に声をかけ隣に腰掛ける。 待ち合わせていたわけではない。ホテルのレストランから下村がハーバーの入り口を歩いているのが見えて、なんと なくついて来ただけだった。 これと言って話すこともなく、坂井はいくつか係留された船を眺めた。 下村はまた足をぶらりとさせては水面にぱらぱらと散る小さな魚を目で追っている。時々魚にあわせて指先がぴくりと 動き、もしかしたら捕まえる様を夢想してるのかもしれないと思うと、穏やかな気持ちが余計に深まるのだった。 「検診?」 「まあ、そんなとこ」 下村の左腕が真新しいものに変わっているのはすぐに目に付いた。 コートから時折覗く包帯が驚くほど白い。巻きっぱなしの右腕の薄汚れたギプスがそれを一層際立てている。 海沿いの診療所は、まだ運営していると聞く。 実質的に診療を行っているわけではない。 主の居ない建物はしんとし、訪ねる患者がいるわけもなかったが、あの日以来下村が住み着き、そこへ通う形で時折 桜内が車を寄せているのは知っていた。それもそう遠くなく止めざる得ない習慣ではあったが、続けられるうちは元の ままにしておきたいと思う気持ちは、暗黙の了解で何時の間にか精通しているようだった。 川中の言葉によれば、来月の頭には建設の準備が整い、あとは着工を待つばかりとなる。49日には届かぬ日数で はあったが、急げばすぐにでも準備が整うものを、そこまで引き伸ばしたのは、弔いの意味が込められているのだと坂 井は思った。 そして、少なくともそれまでは下村はここに居る。 言い換えれば、そういうことだ。 そして坂井にとっては重要なことだった。 下村がこの街に残るのか、それとも東京に戻るつもりなのか、あえて聞いたことはない。 あるいは桜内辺りならば繰り返す酒の席で、または今度のような診察の合間にでもそういう話をしていたかもしれな い。しかし人づてに聞く気にもなれず、結局今も確かめる術もない。ただ一言聞けばいいものの、どうしても止まってし まうのは、望まぬ答えが返ったときの落胆を、自分の中でどう位置づけていいのか未だに決めかねているからだった。 口の端や目元、こめかみ辺りの裂傷はなかなかに深く、直りにくいのか未だに赤い線を描いて痛々しい。 そういった事に頓着しない性質なのか、下村はいっこうに無関心でひび割れた唇が軽く開かれ、白い吐息が漏れてい る。その度に傷口から血が滲みそうで見てるこっちが痛くなる。咄嗟に坂井は眉を顰めた。 「なぁ」 「ん?」 「まだここに居るか?」 「ああ、まだしばらくは」 「じゃ、ちょっと待ってろ」 そういい置いて、立ち上がる。 目の端に映った下村の口元が、なにか言葉を形作る前にホテルへ走る。 聞かれても、答えるのが恥かしかった。 「これ」 「・・・なに」 急いだことを知られたくなくてどうにか息を整えたものの、ホテルからここへ至る道程が丸見えの状態で、そんな体裁 を繕ったところで意味などない事に気づいたのは、下村にその小さなスティックを渡してからだった。 指先だけ覗いた右手の先に、そっと乗せると、下村は不思議そうにまじまじとそれを眺めた。 「リップ?」 「ああ」 下村はそういったきり何も言わず、じっと手元を眺めている。はあっ、と最後に大きく息を吐いて通常の呼吸に戻して から、坂井は下村の隣に腰掛ける振りで目を逸らした。 「口、切れてるし」 まるで言い訳のようになってしまったかと思い、なんで自分が言い訳などと思ったが、やはり下村の方は見れなかっ た。 こんな気遣いがまるで普通に思いついた自分に驚き、羞恥に自然と頬が赤くなるのが分かった。 「ああ・・・」 まるで今気がついたかのようにふと、左手を口元に持ってゆき、しかしその先がない事に気づいて腕を下ろした素振 りが横目に入る。それに何故か目の奥が痛んで、余計に坂井は下村を見ることが出来なくなってしまった。 「ありがとう」 横顔のままの坂井にそう言って、下村は口元を少しだけ歪めるだけで笑ったが、それでも傷は痛むのか微かに目元 に緊張が走った。 「ああ」 誤魔化すように下村に向けた側の頬に手を添えながら、やっとどうにか振り返る。下村は何時の間にかまた手元を見 つめて、ウンウンと唸っていた。 「どうした?」 「開かねぇ」 確かにキャップ式のリップは片手で開けるのは困難だ。うっかりしていたことに気づいて、坂井は慌てて下村の手から それを取り上げた。 「あ」 「開けてやるよ」 「うん」 頷いて、じっと待つ下村の目は言いつけを守る子供の様にひたむきだ。 そういった小さな素振りの中に下村は時折幼さを覗かせて、その度に坂井はなんとも言えない、不思議な気分になっ た。 「はいよ」 「サンキュ」 そっと向きを正して右手の指に挟んでやる。落とさないように慎重に口元へ持っていく下村の仕種は酷く厳粛だ。まる で何かの儀式のように真剣な様子に、坂井は思わず微笑んだ。 スルリスルリと、丁寧に唇をなぞる。 薄荷の香りが鼻に触れ、その先が下村の唇を描く度、坂井はしだいに胸をざわめかせ、まるで平素の顔でいるの に、胸の中には酷い嵐が舞い降りていた。 混在した物思いは様々な色で胸の中を塗りつぶす。今すぐにどうにかなってしまいそうな心の漣が、大きくなっては離 れ小さくなっては耳元で囁いた。 なあ、お前はどうしたいんだ? なあ、お前はどんな気持ちなんだ? なあ、東京に戻りたいか? なあ、お前は俺のこと、・・・どう思ってる? ずっと感じていた見えない心のただしい答えが、瞬く間に鮮やかな光の軌跡を描いていく。 潮の香りに混じった爽やかで儚い薄荷の香りが、眼前に迫る鮮やかな空までをも塗り替えるような錯覚を覚え、坂井 はただ無心に下村の口元を行き来するリップの先を凝視した。 ああ、俺は、下村が好きなのだ。 終 2003/02/20 トキメモ!坂井自覚編。 |