お前は指先を触れ合わせるような拙い動作を、本当に一生懸命しようするので、それが切なくて仕方がないのだ。 「山根が探してたぜ」 振り向いた横顔が夕日に焼かれて真っ赤に染まっている。鮮やかな光が目の奥に入り込んで痛んだが、坂井はただ 目を細めてそれをやり過ごした。 岸壁に腰掛けた位置から見上げて来る下村の顔はあどけなくも無表情だった。 「・・・もう、傷は塞がってる」 隣に坂井が腰を落ち着けたのを確認してから、下村は半分隠れた太陽の姿を追って沖を見た。夕凪を過ぎた入り江 の突端は風が強く、言葉が中途半端に攫われてしまうので、坂井は注意深く下村のかすれた声を拾わなければならな かった。 「そうか」 風下の下村に呟きもきちんと届いたようだった。少し自嘲気味に口元が歪む。坂井はただ引き寄せられるままに下 村の横顔を見ていた。何もかもがあかい時刻では、果たして下村の顔色がどうであるかは分からなかった。風鳴りで呼 吸の乱れも上手く読み取れない。熱は下がっているという話は桜内から聞いてはいたが、僅かな身振りはやはり少し 辛そうで、頬の辺りが少し痩せたように見えた。 「もう大丈夫なのか?」 しかし本来坂井が言うはずのそれを横から攫ったのは下村だった。 真横から不躾に当たる残照にも、下村の目は怯まずこちらを見返してくる。その中に僅かばかりの気遣いを見取っ て、坂井は胸がくすぐったいような気分で微笑んだ。 「肋骨だからな。放っておけば勝手に直る」 いつまでも店、休めないしな。強がりでもなくそう言えば、下村は小さく頷いた。納得した風でもなかったが、それ以上 言ったところで仕方がないとでも思ったのか、それとも聞くだけ聞けば義理は果たしたと思ったのかは分からない。今 度はそのまま顔を伏せて足元の水面を覗き込んでいる。稚魚がワヤワヤと集まって黒い溜まりを作っていた。 強すぎる光は返って視界を狭め、つぶさに眺めていたいと思う衝動を覆い隠す。肌を滑り降りてはところどころに色濃 い陰影を作る太陽は、まるで叩きつけるような光量で辺りを照らしていた。 わき腹をかばって少し傾けられた、下村の体を覆ったコートが風に弄られて端が捲れて忙しない。眺めている間にも 色彩を塗りつぶす光線にチカチカと目が痛んで何度も瞬いた。しかし水面に視線を避難させている下村の瞬きは、極 端に少なく吐息も読めない。その上質感の分からない肌のせいでまるで作り物のように見えた。 だがその体は触れれば確かに暖かく、傷をつければ血を流す。今でもまざまざと思い出せる、下村の素肌の感触、 吐息、血の暖かさ。 そうして改めて思えば全く違うようでいて、本当は深いところで自分たちは似通っているのかもしれないと思い、しかし だからこそ相容れぬ部分ばかりが目立ってしまうのだと思った。 相手に踏み込むこと、踏み込まれること。 坂井は上手に線を引いて踏み込むことを許し、下村は試すことで相手に踏み込む隙を与えている。 臆病な独りよがりは一長一短だったが、坂井と下村とを大きく別った要因は、好むと好まざるとに関わらず、坂井に は阻む壁など気にも留めす、勝手にずかずかと入り込む人間や、誠実な心で心を開かせる人間が居たということだ。 しかし下村の傍には誰も居らず、結果として一人を選んだ。 多分下村の選んだ道は、坂井が思うよりもずっと孤独で、しかし誰にも傷つけられることのない、安らかな場所なのだ と思った。 どちらも真正面から相手に向き合うことをせず、どこか他人のように自分を上から眺めている。しかし少なくとも坂井 はこの街に来た事によって、不要で愛しく、かけがえのない物をたくさん手に入れた。 根底が同じでも環境が違えば人は全く違う道を選ぶものだ。 異なる世界に生きているとばかり思っていた下村を、こんな風に身近に感じるようになったのはそれが分かってきた からだ。 すべてに対して興味のないような素振りが、ずっと気に入らなかった。 その飄々とした無関心さをぶち壊し、その中から何もかも引きずり出し、その本心を暴き立ててやりたいとさえ思っ た。 しかしそう思いながらも、実際に下村の中にある隠れた心に触れる度、坂井は自分の心が漣のように震えるのが分 かった。 思うまま蹂躙したいという残酷さは、何時の間にかただ純粋な興味へと変わっていた。 あの胸の中にあるものの正体を知りたい。 何時の間にかそんな事ばかりを望むようになっていた。 しかし下村の心を捉えて離さないものは、もう既に失われたものばかりなのだ。 そう思えば余計に目は離せず、いつかこちらを見るかもしれないとあてもなく夢想した。 坂井は朽ちかけの太陽を睨み、何かを決するように目を閉じる。 だからあの時、何の躊躇もなくあの場へ飛び込んだ時、葛藤などする暇もなかった時、咄嗟にそれを考えなかったと いえば嘘になる。 失われたものだけがその目に残ることが可能なら。 それならば、いっそ。 そんな空しい、独りよがりな考えはすぐに打ち消した。自傷の空しさ以上に、想像の中で悲壮な表情を浮かべる相手 を慮った。そしてそんな自分が可笑しかった。 憎悪とばかり思っていた感情が本当は違う、もっと違う感情だったのだと初めて知った。 そして本当に憎んでいたのは下村ではなく、下村をそうしてしまったあらゆる人間に対してだった。 今まで誤魔化すために張り巡らせてきたすべての防壁を自ら取り去り、自分の真ん中にある、本当の感情を知った 時坂井は思った。 何故、どうして、自分たちはもっと早く出会えなかったのだろうか。 知らず涙が零れた。病院のベットの上で、隣には下村が寝ていた。真夜中だった。 傷の治療は終わったものの、炎症で熱が出ているはずなのに、寝顔は驚くほど白く、ベットヘッドのあかりの中でその 顔は驚くほど儚く見えた。 以前であれば考えもつかなかった事、否定したかった事があっさりと胸の真ん中に落ちてくる。そう思う度にゆっくりと 思考は波紋を広げ、薄暗がりの中からゆっくりとこちらに踏み出すように、突然霧の晴れた海を行くように、坂井は手 に取るように自分の感情の向かう先を見渡す事が出来た。 あの日のドアの様に、下村の入り口はいつでも開いていた。 ただそれに気づく事が出来る人間は稀なのだ。 差し出した手の冷たさ、呼びかける時の少し低い声、斜に構えた態度、いつも上の空の目、潔いほど冷徹な背中。 何もかもがまるで騙し絵のごとく擬態し、その無表情の裏に隠した本来の下村は、自分が思うよりずっとあどけなく、 素直でやわらかいのだと思った。何かの拍子で零れ落ちるその一つ一つの仕種があまりにも幼く無邪気で、確かめれ ば危うく崩れてしまうのではないかと思われるほど。 それが下村敬という男の、本当の本質の部分なのだ。 あらゆる苦難にさえ揺るがない体を持ち、強固な意志でそれを行使しながら、そっと隠した真っ白い心を持て余す。 多分それが分かっているからこそ、下村を放っておけないと思う人間がこの街には何人もいるのだろう。 自分の傷よりも坂井の傷ばかりを気にしていた男。躊躇なく腹からナイフを抜く男。真っ青な顔で冗談交じりに話す 男。馬鹿みたいにそうやって、己を顧みないほどの無謀さは、返って相手を傷つけることしか出来ないのに、しかし下 村にとってそれは、相手を思う精一杯のやり方なのだ。 それが分かっているから。分かったから、だから坂井は。 眠る下村を起さないように、静かにシーツで頬を拭いながら、詰まって苦しくなる息を殺しながら、ずっと下村の寝顔を 見続けた。 自分と同じでありながら、まったく違う輝きを持つ魂を求める事の、何が悪いというのだろうか。 他の誰でもなく、己の隣に立つのがこの男であればいいと思う気持ちは、まるで遠い昔に別たれた、一対の片翼を捜 すように切実だった。 「なあ、ここに残れよ。下村」 下村が顔を上げる。途端に差し込んだ直射に、目を細く引き絞った。その目が不思議そうに「何故?」と問いかける。 坂井は下村に少し笑い返し、俯いて光の砕ける水面を見た。 くだらないおせっかい。頭に浮かんだ言い訳はすぐに打ち消した。誤魔化す必要はもうどこにもないのだ。 「ウチへ来いよ」 いいとも、悪いとも、今まで坂井は言った事がない。川中に下村をフロアに立たせるのはどうかと聞かれた時、下村 が適任であろうとは答えたが、坂井から直接下村にこの手の話題を振った事はなかった。 それは自分の出る幕ではないという考えもあったし、なんとなくいずれここへ来るだろうという楽観もあったからだが、 しかしその根底にはその場できっぱりと断られたらどうしよう、という不安があったからだ。 「・・・ここに居ろよ」 絡まる数多の糸を少しずつ手繰り寄せるように、その中にあるものに触れるように。 下村を知りたいと思う。上辺だけじゃない、下村さえも忘れてしまったような下村を。 隠さなければならなかった、その訳を教えて欲しい。 下村はじっと考えるように坂井の顔を暫し見ていたが、やがて頭を巡らし視線を外すと、水平線に張り付くように残っ た残光に改めて目を細めた。陰影の深まる横顔が、段々と闇の割合を増やしていくのを坂井は無言で眺めていた。 また笑ってかわされるか、無言で返されるか。川中は随分と手を焼いていたと聞く。この場で色よい返事を期待すの は無駄だと思いつつ、しかしあるいはと思い坂井は目を逸らさずに待った。 「・・・焦らしているつもりはないんだ」 ポツリと下村が呟いた。風にかき消されそうなのに坂井の耳にはきちんと届く。坂井は瞬きもせず、間合いを計るよう に呼吸を繰り返す下村の口元を見ていた。 「ただ・・・・・・そうだな・・・ちょっと恐かったのかも知れないな・・・」 「恐い・・・?」 驚いて、坂井は呟いた。この男が何を恐がるというのか。この、一撃で相手を沈黙させるほどの腕を持つ男が。 下村は自嘲気味に視線を落とし、何度か忙しなく瞬き、今度は暮れかけの空を見上げて喉を反らした。 「ここに居ると、あまりにも居心地がよすぎて、勘違いしそうになる。・・・・・・何もかも、好きなようにやりたくなる」 「・・・やればいいんじゃねぇのか。別に、誰もお前を止めたりしないだろう」 すればいい、好きなように。誰もがそうしているのだから。何故下村がそんな事に拘るのか分からなかった。 そう答えた坂井に下村は吐息で笑ったようだった。風が強くて上手く読み取れない。それがもどかしく坂井は下村の 肩を掴んで体を寄せた。風に攫われていた体温が、互いの間で途端に温度を取り戻していくのが分かる。それが心地 よく、坂井は尚更に近づきたいと思うのを誤魔化さなくてはならなかった。 「・・・・・・そうだな、誰も止められねぇんだ」 空から視線を戻した下村の顔が、思うより近くて坂井は一瞬驚いて顎を引いた。間直に見た下村の目の奥に含んだ 光のきざはしが見える。まるで閃光のように途絶えてはまた輝く様に、坂井はただ見惚れた。 「自分でも止められねぇ」 そう言って目を閉じた下村の横顔に、僅かな後悔が浮かんでいるように坂井には見えた。何に対する後悔なのかは 分からない。この街に来た事へのか。女に対してなのか。沖田に対してなのか。・・・・・・自分に対してなのか。 「坂井」 パッと開かれた目が、急にこちらを見て、坂井は驚いて瞬いた。それに下村は自嘲ではない笑みを浮かべて、目を細 めた。 「返事はお前から川中さんに言っておいてくれ。どうせこれから店で会うだろう?」 「返事って」 「それからキープしてる部屋、一つ空けてくれ。今のところだと中途半端に遠いから。車は売っちまったし、通うにはちょ っと不便なんだ」 「いや、車はスカイラインが。ってそうじゃなくて―――」 「お前そろそろ行かなくていいのか?時間だろう」 「あ?あ、本当だ。ヤベっ。じゃなくて!」 掴みかかる勢いで迫った坂井に、下村は漸く黙って口元を大きく笑いに歪ませた。 「フロアは俺が引き受けるよ。と、言ってもこの怪我が直ってからの話しだが」 「下村・・・」 「よろしく頼むよ、先輩」 「先輩言うなよ。気持ち悪りィ・・・」 言いながらしかし顔の緩むのはどうしようもなかった。中腰になった坂井を下村が上目遣いに見上げてくる。それを複 雑な心境で見返しながら、しかしざわざわと胸の辺りで騒ぎ始めた感情を上手く押えることが出来なかった。 下村が俺の隣に立つ。 下村が俺の隣を選んだ。 坂井は途端に耳の辺りが赤くなり、目の奥が緩むのが分かって、胸の骨が痛むのも構わず慌てて立ち上がった。 「わ、分かった。社長には言っておく」 「ああ。頼んだ」 「じゃあ」 「ああ」 そう言って早々に背を向ける。口元がムズムズとして仕方がない。軽い足取りは、わざといからせた肩で誤魔化せて いるだろうか? 振り向く余裕もないまま、坂井は段々と足早になる歩調を隠しもせず、終いには走る勢いで岸壁を駆け抜けた。 うっかりバイクを置き去りにしていた事を思い出したのは、汗だくで店に着いた後の事だった。 終 2003/03/05 |