坂井の手はやさしい。 何度も辿るように背中に添わせた手が、背筋を辿り、腰の辺りを彷徨う。その仕種が余りにも柔らかいく心地よいの で、小さく安堵の息を吐くと、坂井は何度もそれを確かめるように繰り返すのだった。 「辛いか?」 少しだけ早くなった吐息の狭間に、耳元で囁かれる。吹き込む暖かなその感触に首を竦めてやり過ごし首を振ると、 坂井は安心したように首筋に鼻を擦り付けた。 「な、手、握って」 シーツを握り締めていた指を、一本づつ丁寧に解かれる。血の気の引いて冷えた指先にくちづけて、坂井は包むよう に絡めて手を握った。 坂井と寝るのは何度目だろうか。 繰り返すうちに痛みにも慣れ、初めの頃よりか少しは周りを見回す余裕も出来た。 ベットに転がり込み、縺れるように互いの衣服を剥ぎ取って行われたあの最初の夜は、正直なところあまりよく覚えて いなかった。衝撃的な感覚や痛みや熱さ、何度も肌を辿る感触だけが頭の底の方に張り付いている。無理をされた訳 ではなかったが、それでも本来そういった目的で作られていない体には、十分なダメージだった。 結局翌日には見事に発熱し、坂井が泣きそうな顔で部屋に飛び込んできたのは記憶に新しい。 鼻の頭から頬に至るまで真っ赤になって今にも潤んで零れそうな目の淵が、思わず愛しく笑ってしまい、そんな下村 の様子に坂井は安心したのかあっけに取られたのか、その場に腰を抜かして座り込み、あとはカーペットを這い回って 下村の面倒をみたというおまけもある。 ああ、あの時は本当に面白かったと思わず薄笑いそうになった口元が、坂井にそっと塞がれる。そういったあらゆる 行為の裏側にある感情や心情を、今の坂井を目の前にして疑う余地はなかったが、しかしそれを真っ直ぐに受け取る ことは何度繰り返しても難しい。 不実を疑うわけではない。ただ純粋に「何故自分なのか?」という疑問符は離れなかった。 耳元で何度も囁かれる言葉や名前の数々に、何か誤解があるのではないか、そもそも出発点が間違っているのでは ないかと問いかけたい衝動にかられる。そして実際に理解できずに問いかければ、坂井はこちらが見返すのも憚れる ような、真実の目でこの身を貫いた。 そうして返される悲しみや切なさや、伝えきれない見当違いの自責の苦笑を見るにつけ、胸が痛みそれと同時に感じる 陶酔や感慨の痺れは、やんわりと逃げ道を遠ざけ引き返せない方へ導く。 それが嫌なわけではない。事実抵抗する気もない。 ただ。 「下村?」 ぎゅうと背中の腕に力が篭るのを感じ、坂井は不思議そうに顔を覗き込んだ。余程感極まったときでない限り、こんな あからさまな行動を下村が取るのは珍しい。普段からあまり接触を好まない感のある下村のその突然行動に、坂井は 何かあったのかと不安そうに声をそばめた。 しかし肩口に額をすり寄せる恰好になった下村の表情は確認できず、だからと言ってこのまま先を続けるのも心配で ままならない。仕方なく少し力を込めて下から抱きつく体を包み込んだ。 「どうした?辛いなら・・・」 このまま止めても。 そうすれば辛いのは自分だろうに、坂井は平気でそんな事を言う。こんな時ばかりは何よりも下村を優先しようとする から、悔しいのか嬉しいのか、はたまた恥かしいのか分からないまま、下村はその耳元にくちづけた。 「大丈夫だ。ただ・・・ちょっとだけ、こうしててくれ」 恐怖。 多分それが一番近い感情だ、と思う。 坂井がその言動の端々に暖かく明るい感情を覗かせる度に感じるのは、ただ漠然とした恐怖だった。 初めはただ坂井に対して感じるそういった感情を、不快感であると侮った。何かにつけ関わりを持とうとする坂井を、 素知らぬ振りで退けることで上手くかわしてきた。しかしはっきりと坂井の気持ちを聞かされた時に起こった胸の痛み や、手足の甘やかな痺れは紛れも無く安堵であり、快楽であり、喜びであり・・・・・・そして底の知れない真っ暗な闇だっ た。 下村には坂井のいう事が上手く理解できない。 坂井を愛しいと思う。一緒に居られることを嬉しく思う。とても大切だと思う。 しかしなぜ坂井までもが自分をそのように思うのかが分からないのだ。 元々人の好意の裏側を嗅ぎ取る事に慣れてしまった本能は、あるはずの無いものさえ、何度でも確かめようとしてし まう。 裏切りという行為の対極に位置するかのような男にさえも、その裏に「あるいは」と訝ってしまうのだ。 そういった浅ましく卑しい自分を知られることを恐れ、そうすることによって確実に訪れる別れの予感を消してしまいた くて、時に下村は一定以上の距離の接近を坂井に禁じてきた。しかしそれさえも最終的には甘く溶かして難なく踏み越 える坂井に、最近では何を言う気にもならなくなっていた。だが時折現れるそういった純粋な疑問は下村を混乱させ、 その度にまた引き返せないことへの無言のプレッシャーで胸はつぶれそうに痛んだ。 ぎゅうと抱きついたままじっとする下村の髪に坂井は鼻先を埋め、甘えるような仕種で何度も髪にくちづける。まるで 見えない不安を甘く溶かそうとするようなやさしさに、下村は一層その背を抱き寄せた。 「な、下村」 ちゅっとどうにか届くギリギリのこめかみにくちづけ、そのまま耳元へ吹き込むように囁く。こんな時であるのに真昼の ように清爽な声に、下村は少し顔を上げた。 「何でいつも、手袋したままなんだ」 ピクンと下村の左手が途端に坂井の背から離れた。 素肌に触れる布地の感触が、不自然で不快だったのだろうか。 しかし坂井はようやく顔が見えた下村に嬉しそうに笑うと、違うよ、と呟いた。 「握手する時でも、手袋って外すもんだろ。だから、こんな時なら尚更かなって、ちょっと思ってさ」 引っ込めてしまった左手を取り、手袋の上から義手の指先にくちづける。木製のそれはいつもより大分軽かった。 「外しても、いいか・・・?」 目を覗き込まれて、下村は頷いた。 坂井は恭しく両手で包み、そっと手袋を外していく。 実際に手首の先がない自分の腕を見たとき、喪失感は思ったほど感じなかった。ああやっぱり、と思っただけだ。 両手の揃ったときの状態に、未練がなかったわけではないが、失ったことへの後悔は微塵もなく、改めて自分の諦め の良すぎる面を確認しただけに過ぎない。 しかしどんなに言葉を尽くそうと、坂井にその本意は上手く伝わらず、時々少し苦しいような顔をする。それがもし同情 や哀れみの眼差しであったなら、簡単に無視出来たろう。しかし坂井のそれは限りなく澄んで、まるで愛しむような顔だ った。 最初、下村にはどうして坂井がそんな顔をするのかが分からなかった。 下村の場合大体が自業自得であったし、傷を負ったのも、痛みを感じていたのも、失ったのも下村なのだ。坂井では ない。 坂井は手先がとても器用だ。鮮やかで素早い動作で端から色々な物を作り出す。坂井に言ったことはなかったが、下 村はそれを見ているのが好きだった。すべらかで穏やかな、坂井の手が好きだった。 だからもし、坂井の手が無くなってしまったら、哀しいと下村も思う。 だからきっと、坂井もそういうことなのだな、と最近になって初めてそう思うようになった。 だからもし坂井が今度あんな目でこの手を見たら「ありがとう」と言いたかった。「何が?」と問われても、きっと上手く 答えられはしないけれど。 「下村」 手袋を外し、義手を固定していたバンドも外す。残らず取り去った後の手首に、坂井はちゅっとくちづけた。 顔を伏せた坂井の目は窺えなかった。もしかしたらまたあの目をしていたかもしれない。 下村は少し切なくなって、右腕を精一杯伸ばして坂井を抱き寄せた。 「下村?」 不思議そうに坂井が呟いた。しかし顔は上げず、甘えるように左腕を抱えたまま下村の胸にもたれかかる。 坂井の微かな動きにさえも繋がったままの体が反応しそうになるのに、胸の中は不思議に穏やかだ。まるで眠る前 の一時のように心は平行に撓み、いつのまにか不安は姿を消していた。 冷たい頬や鼻先、耳たぶが首筋や胸に触れてくすぐったい。お返しに坂井の耳元を擽り、首筋を撫でると、また手首 に暖かくやわらかな感触が何度か繰り返し触れた。 こうして抱き合っている間、一緒に居るとき。感じるのは紛れもない充足と幸福感だ。 相手の体温や息使い、視線、触れる手、笑ったときの微かな吐息。呟きの穏やかさ。その一つ一つが限りなく尊く愛 しく、例えようもない胸の中の宝物だ。 そうしてこちらを一心に見る坂井の目の中に自分を見つけるとき、それは勝手な独りよがりの姿を捨てる。 光を含んだやわらかな目、やさしく触れるその手に、ゆっくりと下村の暗い心は解かされる。 その心地よさを、もう下村は知ってしまった。 信じることの甘やかさを。 たとえそれが新しい闇を生み出したとしても、もうこの手を離せない、と思った。 この手を失うくらいなら、この身をすべてを捧げても、決して悔いなど残らない。 この手を守るためならば。 「坂井」 「うん?」 目の奥に孕んだ光の虹彩が、覗き込めば手に取るように眼前に曝される。まるでそうして見透かされることさえ恐れ ない真っ直ぐな坂井の目に、下村はいつだって本当はこの身のうちのどこまででも入り込むことを許してしまいたいとさ え思う。 下村の左手を抱え込んだままだった坂井の手を、右手でそっと口元まで引き寄せる。一見してうつくしくさえ見える坂 井の手は、その実細かな傷が終始絶えない。気ままに散らばるその小さな傷の一つ一つに、下村はゆっくりと舌を這 わせた。 「し、下村・・・?」 手の甲を這う艶かしい感触に目元を赤く染めながら、坂井は戸惑ったように下村を凝視した。 常からは考えられない下村の行動が理解できず、しかし嫌なわけもなく、ただどう反応していいのか迷う様子がありあ りと分かり、下村は音をたててくちづけてからその手を開放した。 途端に息苦しいほどの抱擁を受け、下村は咄嗟に息を詰める。勢いを増した坂井の体はどこもかしこも熱くて、まる で太陽そのもののように体を包み込んだ。 手当たり次第にくちづけ、確かめる坂井の唇が耳朶を含み、流れ込むように囁かれる自分の名を、下村はうっとりと 感じながら目を閉じる。 すべての感覚を覆い隠す一瞬は、まるで太陽を見上げたときのようだと思い、暫し目蓋の裏で思い描きながら、その 時を待ってきつく坂井を抱き返した。 2003/02/24 終 はだかてぶくろ。なの? え?あり?全然あり? |